| 第二次世界大戦後のツァイスグループの東西分断 |
第二次世界大戦末期、連合軍はヤルタ会談によりドイツ占領地域の分担を決定した。ツァイスグループの事業場が位置するイエナ、ドレスデンといった地域は全てソ連軍の占領予定地に含まれていたが、実際にイエナのカール・ツァイス財団本部工場を占拠したのはアメリカ軍の方が数ヶ月ほど早かった。アメリカはソ連占領予定地であっても、先に進駐占拠したという既成事実により、占領地域変更を目論んでいたのである。しかし、ソ連のヤルタ協定遵守の姿勢は硬く、アメリカの思惑どおりに事態は進まなかった。こうした経緯から、以後、様々な紆余曲折が生じるのであるが、簡単に述べれば以下のようになる。 アメリカ軍は、ソ連軍への占領地引き渡しの前に、ツァイスグループの経営陣・主要技術者を西ドイツのハイデンハイム〜オーバーコッヘンに移転させ、新生ツァイスグループを起こした。アメリカは、ツァイスグループの技術力を当初より高く評価しており、イエナやドレスデン空襲の際にも、ツァイスグループの工場だけは目標から外すなどの措置をとっていたのである。アメリカにとってツァイスグループとは是が非でも手に入れたい貴重な光学技術集団であった。 一方、ソ連軍は、イエナ・ドレスデンなどのツァイスグループの工場、施設、設備機器、そして現場担当者(マイスター)、多くの熟練工を接収し、東ドイツ・ツァイスを人民公社組織 "VEB (Volks Eigene Bertrieb) Carl Zeiss Jena" として再出発させることになった。 この結果、東西ドイツの双方に、ツァイスグループが存在することになり、この両者の間でブランドをめぐる争議が発生した。そのため、西ドイツ・ツァイスは判決が下されるまでの期間、Carl Zeiss を名乗らず、オプトン光学工業 Zeiss Opton を名乗っていたのである。 Zeiss Opton 時代の西ドイツ製テッサーは、人材および設備機器材料などの不足から、バルサム(レンズ結合材)剥離を起こすものが生産されるなど、品質的に不安定なものが多かったという。とりわけ、ベテランマイスターと熟練工の不足は決定的で、戦後しばらくの間、西ドイツ側ツァイスを悩ませたという。 なお、ブランドをめぐる判決であるが、西ドイツ・ツァイスは Carl Zeiss を名乗り、東ドイツ・ツァイスは Carl Zeiss Jena を名乗ることで決着が付いている。両者は、東西ドイツ再統合にともない、現在はひとつのツァイスとして再出発している。 | ||||