長崎

水都・島原

+諫早・大村

(2003/10/17)





●島原           ●諫早           ●大村

●島原

 はるばる長崎県は島原市まで行く機会をあった。複雑に入り組んだ長崎県の中で、有明海を包み込むように垂れ下がった島原半島の東側。有明海を望む位置に島原市はある。至る所で湧水が湧き、水の都としても有名で、日本百名水の一つにも選ばれている。背後には雲仙の山々。雲仙と言えば、噴火と火砕流により、深江町を始めとする町々が大きな被害を被ったことで知られるが、それももう12年も前のこととか。月日の経つことの早さが思い知らされる。ちなみに前に島原を訪れたのは、噴火の前のことだった。
 前日は、島原港前のビジネスホテルに泊まった。朝食前に付近を散歩。ホテルのすぐ隣に足湯が。1年ほど前に、市が整備したばかりだが、初老の夫婦などが数人、足を湯に浸けて雑談をしていた。島原港ターミナルビルは、小西・園田設計業務共同企業体設計、平成10年に完成したばかりの新しい施設。ターミナル前の公園に面したデッキからは眉山の雄大な山容が望める。

島原港足湯 / 眉山 / 島原港ターミナルビル
 島原鉄道島原外港駅から観光トロッコ列車に乗った。子守娘のイラストも可愛いカラフルな車体の列車は、島原駅を出て深江までの間を1日3便往復し、車中案内もしてくれる。話はもっぱら噴火災からの復興の話題。島原鉄道に乗ってしばらく南下すると、眉山の後ろから雲仙の山々が現れてくる。最も近くにそびえるはげ山が、平成3年の噴火で火山ドームが盛り上がってできた平成新山。標高1486m。今では普賢岳を抜いて、一番の高さになってしまった。平成新山から流れ出た火砕流が水無川一体を覆い尽くしていったその痕跡は、今でも鉄道からまざまざと見ることができる。また水無川沿いには大規模な砂防ダムや堰堤が築かれ、さらなる災害に対する備えをするとともに、流れ出た土砂を利用したかさ上げ工事や埋立工事も行われ、アスパラガスなどを主要農産物とする優良農地として再整備がされている。また平成新山に近いあたりは今も立入禁止区域となっており、移転者対策としての住宅団地も3団地建設されている。

観光トロッコ列車 / 普賢岳・平成新山・眉山
 往復約1時間の小旅行を終え、島原の街の中を歩く。まず最初は島原城を経て、武家屋敷町へ。幅員8mほどの未舗装の道路の真ん中に水路が流れ、両側に豊かな緑と石垣に囲まれた住宅が並ぶ。厚さ1mほどもある立派な石垣の上に小石が積み重ねられた塀はこの地区独特のもの。また水路も美しく独特な景観を醸し出しているが、建物自体は市が保存管理する数棟を除いて、それほど古いものではない。水路脇の道を自動車が入ってきて、一つの屋敷の中に入っていったのには驚いた。武家屋敷まち並み保存地区に指定され、将来にわたって道路・水路ともこのままの形で残すことや、町並み保存、道路利用のルールなどが申し合わせ事項として守られているとのことだ。
 島原城をぐるっと回って、アーケード街に入る。商店街の中程にしまばら水屋敷のチラシと地図がくくりつけられた入り口が。木戸を覗くと水と緑の豊かな庭園が見える。湧水を湛えた池を配した住宅の一つで、水屋敷と呼ばれ、所有者の石川さんが喫茶をしながら風情を楽しめる場として公開している。さらに先に進むと、左手に真新しい公園が。この地域は、鯉の泳ぐまちづくり地区街づくり協定が締結され、街なみ環境整備事業により、様々な整備が進められている。この中央公園もしかり、湧水のポケットパーク整備もしかり。鯉の泳ぐまちづくりについて、地元の町内会長さんに話を伺う。昭和50年に市が水路にふたをする下水道計画を発表したことに対抗し、当時町内のソフトボールクラブのメンバーが中心になり、昭和53年7月に町内会として鯉の放流を始めた。初期には鯉の盗難なども発生したが、「泥棒が飽きるまで鯉を放とう」の精神で毎年毎年鯉を放ち、今では島原の観光名所の一つになっている。この地区だけで3000トンの湧水。島原市全体では、63ヶ所22〜3万トンもの湧水があり、昭和56年には井戸水の汲上を規制するボーリング規制も始まり、水を守ろうという機運が高まった。先に紹介した石川邸だけでなく、湧水を利用した庭園を有する水屋敷は市内にたくさんあり、この新町地区でも、1軒を市が購入し、地域住民の管理で公開しているしまばら湧水館がある。また、島原の湧水と水屋敷を愛する会が組織され、水屋敷の借上げや買取り、有効利用等を目的とするナショナルトラスト運動が展開されている。
 アーケード街を戻り、市役所前から森岳商店街に入る。この地区も、七万石坂・上の町両街づくり協定が締結され、古い町並みがよく保存されている。特にこの地区には、島原市まち並み景観賞のプレートと並んで、登録有形文化財のプレートがついた建物が多い。なんとその数、10件。ギャラリー絃燈舎は妻入りの外観が通りの中で異彩を放っている。猪原金物店は隣地が駐車場として開放されている関係で全景がよく見える。2階つし部分の外壁のコテ絵がきれい。清水家住宅は・・・普通の伝統的長屋に見えるけど・・・?中野金物店は大正初期の町家だが、2軒の間を仕切るレンガ造りの防火壁が珍しい。宮崎商店は角地に立つ酒屋で、端正な外観が好感を持てる。路地からは正面に島原城の城壁が眺められ、島原石張りにベンチなどを置いて整備された小路は市民公募により東虎口坂と名づけられている。この小路に面して、酒屋のレンガ造りの煙突と質素な焼酎蔵も登録有形文化財に指定されている。蔵の内部はライブホールとなっており、酒樽やむしろがなかなかいい雰囲気を出している。

しまばら水屋敷 / ギャラリー絃燈舎

猪原金物店 / 清水家住宅 / 中野金物店

宮崎商店 / 東虎口坂 / 焼酎蔵
 さらに進むと、青い理髪店と名づけられた洋館。今は喫茶店。元は理髪店だが、こうして再生されればいいと思う。帰りに、中屋商店六兵衛というサツマイモでできたうどん?に、イギリスという名の海藻でできたかまぼこ、そして白玉を湧水で冷やしほの甘い蜜をかけた寒ざらしを食べる。素朴でおいしい。帰りの電車が出る島原鉄道島原駅舎島原市まち並み景観賞受賞作品。この景観賞、調べてみれば1987年から始めた景観賞で表彰した件数が実に147点。たかだか4万人弱の街で16年もの間、景観賞を継続し、今も30点を越える応募、10点近い表彰作品が生まれるということは実にすごいことと思われる。市民意識の高さを評価したい。

青い理髪店 / 中屋商店 / 島原鉄道島原駅舎

●諫早

 当日夕方の飛行機で名古屋へ帰る予定だったが、島原から長崎空港へのバスは午後1時30分が最終で早く着きすぎてしまうので、島原鉄道とJR大村線を乗り継ぎ、のんびりと空港までの旅を楽しむことにした。諫早からぐるっと東回りに加津佐町まで伸びる島原鉄道の、島原市はちょうど中ほどに位置する。東側に有明海を眺めながら、地元の人が乗り降りする普通列車に乗っていると、町名は有明町、サッカーの町国見町を経て、瑞穂町、吾妻町、愛野町、森山町と続く。車窓は一面、稲刈りの済んだ黄色い色も懐かしい秋の田んぼ。その向こうには有明の海。・・・うとうとしてふと気付くと長大な堰堤が目に映る。あれ、あれが物議を醸した諫早湾の埋立堰堤か、と思うまもなく通り過ぎたが、またその先には海が広がる。堰堤の内側がすっかり干上がってしまったというわけでもないようだ。
 列車が諫早に着く。島原半島、彼杵半島、長崎半島が1点につながる要衝の地に位置する諫早は、長崎街道の宿場のひとつとして賑わった、と書かれているが、駅前は小さく近代化されている。駅前に掲げられた市内観光図を見て、重要文化財眼鏡橋まで歩くことにした。市内の中心を流れる本明川に沿って歩くこと15分強。高城城跡に整備された諫早公園の入り口に眼鏡橋はあった。石造り2連のアーチ橋で、池に映る姿は重厚でなかなか趣がある。天保10年(1839年)築造で、昭和32年の水害後に隣の本明川からこちらへ移築された。
 帰りもまた本明川沿いを歩くが、川の途中にいくつもの石が並べられ渡れるようになった史跡が残っていた。飛び石というらしい。向かいの神社はクスの大木がうっそうと茂る諫早神社

眼鏡橋 / 飛び石 / 諫早神社

●大村

 大村市と言われて頭に浮かぶのは、キリシタン大名大村純忠の名前。長崎空港のある市ということすら今回初めて知ったが、たぶんキリシタン関係の史跡が豊富にあるだろうという期待を持って、駅前に降り立った。しかしそこにあったのは、どこにでもある近代的な都市の姿。観光案内所も見当たらず、空港行きのバス停も見当たらずで困惑しつつ、遠くに見えた県営バスターミナルの古ぼけたビルを目指して歩き出した。閑散としたターミナルにはバスを待つ客が数名、所在なげに佇んでいたが、飛行機の時間にはまだ早く、バスの時刻を確かめた後、交差点に出て、どこで時間をつぶそうかと考える。
 広い交差点ロータリーの中ほどに、ぽつんとある観光案内所を見つけ、地図をもらい話を聞く。歩くには少し距離がある郊外にいくつか史跡もあり、玖島城跡である大村公園あたりはなかなか素晴らしそうだったが、歩いて往復するには時間が足りず、駅前から伸びるアーケード街に足を進める。案内所の女性が「シャッター街になってしまった」と言われたが、その想像を上回る衰退ぶりに本当にショックを受けた。開業している店の数は全体の3割程度。後はシャッターが降り、断り書きやチラシが張られている。アーケード通りの真ん中に島状に置かれた休憩所やテーブルを空しく見つつ歩いていくと、アーケードがT字路に突き当たる。左右に伸びる通りが本町アーケード街。かつての長崎街道だ。左折してすぐにまちかど研究室と看板を掲げた建物があり、大村の歴史的な写真が飾ってあったので入っていく。奥の壁には、空家店舗をマーキングしたらしい白地図と活性化に向けた提案などが書き残された黒板が。奥にいた女性に声をかけ少し話を聞くがあまり要領を得ない。地元商店街が空き店舗を活用して設置した施設で、イベントなどで使われているらしい。さらに足を伸ばすと、今度は空き店舗を活用したギャラリーがあり、子育て支援施設があった。本陣跡という立て札もあったが、それにしても寂しい。

まちかど研究室 / まちかど市民ギャラリー / 子育て支援施設
 大村市の人口は約9万弱。農業や漁業をベースにしながらも、工業誘致なども重ね、着実に人口は伸びている。空港へ向かうバスからの車窓で判断するに、やはりこの街でも、人々が郊外に住みだし、店舗も郊外に移転して、中心市街地は寂れる一方のようだ。空き店舗活用やウインクカードというカード事業など、少し意識のある商店街ならどこでも試みられている事業を展開しているようだが、閉鎖する店舗が圧倒的に多くなって、衰退への坂道を転げ落ちていっているようだ。アーケードという施設が、通常なら閉業した店舗の取り壊し・撤去といったことも阻害し、空しいシャッターが心理的に衰退への拍車をかけている。
 大村の人たちには大変失礼な感想になってしまうが、シャッター・アーケード街という印象が強く残ってしまった。大村湾の静かな水と緑に囲まれた豊かな自然と歴史があるだけに残念でならない。