春日井・下街道・坂下宿

(2007/11/23)


製糸工場名残の細かい格子

 高蔵寺ニュータウン自治会連絡協議会主催のニュータウン・ウォーキングがあったので参加した。高蔵寺NTの中心、東部市民センターに朝9時に集合、9時30分出発。参加者は60〜70歳の高齢者を中心に50名ほど。同行し解説していただいた郷土史家の村中治彦先生を先頭に、キリッと冷え込む秋晴れの空の下、ニュータウン内を西に向かって歩き出す。
 ニュータウンの西の外れ、藤山台集会所の向かいに小さな雑木林がある。そこが「廻間の御嶽さん」。地名は「はざま」と濁るが、先生は「はさま」とおっしゃる。昔からの土地の人はこう呼ぶらしい。江戸時代から盛んになった御嶽信仰は市内にも40余りの社や塚がある。それというのも、1786年(天明6年)、御嶽山への一般信者の参拝登山を容易にする黒沢口の登山道を開き、御嶽信仰隆盛の元となった覚明霊神の生まれ故郷が春日井市牛山町にあり、その影響もあって、先達の手引きの下、多くの講員(御嶽講信者)が御嶽参りに登っていったとのこと。この塚には、「御嶽大権現」と書かれた祠とともに、登山57回といった記念の碑が数基建立されている。
 ニュータウンを離れて田園風景の中を歩く。北に尾張の北東を区切る3つの山、道樹山、大谷山、みろく山が並ぶ。青空が気持ちいい。
 けやき台への南の入口付近に、廻間村の村境の天王様がある。津島天王社の牛頭天王とスサノオノミコトを祀ったもので、疫病退散の神様。社の隣に、馬型と人型の人形が飾られている。斎藤別当実盛大将の人形で、毎年旧暦6月13日には、稲に付く虫を追い出す虫送りの行事が行われている。斎藤別当実盛は源平盛衰記などに書かれている平安末期の武将で、戦の途中、稲の切り株につまずき倒れたため、敵に見つかり討ち取られたことから、実盛は稲に恨みをかけ、稲を荒らす虫になったと言われ、彼の怨霊を鎮めるため「虫送り」が始まったと伝えられている。村内でお祓いした竹笹も集められ、村境に置かれ、悪い虫を村外(ということは隣村?)へと追い払う。
 さらに西へ歩くと、内津川に架かる一色橋を渡る。このコンクリート橋は昭和43年築でそれまでは2〜300m上流を回る6尺道があり、そこに木橋が架けられていたという。また内津川、大谷川ともこのあたりまでは伏流川で、少し下の和泉橋あたりで水が湧き出て合流していたという。
 旧国道19号、今の県道内津勝川線を越えると、いよいよ下街道・坂下宿。曲がりくねった街道沿いに、細かい格子で覆われた背の高い商家が並んでいる。中山道に至る庶民の街道として栄えた下街道の坂下宿は、維新開明後、繊維の街として栄え、多くの製糸工場があったという。長谷川製糸工場跡の向かいには旅籠萬屋跡。ただしこちらは建て替えられ、立て札が立てられるのみ。また、長谷川製糸工場跡の隣の寺沢書店あたりには芸妓置屋もあったというが、今は立て札もなく噂のみ。

妻入りの民家。カスガイパンの看板が懐かしい。
 旅籠米屋跡も立て札のみ。米屋は旅籠であるとともに造り酒屋で、毎年藩祖の例祭には定光寺の墓地へ御酒を献上していた。維新の志士・清川八郎の旅日記にも記述があるという話に、「清川八郎って誰で、どうしてこの道を通ったのか?」という質問が飛び、「清川八郎は米沢生まれで江戸は昌平黌に学び、・・・米沢から母とともにお伊勢参りに向かう途中、この下街道を通り・・・」と、村中先生の郷土史に留まらない博識ぶりが披露された。また、田辺聖子の「姥ざかりの花の旅傘―小田宅子の『東路日記』」に下街道を歩く様子が描かれており、間違いを正す投書をしたことやその後の顛末などの話も面白かった。
 さて、ほどなく、北の外れに。秋葉山の常夜灯の下に自然石の道しるべ。「左 大山さく道 右 江戸ぜんこうじ道」。こうした道しるべにはこれから向かう先が書かれるのが普通という説明に納得。常夜灯は坂下上町のもの。下町、中町の常夜灯は坂下神社の参道に移されている。
 街道の西にある亀応山萬壽寺は明治13年、明治天皇の6大巡幸の一つ、東山道南部巡幸の際、昼食をとられた行在所となった。ただし当時は茅葺きでその後焼失し大正10年に再建、最近屋根を葺き直し立派な姿となっている。この寺は元々上野村(坂下町の南隣)から移転してきたという。
 さらに西へ歩き、坂下神社へ。坂下神社は、依然からこの地にあった神明社と坂下下町にあった八幡社を合祀し、昭和35年に造られた新しい神社。坂下公園が隣接し、春には桜の名所として親しまれている。ここでお昼休憩。
 坂下という地名は、下街道の整備に伴って、江戸時代初期に一色村と和泉村が合併して「坂下新町」として名付けられたのが最初らしい。坂下御殿跡(源敬様)は、元々、和泉村の氏神があった場所であり、初代尾張藩主、徳川義直(徳川家康の九男)が鷹狩りの際に指揮所とされた仮御殿の跡。敷地内には石で囲われた祠の中にご神体が収められ、また丘の上には井戸が残っている。井戸まで残る仮御殿跡は少ないそうだ。徳川義直が亡くなられた後、鷹狩りの勢子として労役を担った村人に報いるため、一色村と和泉村の両村を統合して坂下新町とし、ともに税金を免除する旨の文書が残されている。
 下街道まで戻ると突き当たりの木々の中に「料亭鳴月跡」。養蚕・製糸工場で栄えた昭和初期までは、料亭や料理店が並び栄えていたという。
 街道を南に下がると、道が二手に分かれる。坂を上っていく方が下街道で、左に下がる道は大正時代にバス道として造られた新道。その西側坂上に「日露役記念碑」が立てられている。日露戦争時、百数十戸の坂下町から22人の男たちが出征し、全員が無事帰ってきたことが碑に刻まれている。
 坂を上った先の民家の庭に「旅籠藤屋跡」の立て札。ここが坂下宿の南の端で、ここから汐見坂へと道が伸びていた。
 道を戻って、かつてのバス道を南に行くと、道上に弘法堂がある。大正8年に建立されたもので、伊藤平三郎始め5名が発起人となり、高野山に向かって仏性を迎えることとなり、高蔵寺駅に着いたときには村人総出で出迎え、坂下村まで行列したとの記録が残っているそうだ。弘法大師の春の命日(4月21日)と冬至弘法の際には、臨時バスも運行され、たいそう賑わったと言う。
 戻って下街道を北上。広い現道との交差部には、坂下町となった際の古文書(写真製版)が高札として掲げられている。
 道路を渡りすぐ右側の民家が、永井製糸工場跡。昔ながらの外観がよく残っている、美しい建物だ。
 これでようやく一巡り。帰りは来た道を歩いて戻る。全部で9km。残っている建物は多くはないが、近くの町にもそれぞれ歴史や文化があり、それが今に至るもかろうじて伝わり残っていることが知られた。村中先生の解説もあり、大変楽しい1日だった。
 坂下宿の建物を見ていると、軒受け金物が一つとして同じものがなく、色々な装飾のものが使われていることが目を惹いた。これも繁栄を競った往時の名残かと思うと興味深く観察した。


(参考) 春日井・下街道(春日井〜勝川)