木曽路・桃介・平沢

(2006.8.4)


福沢桃介記念館


福沢桃介記念館(三留野)
漆器の町 平沢

●福沢桃介記念館(三留野)

 久し振りに木曽路(R19)を北上した。9時半過ぎに家を出て、目標は木曽福島の蕎麦屋「くるまや」。妻籠・馬篭を通過してしばらく行くと左手に立派な吊り橋が。そういえば最近復元したかなあとハンドルを左に切ると、瀟洒な洋館と下見板張りの洋館が並んでいる。手前が福沢桃介記念館で奥が山の歴史館。山の歴史館の横には森林鉄道が展示され、奥には桃介橋の旧部材が展示されている。入館料300円。入館すると、私たち二人だけのために、受付の女性から丁寧に解説・案内をしていただいた。

山の資料館 / 森林鉄道 / 渡り廊下
マントルピース / 煙突の装飾 / サンルーム
 山の歴史館は、明治33年に妻籠宿本陣跡地に建てられていた御料局名古屋支所妻籠出張所の建物。その後昭和8年に民間に払い下げられ、移築されて昭和61年まで住宅として使用されていた。国道拡幅とともに南木曽町が寄贈を受け解体保管していたものを平成2年度に復元移築した。役所らしい端正な外観ながら、窓上のペディメントや軒裏の腕木、玄関車寄せの柱頭飾りなどがやさしさを醸している。内部は、「木一本首一つ」といわれた苛酷な江戸時代の林政や明治時代の御料林事件などの歴史資料や林産業関係の展示がされている。留山に立ち入り不法伐採した村人を留め置いた留置所も残っており興味深い。
 裏の山には大きな岩がごろごろ転がり、頻発したという山崩れの跡を今に残す。崖の上には、大きな岩の上にかすかに乗った土からそびえる大きな松が見える。渡り廊下を渡って福沢桃介記念館に移動する。この立派な洋館の柱が同じく大きな岩に乗っているのが見られる。この洋館は、電力王と呼ばれ木曽川の電力開発に乗り出した福沢桃助が、木曽における電力事業の拠点として大正8年に建築したもの。当時はドイツからの技術者や政財界の実力者を迎える迎賓館としても使われ、事業の傍ら、貞奴ともども避暑地の別荘として楽しんだ。エントランス・デッキにパラソルを差して立つ貞奴の姿を子供の頃に見たというお年寄りがいまだ町内に存命だそうだ。館内に展示された貞奴の写真を見ても、日本人離れしたエキゾチックな容貌で、さすが世界でマダム貞奴と人気を博したその様子が伝わってくる。
 福沢桃助と川上貞奴の一生の縁(えにし)とその物語についても詳しく話を伺うことができた。桃介は、埼玉県の片田舎から成績優秀で慶應義塾に進学し、福沢諭吉に見初められ、次女ふさと養子縁組。アメリカ留学から帰ると精力的に事業を展開。東京での事業が行き詰まって名古屋へ進出し、当時の石炭による火力発電から、水力という尽きることないエネルギーに目を付け、木曽川水系に多くの水力発電所を建設した。一方、川上貞奴は芸姑時代から美貌で名を馳せ、長じて川上音次郎と結婚。日本第1号の女優として、欧米を歴訪。高い評価を得て日本に凱旋したが、その後夫と死別。桃介とは桃介が慶応時代にお互い一目惚れしたという言い伝えもあり、要人の紹介もあって再会。東京にお嬢様として過ごす本妻を残し、名古屋で活躍する桃介の事業パートナーとして、外国人や財界要人への接待などをこなし、桃介を後ろから支えた。本妻がいる中で、「自分は愛人ではない。事業パートナーだ。」と公言していたという。こうした二人の生活がかいま見えるこの桃介記念館は、1階に川の丸石を重ねて作られたマントルピースや銅張り床のサンルーム、煙突のレンガに埋められた丸石の装飾、グレーのモルタルを鱗状に荒く塗り重ねた外壁など、随所に桃介・貞奴のセンスが感じられ、大正ロマン香る素晴らしい建物だ。二人が名古屋を撤退した以降も、電力会社の社宅として使われ、その後、小学校の教員寮となり、残念ながら昭和35年に出火し2階部分を焼失したが、平成9年に復元された。2階へ上る階段に面した壁の回り縁の一部が黒々と炭化しており、出火の跡が見られる。
 ざっと小1時間ほど案内をいただき、資料館を辞す。桃介橋は、桃介が建設した発電所の一つ、読書(よみかき)発電所を建設するための資材運搬路として大正11年に架設されたもので、一時老朽化が進み通行禁止とされていたものを、ふるさと創世1億円の資金も活用し、平成5年に復元された。全長247m、幅2.7m。木製吊り橋としては日本有数の長さを誇る。3基のコンクリート製主塔が美しい。下部は石積み。中央の塔から水辺に降りる階段が付いている。
 ひとしきりその端正、雄大な姿を楽しんだ後には、一路、木曽福島「くるまや」へ。
 お腹が充ちたら再び木曽路を北上。奈良井を通り過ぎ、新鳥居トンネルを抜けたら、平沢

●漆器の町 平沢

 これまでも何度か来たことはあり、わが家に平沢で購入した漆器もあるが、この春、重要伝統的建造物群保存地区に指定された、という話を聞き、どんなに変わったかと思って寄ってみた。結論からすると何も変わっていない。街道の入り口に「祝 重要伝統的建造物群保存地区 指定」の横断幕が掛かっていたくらい。それでもせっかくなので、木曽漆資料館の看板が掛かった1軒の漆器屋さんの前に車を止め、妻が店内を訪問している間、ぐるっと町並みをまわってきた。白漆喰に木の柱や格子が美しい真壁造りの町家が並ぶ。2階部分の階高が高いためか、白壁部分が目立ち、木部分の黒とのコントラストが際だつ。2階部分が飛び出るせがい造りの家も多い。
 一番の特徴は、曲がりくねる道路に対して建物がいずれも南面して建築されるため、道路との間に三角の空き地(アガモチという)ができ、各建物の妻面がすらっと並んで見える点。また、建物の間に蓋を被せた水路が抜けた路地状の空間が私が通り抜けただけでも2ヶ所あり、面白い。
平沢の町並み
 車を止めた漆器店「ちきりや」さんまで戻り、妻と一緒に店内・資料を見学。店主の男性に伝建地区指定に伴う地域の取り組みなどについて話を伺った。平沢は必ずしも古い建物が数多くあるわけではなく、近世後期から続く日本有数の漆器生産地としてその生産の場が町の形として良く残っている点が評価されたとのこと。話を聞いた「ちきりや」さんは中でも創業200年を誇る老舗で、かつては主屋の裏側に作業場があり、木地作りから下塗り、中塗り、上塗りなど多数の工程をこなす専門職人が大勢作業をしていたとのこと。その後、これらの職人さんが独立してそれぞれ店を構えるようになり、街全体で分業して漆器生産をする独特の生産体制が取られたという話も面白い。ちなみに「ちきりや」は「千切屋」と書くそうで、千切とは漆器や板の割れを止めるリボン状の木片のことをいうらしい。また京都にも「ちきりや」と名乗る店があるそうで、それは糸を巻き取る部品の名称から取られたとのこと。名前の由来が看板に表現されていた。
 私たちが車を止めたのは資料館の前だが、「よろしかったら本店も見ますか?」と誘われる。資料館はまだ築40年ほど(裏に奈良井から移築した民家あり)だが、本店は築150年。伝建指定に先立ち行われた調査では、現在土間の店舗として使われている部分に、通りに面して和室が二間並んでいた建築当初の間取りを指摘されたとのこと。梁下に溝が掘られていた。今はすっかり現代的に改装されているが、黒光りする漆塗りの棚や壁が美しい。「上がりますか?」と誘われまたまた言葉に甘えてズカズカと上がり込む。上がった間の直上に井戸のように塔の内側がそびえ立ち、真上から光が降り注ぐ。思わず息をのむ美しさ。
ちきりや本店
 ずうずうしくも奥の間に上がり込んだ我々に漆器のグラスで麦茶とお菓子まで出していただく。まったくもって恐縮。床の間は改装した際に床框を一部変えたそうだが、創建以来の床板や床柱は幾重にも塗られた漆が黒光りして、とても150年も経ったものとは思えない。東の中庭に面した廊下の欄間部分にもガラスが嵌められ、和室まで明るい光が落ちてくる。裏山から上る満月を愛でるために、山の端が見える高さまで開口部を明けたらしい。さすが漆器づくりの旧家は風流を解する。
 こんなに迷惑をおかけするつもりはなかったが、突然訪れた見知らぬ旅人にここまで親切にしていただき本当にありがとうございました。おかげでとても楽しい経験をすることができました。隣の奈良井が伝建指定以降、大きく町の姿を変えたのを知っているだけに、平沢は今のまま変わらずいて欲しいと思っていたが、「ちきりや」のご主人、七代目手塚万右衛門氏のような方がいる限り、俗化することなく今の姿をとどめてくれると思う。また木曽路を通るたびに訪れたい。

(参考) 中山道・奈良井/平沢 (2000.9.25/1999.11.23)