”サイ”ってなに? | |||
私は、昭和19年(1944年)生まれです。私のニックネームは“Si ”(サイ)と呼ばれています。 今でも、米国の友達は“Si”と呼び、古い仕事の友達では“サイ”と呼ばれています。 サイは、サイモンドとかの名前に使われています”Sy”のニック名がありますが、私の実名は”Shoji”でしたので、実名の最初「S」と最後の「I」を続けたものが“Si”という名前をもらってニックネームにしました。 昔、当時の米国本社の社長さんからもらったニックネームです。今から40年程の昔のことですがSi(サイ)というニックネームはそのまま今でも使っています。 当時、私たち夫婦は1971年の春に結婚したのですが、会社の社命により6月から4カ月間ほどの期間をアメリカでたった一人で各メーカーの各地にある場所をあっちこっち行ったのです。 社長からこのニックネームがもらったので米国で会うすべての人に”I am Si Araki!”ですましました。 ニューヨークから始まり、シンシナティ、シカゴ、ミルウォーキ、デトロイト、クリーブランド、ボストンなどアメリカの工業地帯をほとんど歩きました。 当時(1971年)、我々日本国人は$の支払いには360円/$であり、1ドルのタバコを吸っても360円いった時でした。1971年12月にスミソニアン合意になり1ドル=308円、それから1973年2月14日に円を変動相場制に移行となりました。 各場所のその途中では、7月4日の独立記念日をワシントンに遊び、別な週末ではバッファローのナイアガラで遊び、というとても良い期間を過ごしました。また、帰国のときにハワイに一日ですが泊まってきました。 360円/$の時で、一人旅行で、新婚さんで、ワイキキでしたのであまり面白くありませんでした。 この会社、国際工機(株)は、米国の工作機械を輸入販売する日本の工作機械販売商社でした。当時は、日本のこの業界では1、2番というすごい会社で輸入専門の工作機械の商社でした。 当時の国際工機の名古屋支店では、トヨタ自動車とか大隈鉄工(当時社名)とかのユーザーにアメリカの工作機械を輸入販売していました。当時は、日本の工作機械で“輸入機械”と言えば殆んどアメリカの商品でした。すべてが日本製の技術がありませんでしたので、日本の機械を米国から買って一生懸命に技術を“みがく”時代だったのです。 Siの仕事はこの輸入工作機械の主に技術関係の担当をしていました。 当時はアメリカのメーカーの技術者がよく日本に来たもので日曜日なんかには名古屋を案内してから Si の家に呼んだことがよくありました。こんな時に呼ばれれていた名前が“Si(サイ)”でありました。 妻の呼び名が“Michy(ミチ)”(名前は道代)でありました。 だから、私もよく妻のことを“ミチ”と呼び、また、奥さんは私のことを“サイ”と呼んでいました。 この“ミチ”と“サイ”の結婚25周年では、会社の休みをもらって初めて“二人の外国旅行”へいきました。友人のWhiteさん夫婦のデトロイトの自宅から始まって、彼等のカナダの別荘へいき、ナイアガラ迄ついてくれました。それから別れてラスベガス(グランドキャニオン)、サンフランシスコ、ハワイの21日間の旅行をいきました。 きっと、この旅行で良い場所や良い人たちがおおぜいの歓迎をしてくれたので Si がこの病気の“脳卒中”になったのかもしれないネ? ・・・・・でも、ミチは初めての外国旅行でとても良かったです。 それからは Si と Michy は多くの海外旅行に続いたのです。 また結婚してから夫婦ともに健康状態は非常に良くて、私も妻もこれと言う病気にもならずにすみました。 歳をとってもめっぽう健康であり、食べ物も何でも食べ、よく寝て、お酒はまったく飲みませんでした。 ただ、若い時からタバコは一日20本は必ず吸うような状態でした。
こんな健康でしたが、50歳代に血圧がやや高いと医者に言われて、各種人間ドッグにも入りましたが99%は健康状態でありました。 その50歳位の話しで、会社の事務所のビルにあったクリニックに毎週通って、血圧のチェックを行いまあした。また、結果として血圧が少し高いので降血剤を飲むようになりました。 私の父親が脳卒中で倒れましたので、基本的には血統的に親から続いたものがあると思っていました。 でも、自分は毎日がすごく健康であって脳出血や脳卒中に対して注意が出来ませんでした。ただただ、タバコだけが節煙や禁煙が出来ませんでした。だから、普通の病気に話を聞くのは癌に対してだけであったのですが、それもタバコを禁煙できるほどの”勇気”がある者ではなかったのです。 近年の色々な健康と病気に対して難しい話しがあれば、その話を避けて通って毎日をタバコを吸いながら生きてきた私ですが、その病気になった今ではそのタバコを禁煙できたのは最低の男でした。 ・・・私の言ってる意味が分かっで頂けるのでしょうか? ・・・今の脳卒中の苦しさをあの時分かっていたのなら・・・ この世に生まれて、結婚して、二人の子供に恵まれて、職場にも恵まれ、友達にも恵まれ、人生の最後に脳卒中で倒れ、失語症で言葉を失ったのは誠に残念です。 |
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職 業 経 歴 | |||
1971年3月 | 国際工機(株)で結婚(社内結婚)。 結婚後は市内名東区の猪子石団地に新居を構える。 この頃、トヨタで最初のオートマチック・トランスミッションを作成することを発表。 当時、国際工機(株)が米国の機械を多数アイシンワーナーに納入。 |
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1971年 〜 1972年 |
約一年掛かって納品。 この時、長期来日をした EX-CELL-O 社の技術者White氏と個人的な友達となる。 また、アイシンワーナーの納入時には連合赤軍の浅間山事件があった。 |
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1972年 5月20日 |
長男が生れる。この頃、初めてMy Carカローラを購入。 | ||
1975年 3月11日 |
次男が生れる。 | ||
1989年 5月 |
国際工機(株)を退職し、英国メーカー日本支社に再就職を行なう。 会社の景気は上がったり下がったりになった。 |
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1990年時代 | この頃からアメリカの工作機械おかしくなり、それと同時に自動車の日本技術は殆んど不要とってなってきた。 | ||
1995年 6月 |
名古屋支店長になる。 Siたちの結婚25周年を記念して妻と二人でアメリカへ旅行をした。 この時、社長の許可があり3週間の休みが出来た。 Jake Wさんのデトロイトへ最初に訪問。その後、カナダの彼の別荘に行きその後にナイアガラ、ラスベガス、サンフランシスコ、ハワイへ行った。 |
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2001年 7月 |
Jake Wさんの結婚50周年を祝い妻とデトロイトへ行く。 その後、ミネアポリスのアメリカ一番大きなShopping Centerを楽しむ。 |
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2002年 3月11日 |
次男が結婚。オーストラリアで結婚式に参加。 私たち夫婦はその後、シドニー、ケアンズを旅行。 |
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2002年 10月26日 |
長男が結婚。イタリアに新婚旅行へ行く。 | ||
2002年 12月11日 |
脳卒中で倒れる。国立名古屋病院に入院。 〜〜〜そして、病気は突然と襲ったのです。 でも、全然記憶がないのですが〜〜〜 |
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- | この日から約3ヶ月の記憶はほとんどありません. | ||
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最 終 離 職 | |||
職 業 | 会社員。こんな輸入工作機械の販売をしていました。 Siが最後に機械関係の仕事に関与していたのが、この会社であり、今も現存しており会社のみなさんが活躍しています。 この会社の商品の日本メーカーとして販売及びサービスをしていました。 これが最終離職のSiの情報です。 |
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英国精密測定機器 米国超精密加工機 |
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☆この文書は完全失語症の私がこのまま作成しております。
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