昔日のゴジラは、何よりも替え難い尊敬と畏敬の対象だった。何処からなのか判然とするはずもない束縛によってがんじがらめにされている社会。その象徴たる厳つい建築物群を、ゴジラをはじめとする怪獣達がいとも簡単に破壊していく様は、少年たちに己の意志を代弁しているかのような感情移入をもたらし、限りない自由へ誘ってくれる導者の役割を果たしていたのだ。
そんな少年たちにとって幸いだったのは、第一期のゴジラシリーズが低学年のうちに終焉を迎えていたことだろう。幼いものたちにとっては、ゴジラがシェーをしても、吹き出しを使ってアンギラスと会話しても、それが世界観を破綻させる重大な行為ではなかった。そうして彼らには最後に見に行った“メカゴジラの逆襲”のラスト、黄昏の大海に帰って行くゴジラの背中だけが、美しい別れとして瞼に残った。
その後彼らは、ザ・ベストテンや噂の刑事トミーとマツなどの番組を見て、地元の球団を応援し、五島勉のノストラダムス予言書に恐怖するような、ごく普通の成長をしていくことになる。そしてあれほど大脳の活動を支配していた怪獣達への思いも、褪せようとしていた。
しかしそんな時、誰かが余計なことをした。“ゴジラ復活フェスティバル”がそれである。
大都市の数館ではあったが、ゴジラシリーズ過去の作品を短期間に一挙上映する企画であり、なんと当時上映不能(オリジナルプリント喪失のため)とされていた傑作“キングコングvsゴジラ”も、喪失部分はあれど上映するという。当時は同シリーズはビデオ化もほとんどされていなかった(あっても破壊的な高値)から、画期的な企画だったのである。
少年達に再び憧憬がよみがえった。だが、好運にも大都市に住んでいた者以外は時間的にも経済的にも、この祭典に参加することはできなかった。
今にして思えば、これを観ておけば、それで済んだのである。それまでのシリーズだって、決して傑作とは言えない出来の物も多い。そんな作品群を無理にでも見ておけば、もはやかつての幼い熱狂とは異なり、無謬なるゴジラ像は崩壊していたかもしれない。
しかし、そんな少年の一人は一本のビデオに出会ってしまうのだ。“ゴジラ伝説”。当時の彼の落胆ぶりを見かねた彼の親戚が貸してくれたものだった。東宝特撮の名場面を、伊福部昭の曲をシンセ調にリメイクしたBGMに乗せた45分のこのビデオが、彼の人生を狂わせた。
重厚でありながらも単純、原始的なリズムを基調とするために、ともすれば単調になりがちな伊福部の曲は、それを幾種類も積み重なっていくことによって広がりを出すシンセサイズによって、ノリの良い、80年代の曲として完全に生まれ変わっていた。それは一年ほど前に出たアルバムのアレンジではあったが、本来の役割であるBGMとして、映像とマッチングした時の効果はもはや計り知れない効果を生みだしていた。
そしてそれほどの曲をバックに流れるのは、過去の作品から抽出した、破壊と戦闘の一大スペクタクル。雄壮にゴジラは闊歩し、キングギドラは画面狭しと両翼を広げる。海底軍艦が浮上し、極彩色にモスラは飛び、火災と狂気の中、ラドンは九州に舞い降りて雄叫びをあげる。戦車は燃えながら吹き飛ばされ、ビルは千万の塵埃に帰し、熱線砲はモゲラと心中する。
破壊と崩壊の美学、少年の頃の憧憬がそのままそこにはあった。物語と切り離されることによってそれらは純粋に、美化された思い出と夢をそのまま映しだすように、それはあったのである。
復活フェスティバルの成功は、映画会社にゴジラの新作を作らせる決定をさせる弾き金となり、新作は実際、小出しにリークされる新情報によっていよいよ現実味を帯びていった。
数年間の堅気生活に馴染んでいた少年が、これに苦しまなかった筈がない。今の生活を続けていけば、自分には普通の人生が送れる。ごく普通の大学に行き、ごく普通の就職をする。ごく普通の女房をもらい、自分と同程度の子供が出来る...。そんな当たり前のレールの上に自分は乗っているのに、静かで穏やかな人生が送れるのに、それを逸脱するのは愚行でしかない。逸脱の先には何がある。世間から烙印を押される“オタク”の階級だけではないか。“でもご主人は普通ではなかったのです”となったら悲劇、“オタク様は磨匠(ましょう・匠の眼を磨くの意)”になってしまうではないか。それを忌避する理性的な考え方は、表層的には十分な説得力を持った。だがその一方で、心は乱れた。一体、澄んでいたはずの心に生じたこの波紋は何なのだ。そうした動揺は、新作公開が近づくにつれ大きくなっていった。まるで時間という存在そのものが地響きをたてて歩んでいるかのように...。
新作ゴジラ公開。少年の中の何かが決壊した。彼は映画館に足を向け、同時に“普通の生活”の軌道から脱線した。
'84版ゴジラ。その後のシリーズを通して最もシリアスで、ドラマもそこそこだったことは確かだ。変な脇役も多かったが、日本に再び核を落としたくはない小林桂樹氏扮する総理大臣の苦悩は確かに伝わってきたし、あっちから声を出す竹内均氏の科学説明は奇妙に説得力があった。特撮も、アングルはしょぼいけど、中野昭義氏(特技監督)のそれは今に始まったことではなかったし、東宝自衛隊(ゴジラシリーズの自衛隊はありそうで無い兵器が多かったので、現実と区別するためにこう称する)を引き継ぐスーパーXは文字通り現実から“浮いて”いた。
圧倒的な力。'84版ゴジラで欠けていたのはそれに尽きる。
がんじがらめに込み入ったシナリオの中でゴジラは好き放題暴れることも出来なくなってしまい、結局、“ゴジラも出る日本沈没”でしかなかった。かつて、少年が童心に感情移入した破壊の象徴たる依り代は、スクリーンの中には無かった。
'84版ゴジラのストーリーでは、“ゴジラの逆襲”から“メカゴジラの逆襲”までの作
品世界観が無かったものとしていたが、その後のこの作品に対する評価はあまりに地味なため、世間からは皮肉にもこの作品自体が無かった物であるかのような位置づけをされている。
そう、それは少なくとも、彼がその後の人生を逸脱したことへの代償とは成り得なかった。だから彼は、見果てぬ夢を追ってその後の作品を見続けることになったわけだし、その度に続く悪夢にうなされることになるのだから。
ゴジラvsビオランテ。映画界の脚本家層がオゾン層よりも薄くなった現在では、シナリオを一般公募した本作が実は最も良く出来ている。見捨てられた“'84版ゴジラ”の設定を引き継ぎ、前作で最大のウイークポイントだった暴れ度の少なさを、対戦怪獣を出す事で解決し、その上でもっともらしさを出すために厳密な辻褄合わせをやったのは、ひとえにこのプロットを応募した“違いの判る歯医者”小林晋一郎氏の功績に拠るところが大きい。
実際、前作で火山島に閉じこめられたゴジラが、無意味な国家間の政治駆け引きの失態から復活する様や、ゴジラとスーパーX2との、大阪中之島での地の利を活かした決戦などは、ゴジラ映画史上屈指の出来で、特撮モノ(を中心とする)評論家池田憲章をして“新マン的怪獣”といわしめたビオランテとの初戦である湖での闘いは、荘厳な雰囲気さえ漂わせていたものだ。(新マン的怪獣とはつまり、帰ってきたウルトラマンに出てきた怪獣のデザインを担当していた池谷仙克氏のデザインしたような雰囲気の怪獣を指す。ウルトラマンなどの怪獣デザインをしている成田亨氏のデザインは角や筋肉の付きかたが生物として合理的であり“それ自体で生存が可能な生物”、これに対して池谷氏のデザインは、ウルトラマンを叩く以外に使用途が思いつかないグドンの鞭腕の様に“ウルトラマンの対戦相手として存在意義を持つ”怪獣であると筆者は考えている。)
そんな素晴らしい展開に、彼は積年の想いを”補完”される日が来たと思われた。だが。
そこには沢口靖子が、いた。
伏兵、沢口靖子。東宝のシンデレラガールの彼女は、既に“'84版ゴジラ”でデビューを果たしていたが、東宝の“売出してやろう”戦略は不幸にも本作にまで及び、あの凄まじいまでの演技(天才てれびくんの子供達より凄い)をまた見せられることになった。幸いにも、女史は映画の冒頭で死ぬのだが、それは結局最悪の結果として伏線に張られることになる。いわゆるあの“最後の10分間”に至るための。
最後の10分間。プロデューサだか監督だかの思想的テコ入れにより、それまで守ってきたシナリオの整合性が破綻する瞬間で、現在ならさしずめエヴァ化とでも言えばよいのだろうか。沢口靖子に全身を浸食されたビオランテが何の前触れもなくゴジラの前に現れ、空中に沢口靖子の花を咲かせて散っていく驚天動地の展開を指す。このシーンを見た者は突然、自分が腰掛けていた椅子の静止摩擦係数が零になるのを感じ、彼もその例外ではなかった。
正常な社会生活を逸脱した彼は、この頃には既にオタク菌にかなりの部分を浸食されていた。この菌は感染すると、物を見る目に独特のセンス(良い物とは限らない)が加わり、作品に対する評価が異様に厳しくなってしまう。だから、善戦した“ゴジラvsビオランテ”のこの失速は大きかった。何故ならこれ以降の作品群は、彼にとって「見果てぬ夢を見ようとして更に先が見えなくなる」ものでしかなかったからである。
ゴジラvsキングギドラ。子供騙しの前シリーズを否定してまで始めた平成ゴジラでキングギドラをどう出すかに期待をしていた彼は、“未来人がタイムマシンでやってくる”という設定に、「家に言語野を忘れてきたのかと思った」。金星人は子供騙しで、未来人は理に適った設定...。
あらゆる怪獣の中で最も均整の取れた怪獣の一つであるキングギドラの変貌ぶりも、彼の頚を傾げさせた。新ギドラは、どことなくパースが崩れていて、全体から発していた威厳が失せていたのだ。それはまるで、“憧れのあの人に同窓会で再会したら、中年太りになっていた。”と言ったところか。
売りだったらしいメカキングギドラも、某雑誌で出渕裕氏(メカデザイナー。パトレイバーなどのデザインが代表的)が片手間に描いたメカギドラには及ぶべくもなく、ただただ不格好を露呈していた。
ゴジラvsモスラ。ザ・ピーナツの代わりをつとめられる人材をどうだすかと期待していた彼は「家に聴覚野を置いてきたのかと思った」。音痴の小美人とは...。
モスラはカビの生えた畳の様に重そうな羽で飛び回り、名古屋はこれまでの怪獣映画で襲われていなかったため、“せっかくだから”とバトラがただ(ほんとにただ)現れる。
バトラについては、前述の小林氏がラフ案として呈示していた“六枚羽の怪獣”が、ため息が出るほど美しかったので、現実を見た時、却ってため息が出た。
ゴジラvsメカゴジラ。アンドロメダ艦隊の拡散波動砲(宇宙戦艦ヤマト劇場版2作目)、ビグザム(機動戦士ガンダムの敵組織、ジオン軍のモビルアーマー)の全門斉射とも並び称される一作目メカゴジラの全武器一斉射撃の“ビジュアル的な圧倒感”を、90年代の技術でどう見せてくれるかと期待していた彼は「視覚連合野を置いてきたのかと思った」。
メカゴジラはロボットなのに、終始ゴジラとの格闘をしなかった。折角作ってもらった手足はジオン軍モビルスーツ整備士の言葉を借りれば、“あんなの飾りです。”となっていた。
メカゴジラは悪役でなければならないのに、それを判っていたのは中尾彬(G対策本部幹部役。怖い顔。「今度こそ」なんて、敵役としか思えないような捨て台詞を吐いてくれる)だけだった。
ゴジラvsスペースゴジラ。ビオランテから出ている小高恵美(超能力少女の役)に“ラブロマンスがある”と聞き、ようやくあのイっちゃった顔ともさよならできると気を取り直していた彼は「目が覚めたら終わっていた」。
環境映像のようにメリハリが無く安眠を誘う展開に、当時ゴジラシリーズに疑問を感じて眠れぬ夜を過ごす日の多かった彼は、見事にその演出の意図を理解し、だからこの映画のことはよく覚えていない。
ゴジラvsデストロイア。平成のゴジラシリーズはこれで完結するという。おまけにゴジラも今回で死んでしまうという。ゴジラの基本的モチーフは核の体現だ。折良く(悪しく)フランスがムルロア環礁で核実験をしたから、まさに身をもってその悲劇を訴えられるのだ。外的にも内的にも好条件がこれほど揃う時はこれ以降無いだろう。作品そのものの情報はなにも無かったに関わらず、今までの負の遺産を吹き飛ばすような作品になる事をほとんど確信して劇場に臨んだ彼は、「家に心を忘れてきてしまった」。
前作までとまるで変わらぬ子供騙しの展開、それでも出てくる小高恵美。かつて実力の差を見せつけていたガメラシリーズが、ギャオスとの戦いをあれほどの情熱で復活させたにも拘わらず、相変わらずセンスのない大河原孝夫(特技監督)の特撮...。ゴジラが体内の核のメルトダウンにより自己崩壊してゆくラスト、感動的と言いたいのだろうがその実、ドラマ的にあまりにも意味なく、ただ無駄に死んでいくゴジラ...。何しに出てきたのかまるで不明だった敵怪獣の意味は、見終わって始めて彼に得心させる。「ストーリーをデストロイしていたのか」
平成の御代に乱発された新作ゴジラ群は、上記のような醜態を晒し続けたまま一応の終結を見た。そんな作品に対する彼の憤慨は、取るに足らぬものだろうか。一笑に付す価値しかないものだろうか。彼には、彼をオタク化せしめた一つのきっかけであるゴジラの無様さを見せつけられるにつけ、彼自身の生き方のバカさ加減を見せつけられているような気がしたのだ。いや、もうバカな道だったことくらい判る年齢に達した彼にとって、これらゴジラはその恥ずかしさを鳴り物入りで宣伝しているようにしか見えなかったのだ。喩えるなら、大学祭での裸踊り写真を、暮れに仲間が集まった毎に蒸し返して見せられるような恥辱といったところか。
だが、と彼はやっとの事で踏み留まる。今の自分にこんな人生を歩ませているゴジラは、本当にあんな駄作ばかりだったのか? 自分が思い焦がれたゴジラとは、あんな愚作中のダイコン役者に過ぎなかったのか?
平成ゴジラシリーズの休眠は、怒りの爆発を暮れの風物詩としていた彼にも落ち着きを与え、彼をして今一度過去について考えさせる時間を与えた。そうして彼は、彼にとってゴジラとは何だったのか、怪獣とは何だったのか、そんなことを考えるようになった。
そして折良く登場してきたのが、USA版ゴジラである。
ハリウッドの各映画会社との交渉に手間どった結果、その構想がはじめて洩れてから数年を経てようやく完成したのが、トライスター版のゴジラだ。
フランスの核実験で突然変異を起こした“爬虫類”ゴジラは、ニューヨークで巣を作る。巨大な体躯と信じがたいスピードで、“駆除”を図る州軍や海軍を翻弄するが、主人公達の通報で“巣”は破壊され、ゴジラ自身もミサイルの直撃に倒れ臥す。
巨費を投じ、高度なCGと大規模なロケにより完成した映像はさすがハリウッドで、人間の視線から見上げる巨体のリアル感や、高速で走り回るゴジラの素晴らしさは、見る者に新鮮な驚きと高揚感をもたらした。軍との駆け引きは丁々発止、乱れ飛ぶミサイルと破壊されるビルは正にスペクタクルだった。
が、それは日本人の多くには拭い切れぬ違和感をもたらした。何故か? あれは怪獣映画ではなかったからである。
ハリウッドはゴジラを現世生物の一種、種(pieces)として捉えた。“爬虫類”の亜種で、“巣”を作って子孫を増やし、人間に害をなすから“駆除”する存在だと。ゴジラは生物なんだから火は吐かないし、ましてやビルを壊すなんてあり得ない。この世にF15より強いものは無いんだから(確かにUFOより強い)、これではゴジラはひとたまりもない!
あれ? と思うのだ。ちょっと待てよと。
街を破壊し、どんな武器も通じない。悪鬼のように人々の頭上を通り過ぎ、壊すものが無くなったら海に帰っていく。破壊は我々の生活圏を蹂躙する行為ではあっても、占領ではない。それが怪獣だ。何よりも怪獣は、独りであるべきだ。怪獣に対して“独り”とは変な物言いかもしれないが、それは間違いではない。怪獣映画において怪獣は、明らかに人間に近い意志を持つものとして描写されるからだ。だから、彼の地のゴジラが振り返ったときの獰猛さ、知性の無さは、彼にそのシーンの持つ意味以上に衝撃を与えた。師を求めた杜子春が、やっとのことで仙人を見つけたらヒバゴンだった。そんな比喩が一番近い。
ゴジラを商品価値としてしか見ていないハリウッドが作るのは、儲かるスペクタクル映画であり、怪獣映画を作ると考えるのは間違いだったのだろう。そんな作品だが、特撮も脚本も悔しいことに新作ゴジラに比べれば100倍も良くできていたから、振りかざした拳骨はやり場なく、前の席のやかましい親子をはり倒すしかなかった。
ハリウッド版ゴジラに価値があるとすれば、彼に怪獣映画とは何なのかを悟らせたことだったろう。
奇しくもその後、ガメラ3が出たことを思えばその意義は大きい。
ガメラ3イリス覚醒。平成に復活したガメラシリーズの3作目。相変わらず足を引っ張ったドラマ部分や、盛り上がらないBGM(でもEDは合っていた)、売りの筈なのに存在感の薄い対戦怪獣イリス。興行的には巧くいかなかったようだし、作品としての完成度も、映画としては決して高くない。だが、
あれは怪獣映画だった。
安寧の日常を過ごす夜の渋谷に、暗雲の上から突然燃えさかる翼が降り注ぐ。ガメラとギャオスがこの街を戦場と選んだのだ。ガメラは降り立つやギャオスに火球を放つが、外した火球はビルを一瞬にして破壊する。なおも逃げるギャオスに火球を連打するガメラ。そしてその度に吹き飛ぶ塵埃の如き人の群。
爆発、激闘、破壊、崩壊。求めたものがそこにはあった。彼がゴジラに、いや、怪獣映画に長年求めていたものの結実がそこにはあったのだ。鬱屈した日常を吹き飛ばす夢のようなシーンが、そこには展開されていたのだ。それは余すところ無く、いや申し分なく、怪獣映画だった。
だが彼はその時、彼は感涙に咽んだろうか。求めていたものの充足に、恍惚としたろうか。答えは否だった。そしてそのことを一番意外に感じたのは、他ならぬ彼自身だった。
怪獣は、街を壊すもの。強いもの。死なないもの。そして、独りのもの。そうでなければならない理由は、わかってみれば簡単なこと。それが自分だったからである。恋愛映画のご都合主義に冷笑しか持てぬ彼にとって、矛盾しかないこんな社会をなお護ろうとする正義のヒーローに楽天思想しか読みとれぬ彼にとって、劇中のキャラクターの行動に共感できるのは、孤独と寂寥から悲痛の咆吼をあげ、八つ当たり気味にこの社会を否定する怪獣だけだったのである。ゴジラの火炎は彼の意志、ガメラの破壊は彼の行動。かつてそれは一糸乱れぬ同調だったのに。
久方ぶりに一体化した彼の大怪獣は、確かに彼を渋谷の破壊に誘った。だが、同時にそれは、鏡の向こうの自分の痴気を悟らせることにもなったのである。
ガメラ=オタク者、それはつまり、街中で迷惑を掛けている=世間に迷惑を晒しているという図式であり、社会に対する迷惑と化した自分を見ていることなのだ。
脚本の伊藤和典氏がこれを意図していたのは確実だ。何故ならこれ以降のガメラは、人間から中傷され攻撃され、かつてヒーローと称えられたことなど夢だったかのように迫害されるからだ。それは“若さ”ということで見逃される年齢を通り越してなおオタクを続ける者に対する世間のそれと驚くほど一致する。そうして渋谷決戦以降の戦闘シーンは痛々しいほど、オタクの未来の暗澹とした運命を呈示してゆく。だが、ラストの伊藤氏のメッセージは更に痛烈だ。それでも映画を見続けていたどうしようもないオタクに対し、1000匹のギャオスをぶっつけて映画を締めくくるのだから。それはこう言っている。
「この1000匹と闘いたいなら、一作目を1000回見るんだね。」
オタクはもう過去にしがみつくしかないというわけだ。
あれから1年以上経った。打ちのめされた彼はどうしただろう。なるほど彼は、今でもゴジラ2000など見て軽い怒りを感じなどするが、それは往年の烈火の炎には及ぶべくもない。怪獣への同化という、怪獣映画の見方の大きな部分を過去に置いてきた彼には、それが精一杯だったのだろう。それは彼自身を驚かせるが、それが大人なのだろうかと、妙な納得をしているのも事実だ。
少し寂しく気恥ずかしく言えば、彼の怪獣への思いは、ありし日のゴジラのように、黄昏の太平洋に溶けていったのである。