その時を境に、筆者の認識が変わったことが一つある。「見ていないテレビはスイッチを切っておこう。」ではなく、「トイレを我慢しちゃいけないよね。」でもない(いやこれは正しいんだけどね)。
流れ星ってホントに儚いんだなぁ。
きざに聞こえたら“一瞬”と言い換えてもいい。もっと科学的に、“コンマ数秒”と言い換えてもいい。筆者がこれまで漠然と認識していた流れ星の寿命と比して、実際のそれはあまりにも短かったのだ。
流れ星のイメージで、皆さんは何を思い浮かべられるだろう。さすらいの旅人。古いねあなたも。5隻の戦艦を沈めた...ってそりゃ赤い彗星でしょ。そうじゃなくて、もっと素直に言ってくださいよ。ゴホン。
願い事、である。流れ星に願いをすると、その願いは叶う、というものだ。
本稿はこの“星への願い事”について考察したものである。
さて、まず願い方を取り上げる。
この願い方、所によっては流れている間に三回唱えなければならないとしているところもあるが、流れ始める時間が不特定な上に上記の如くコンマ数秒でしかないから、これはほとんど不可能といわねばならない。知人は「カネ、カネ、カネ」なら言えると言っていたが、これでは主語と動詞が無いから、“誰か別の人が鐘を突くようになる”という形で実現されているかもしれず、願った当人の思いからは全く外れているといわねばなるまい。
世界の言語のどれかには、「僕は立ち食い蕎麦屋マッハ件のスペシャル大盛りが三分で食えるようになりたい。」と言う願いを“サル”と表現するところがあるかもしれないから、そういう言語によって表現する手もあるし、新たにそういう表現を作ってしまうという方法なども考えられる。
しかしまぁ、上記の考察程度のことはこれまでに誰かが思いついていても良さそうだし、実際に試みた人もいるかもしれないが、いずれにせよこの方法が成功していないことは、世界人類がいまだ平和になっていないことに思いを到らせるだけで十分であろう。
テープで予め吹き込んでおいたものを早回しするということも考えられる。だが、人間の耳は速い音便変化にはなかなかついていけるものではないので、三倍以上の速さにすると、ほとんどただの雑音になってしまうのだ。いや、願い事は星に伝えればいいんだから、人間が聞くことが可能かどうかはここでは関係が無いんだという反論があるかもしれないが、自分が聞き取れない音を流れ星に聞かせてよいのか、そもそも人間が聞き取れない音を流れ星が聞き取れるのか、さらにそもそも流れ星に日本語がわかるのかについては甚だ疑問になってくるのであり、あまり現実的ではない気がする。
願い方の考察は後にもう一度触れるが、ここで一旦中断しよう。これ以上の継続は、おそらくどうどう巡りで行き詰まっていくように思えるからだ。これを打開するためには我々はそれよりも、ここでもう少し突っ込んだ所を考える方が、その糸口を見つける可能性がある。
ということで次に考えるのは、“流れ星はどうやって願いを叶えるのか”というものだ。すなわち、“流れ星に願いを唱えてからそれが叶うまでのメカニズム”を考察するのである。ここで議論すべきは大きく二つに分かれる。すなわち、1.願い事を聞き届けるのは流れ星、という意見と、2.そうではない、というものである。先述した人間が聞き取るうんぬんという議論はここに絡んでくる。
まず、1.の、願いを叶えるのが流れ星自身だとする場合から考えてゆこう。考察はやがて2.を巻き込みながら進めて行くことになる。
さてこの場合は、流れ星自身が何らかの力を持っていると考えられる。宇宙に漂うあらゆる隕石や岩塊では駄目で、そうではなく“流れ星”にその力があるとすれば、それは前者が内在しているような位置エネルギーではなく、落下のときに増加する運動エネルギーか、大気との摩擦熱で白熱することで生ずる熱エネルギーのどちらかということになる。
だが、流れ星は大気圏以前に燃え尽きることを考えれば、運動エネルギーということは考えにくい。そもそも運動エネルギーをもらっても、荷車を引いて坂道を登るおばあさんがいなくなった現在では、その使い道に困ってしまうだろう。(ちなみに、現在ではそういう場合、トラックを使う。)
熱エネルギーが願いを叶える源であることがこうした消去法から類推される。とはいえ、じかに発散する熱エネルギーでないことも判るだろう。というのも、周囲に発散した熱量は、流れ星の軌道からせいぜい数百mの空間を熱することができる程度であり、筆者の経験からすれば、流れ星が流れたからといって周囲が春のように暖かになることは無いのである。熱エネルギーで我々に届くのはしてみると、発光しているときに生ずる光のエネルギーだけであることがわかる。流れ星から発せられた光子が、我々の願いを叶える元である可能性が、こうして濃厚になってきた。
しかし、ここで気になることがある。目に入る光子が願いを叶える力を備えているとすれば、その光子はどの時点でその者のお願いを知るのだろう。先述したお願いの方法にも絡む重要な問題なのだが、この場合どう考えても、光子が我々の元に達している段階では遅いということが判るだろう。我々が見ている時光子はとっくに流れ星から離れてしまっており、1.“流れ星が”お願いを叶えるのだという前提から外れてしまうからである。では、お願いは流れ星になる前にすれば良いのか。宇宙飛行士に頼んでおけば良いのかというと、それもおかしい。何故なら、宇宙に漂ううちのそれは“流れ星”とは言わないからであり、これも1.の前提、“流れ星”にお願いしたことにならないからだ。(これはただの“宇宙のゴミ”に話し掛けているに過ぎない。)
結局、流れ星になったときにお願いを叶える力が生ずるとすれば、それまで単なる宇宙のゴミに過ぎなかったものが流れ星になるその瞬間に立ち会ってお願いをする必要があるということになる。つまり、正確に流れ星にお願いを聞き届けてもらう方法とは、宇宙のゴミと一緒に地球に落下し、それが大気との摩擦で白熱して“流れ星”となったときに、まだ燃え尽きていない核に対して話し掛けるということなのである。昔日の人々の願いが叶えられないのもむべなるかな。
こう考えてくると、先述した疑問のいくつかは解消する。というのも、こうまでしても頼み込むという姿勢を流れ星に対してアピールすることが重要だとすると、話し掛けるという行為に阻喪があってはまずいと考えられる。となると、やはり自分の口で喋らねばならないだろうから、流れ星に並行してテープを落とすなどという行為は失礼にあたる。すなわち、先述したテープで早や回しとかは却下されることになる。(日本語の件は? と聞かれると筆者も困るのだが、星々を巡ってきた遍歴を考えると、流れ星は国際的なのだと考えるほかない。)
流れ星が光る時間が不特定であるという、願いを唱えることの困難さの一つはここでは克服されているものの、この方法を採用することは、それを凌駕する苦難が倍増してしまうのは、甚だ残念なことである。大気圏突入時の凄まじい轟音の中でお願いを話すだけのオペラ歌手以上の大声が必要だし(しかも黒柳徹子よりも早口)、数千度を越す熱の中で心頭滅却する精神力もまた必要だからだ。そもそも気を抜くと自分が燃えつきかねない。
ザクには大気圏を突入する能力は無いことが、困難に更なる拍車をかけている。
さて、願い事を流れ星に伝える方法をつきつめた結果、どうにも実現が困難な結論を導き出してしまった。であるが、よくよく考えてみると、もしこれほどまでに難しい手続きを経てお願いしなければならないとしたら、有史依頼願いを聞き届けられた人はおそらく皆無になってしまう。いくらなんでも数千年も無意味な祈願をしてきたとは考えにくいから、ここまでしなくとも願いを叶えられた実例はあるのかもしれない。となると、我々はここに、考え方のアプローチを少し変える必要がある。
先ほど、流れ星が願い事を叶えるエネルギーを我々に与える媒介物として、流れ星が光るときに発する光子がそれであるという結論をしておいた。ここで筆者は、流れ星が光子を発する以前に願い事を聞き入れていなければならないという問題を提起したため、上述したようなとんでもない結論に行き着いてしまった。だから、ここでこの、すなわち1.願いを叶えるのが流れ星自身である、という前提から離れ、2.願いを叶えるのは流れ星以外のモノか、に考察を移してみよう。
(光子に話を限る前に、面白い考え方がある。流れ星が落ちるところを見ればそれでよいのなら、流れ星を見ることに対してタイムラグがあってもよいのかというものだ。つまり、これが許容されるのなら、流れ星をビデオに撮っておいて、それを見ればいつでも好きなときに願いが叶うということになる。確かに、流れ星を見ることが重要であり、流れ星そのものには関係ない。というような前提からは、上記のような発想が可能であるが、流れ星を見せることでお願いを叶える商売ができてないことや、星空のビデオが大好評で売れに売れて、とはなっていないようだから、どうもこれはあり得そうにないとわかるのだ。)
願いを叶えるのが流れ星ではない場合、これは換言すれば、お願いをした自分自身が願いを叶えるのだということになる。流れ星に由来する光子が体内に入り込み、願い事と相互作用をすることでそれを実現に向かわせる、というものだ。しかし、発せられる光子はただの素粒子、突き詰めればエネルギーの塊ではない。そんなものが、それを見た者の願いをほんとうに叶えることができるのだろうか。この疑問に対し筆者は、“流れ星から発せられた光子には何らかの力が付加されている。”のではないかと考えている。
この考えの解明には、常識の打破が不可欠となる。というのも、物理学の常識として、素粒子は同種のものは“完全に”同じで、他と区別することは出来ない、とされているからだ。(これを利用してデンマークではテレポート装置を本気で開発している。)が、筆者はそれでもなお、特別な光子とは存在しうると考えている。何故なら我々は既に、網膜に達したある光子については、時に他のそれとは明らかに別の何かを含んでいることを、経験的に知っているからだ。
筆者なら本屋かCD屋(最近ようやくレコード屋と言わないようになった。)なのだが、とにかく何らかのショッピングに行くと、時々店内のある部分が光っているという現象に出くわす。そして不思議なことに、その場所に近づくと、そこには必ずと言っていいほど魅力ある商品が並んでいるのだ。こうしたこと、みなさんも多かれ少なかれ経験しているのではなかろうか。
離れているところからでも感じ取ることが出来た程のその光は、発せられている本体を目の当たりにでもすれば、その輝きたるや眩いばかりとなる。そしてそうなったが最後、人はそれに魅入られ為すがままになってしまい、絶大な吸引力を伴ったその光に抗うことは尋常な精神力では為しえない。そしてその力に屈してしまった結果、光の発生源を手にしたままレジに並んでいることとなる。
我々の間で通称“買って買って光線”とされるその光は、他の物体から網膜に届く普通の光子とは我々の精神に及ぼす影響は明らかに異なるものであることがわかるだろう。その違いは現在のところ明確な形で測定できてはいないのだが、あるいは我々が現代科学で解明した4つの物理力とは別の物理法則が介在していることすら視野に入れなければならないやもしれない。
さて、本題から外れてしまったようだがそうではない。何故なら、こうした精神に物理的な力を及ぼすことのできる特殊な光子が持つ謎の力こそ、流れ星から発せられた光子の中に存在するのではなかろうかと、筆者は考えているからである。
流れ星産の光子が持っている未知の力は我々の精神を介在して我々に物理的な力を誘引する。
流れ星と願いの謎はここに結論付けられると、筆者は考えている。勿論具体的に物理的な力を測定できたわけではないし、本当にそうしたものがあるかどうかの保証さえない。
ただ、我々が流れ星を見たとき、我々の網膜に達した光子から、ちょっとした感動とか、ちょっとした勇気とかを貰うことは確かなのである。悠久の時以来、挫折しかけた境遇の者にさらなるもう一歩を踏み出す力を与えてくれるそうした光が、何の力をすら持っていないなどと、誰が断言することができようか。
遠からぬ未来の科学に解明の期待を馳せるのは、光の持つ神秘の力に対してだ。それはとても淡く儚いものだが、確かに人の運命を動かすことのできる輝きなのだ。
しかしこうしたメカニズムが判明したからといって、あまり大きな願い事をするのも考えものである。それは金の卵を産むニワトリ然り、米を生み出す地蔵然り。何故なら、受け取る光子の量が多ければ良いということで、とっても巨大な流れ星が見たいなどと欲を張ると...、地球が滅亡してしまうからである。