さて、では本格的に人文分野に量子化を当てはめることにしよう。人に関わる波のうちで忘れてならないのは何と言っても感情の波である。それは個人の人格の根幹をなすものであるが、同様に環境に左右されやすいものでもあり、これも人と人の間で場を考え、更にそれを粒子化することによって見えてくるものがある。
わかりやすい例を出そう。今とある場所に一人ふざけた行為をするものがいたとする。この近くを他人が通過しようとする場合、一般的にこの者を避けるような軌道を取るが、この避けるとき半径は、その者(発信者)から感じ取れる異様な雰囲気に比例して大きくなるものだ。ここでこの現象に場を考えると、発信者はそこに存在することによって“狂場”を発生させており、更に近づいた人間に対して“狂力”を及ぼすことがわかる。(ちなみに、これは斥力である。)これが粒子化されたものが“狂子(siremon)”であり(きょうこさんではない)、これはこの者が為した行為の一つ一つが観念的塊となって飛んでくることを示している。狂子の到達距離は光子の様に無限ではないが、これは狂子が質量をもっているためで、発信者自体が全力で走ってきたときに逃げられそうな距離、せいぜい数十メートル程度である。(この値は観測対象によって変わる。)ただ、希には坂の上で掃除をする未亡人だったりすることもあり、過去には捕まってしまう人も結構いたようだ。更に希には、会議室でお弁当食べても良かったりするのだが、籐が立ったアイドルなのでもう大丈夫だろう。
狂場は非常に強力だが、これを打ち消す場も存在する。頑固親父が発する征場がそれである。頑固親父は狂場を発する軟弱な若者を見つけるとこの征場を発生させ、近づいていくにつれて狂場を打ち消していくが、決め手となるのは粒子として発する制子(bakamon)である(せいこさんではない)。この一喝によって狂場は中和され、下水に流しても大丈夫となる。風に乗って走っちゃうのである。(制子は、強すぎると君臨しちゃうあたりが困りものである。)
ところで、人間関係で重要な波の一つに、“ひとなみ”がある。これは他の人より抜きん出た存在になった場合にそれを抑制するように働く力で、均力といわれる。これは特に日本において顕著で、誰かが踊り出ようとすると、あらゆる方向からこの力が掛かって平に均される。近年の日本において均力が社会の発展を阻害する要因であることは論を待たない。特に恐ろしいのは、平均よりも低いものに対して押し上げる類の力を全く持たないことであり、為に日本では平均まであがる事に対して非常な努力を強いられ、それがまた他を押し退けるような競争を生み出すことになる。(その割に、平均を超えることは許されないという理不尽さ。)
このような考え方は、有事を想定したものであるといえるかもしれない。すなわち何かあったとき、普段いけ好かないあの野郎を懲らしめに行こう、というような気概が生じたとき、その対象にならないようにしようという教訓である。まぁ確かにこの考え方にも一理くらいはあるが、世の中が荒廃しているときならともかく、現時点でもっとも有効な処世術であるとも筆者には思えない。
世間に波風を立てずに平均を脱する方法はあるのだろうか。意外なことに、これもまた場を量子化することによって解決の糸口がつかめるのだ。
先述したように、ひとなみに戻す力は均力といわれるが、それを量子化すると馴子(kinkon)が生じる。馴子は青い鳥を見つけるのが上手なため、馴子の性質を知れば幸福になれる可能性が高く、実際成功すれば、偶像(アイドル)になることができる。これは世間から頭一つ抜けて尚好感を持たれる数少ない方法で、昔日には御三家と呼ばれたものすらいるのだ。でも、本方法は諸刃の剣でもある。何故なら偶像として振舞うことは、成功と同時に過剰な精神的ストレスとも同居することになり、不安定性が原因で核分裂を起こしやすいのである。で、もしそうなってしまったら後の祭り。壷を売らされて1000人と籤引きで結婚する羽目になったりする。(もっともその状態を幸福と考えるほど分裂してしまったのならそれはそれでいいのかもしれない。)
青い鳥はひとつところにとどまるのが嫌いらしい。
今度は一転、経済に目を向けてみよう。我々の周りで波と言われて思いつくものに“景気の波”がある。従来の経済学にはそれらにチキン波・ジュグラー波・コンドラチェフ波などがあるとする説があり、それぞれによって景気に長短ある波の動向をつかもうとしているのだが、ここではそうした波を、量子化してみようとするのだ。
景気とは何かと考えると、それは人々が漠然と捉えている世の中の金回りの良し悪しである。となると景気の波とはつまるところ、人々の間を流れる波と捉えることができる。ということは、最小構成単位を一人の個人としたとき、人々が大勢集まったときに景気という行動原理によってあたかもその人々が波に乗っているかのように行動するとみなせば、上述したゲージ変換を適用できると考えられるのである。そして変換の結果人と人との相互作用には粒子が絡んだ状態を想定できるようになるのだ。
景気の場を変換したときに現れる粒子は、ズバリ“景子(sigoton)”と名づけられる。(“けいし”であって、けいこさんではない。)これは、人と人との間で付加価値をつけながら相互作用すると捉えられる。そこでは好況と不況の波は仕事を頼む側と実行する側のどちらからどちらに向かって景子が動くかで決定される。すなわち、依頼側から実行側に景子が流れる場合、実行側は景子を受け取るときに足りないエネルギーを補わなければならないため、依頼側から多くの“金子(かねこさんではない)”と呼ばれる粒子が流出し、これがいわゆる“好況の波”を表し、逆に景子が実行側から依頼側に流れるときは、金子の流出は抑制され、“不況波”となるのである。
景子は無から生み出され得るが、生み出されるにはある程度のエネルギーが必要なことがわかっている。これはこれまで経済を波と捉えていた考え方では説明できない現象を巧く言い表すことが出来る(それはあたかもある一定以上のエネルギーを与えないと光が出てこない光電効果を、光を粒子と捉えるからこそ説明がつく現象に似ている)。というのも、経済が順調に流れているときの場は、活発な動きを誘発しつづけるが、不況が極まってしまって一旦流れが止まってしまったとき、再び場を活発にする場合、経済を連続した場とみる経済波の考え方では、ほんの少しの初期運動を与えてやるだけで再活性するはずなのに、実際にはそうならない。現実には日銀によるチビチビとした経済介入がまったく役に立っていないわけで、これは経済が完全な波だとすると説明し切れないのだ。これが、景子を導入するとどうなるか。景子は当然一人と数えるべきものだから、現れる時には当然人として扱わねばならない。ということは日本国憲法に照らしても、彼女には“健康で文化的な最低限度の生活”をさせなければならない。つまり景子が生きていくためにはある一定のお金がいるわけで、この金額が出せないようなら日銀は景子のパトロンにはなれないのである。「はいパパ。」とは言ってもらえないのである。
景子を使っての経済現象へのアプローチを試みる姿勢が有効であることはご理解していただけただろうか。上記したような経済学はこれまでの学問とは違うものになるため、“量子経済学”という名を持ち、今後の発展が期待される分野である。
そうそう、最期に、本分野の最新の研究では、景子が経済場を動かすに最も有効なのは、アメリカ市場に介入することが効果的であるとの報告がなされている。というのも、アメリカ証券取引所が空いている時間は、日本は夜な訳で、すなわち、
景子の「夢は夜開く」
のである。