自分の部屋に日がな一日閉じこもって、ゲームやパソコンに興じている若者達が増えている。
注意したいのは、ここでいう一日とは、いわゆる“休日”といった“社会参加期間の合間に取られる自由時間”を指すのではないことだ。そうではなく、彼らはそれこそ一週間一月、酷い場合だと数年をそうして過ごすのである。不思議なことに、彼らは別に身体に障害をもっているわけではない。社会参加が不可能なほど知能に欠陥を有しているわけでもない。見た目は同年代の男女と全く変わらぬ五体満足の身体の持ち主であるのに、彼らは自分達各々の部屋を出ようとしないのである。
そうした者達、これまでにも少数垣間見られたことは間違いない。が、そうした存在はあくまでも大多数の社会集団から見ればイレギュラーに過ぎず、運悪く奇病に当たった家族と同様に、個別な対処をしていたのが現実であった。ところがここに来て、そうした彼らのカテゴリーに敢えて名前を付けなければならないほど、現在の日本においてその増加が著しく、それが上記のような特殊な事情として済ませていられないほどに、じわじわとその影響を広げている。
対人との直接的な接点を一切持たずして生きているそうした若者達、社会運営に対する影響が無視できないほど増加した彼らを、一般に“ひきこもり”と呼ぶ。
本稿は、彼らひきこもりがどのように部屋から出て来ないのかを検証し、対する社会の対処法、更に社会復帰はどう行えばよいかを、机上理論的アプローチで考察したものである。
(断っておかねばならないのは、筆者は“自室の中だけで生活が完結する者”全員を悪いと考えているわけではないことだ。プログラマーとして天才で、それだけで食っていけるとか、印税で生活できるといった具合に、自分の才覚で隠匿生活を為し得る人物に対しては、当然否を唱えるつもりはないのだ。しかしそういう人々は普通、そもそも引きこもりとは呼ばれない。)
[ひきこもりのメカニズム]
物理現象としての引きこもりを検証する。ひきこもる人間は、“自分の部屋”という場に居つづける場合がもっとも運動エネルギーが低い状態であり、外部から力を加えて同人を無理やり引き出そうとする場合には、甚だしいエネルギーを必要とする。このエネルギーを“室量”と称することにすれば、
<室量>=<部屋から引きずり出した距離>×<ひきこもらせる力>
で定義できる。<ひきこもらせる力>はここに、“居ん力”と称する。
室量の甚大なるパワーは、彼らが普段部屋の中でごろごろとし続け、全く疲労感を伴う作業をこなしていないことに起因しており、その時に蓄えられているポテンシャル(内在)エネルギーが反抗時の運動エネルギーになる。これを“室量保存則”と呼ぶ。図体だけはでかいもんだからポテンシャルエネルギーも高いのだ。
ここでいう室量は適用範囲が狭く、部屋の外でしかも家の中に限られる。家の外に出るときには外に出すまでがもっとも甚大な労力を要し、最大抵抗値はそれまで線形に増加してきた室量の更に三倍に達する。これは境界条件と呼ばれる。戸口に捕まってテコでも動かない様子が目に浮かぶようである。
ただ一旦家の外に出てしまうと、意外なことであるが、その外部エネルギーはほとんどゼロになることが知られている。しかしこれが、彼らをして抵抗は無駄だと悟ったからでないことは、油断するとダッシュで家に掛け戻ってしまうことで明らかにされ、ある程度の緊張感は持続的に存在していることがわかる。(以上、図参照のこと。)
ここに興味深いのは、部屋の中に引きこもらせる力すなわち“居ん力”は、その部屋に長居しているもの以外には全く作用しない点である。この点、同様に極稀にしか世間と反応しないニュートリノの物性を想起させる。そこで、居ん力を媒介するゲージ粒子の存在を、ニュートリノ検出装置である岐阜県山中地下深くの実験装置・カミオカンデによって確かめられる可能性がある。筆者はこの、人里離れた山奥でようやく発見されるであろう粒子を、“中”という意味に粒子としての語尾-onをつけた“イントン・(in-t-on)”なる名前で呼ぶことを提案する。
人と人が交流することが存在条件である街のなかにあって、隠遁生活を送る彼らの性質は、深山でのそれと同様だということだ。人の喧騒から隔絶されたそれは閑静だが、ひどく物寂しい。
[ひきこもり救出作戦]
ひきこもりの人間を普通の方法で部屋から出すのは、前節で見た物性から見て、非常な困難を伴う。よってその対処はこれまでの方法をガラリと変えた方法を取ることが必要となる。
ここで参考になるのは、昭和47年2月に長野県軽井沢で起きた河合楽器山荘への連合赤軍派5人の立てこもり事件、その中継を史上空前となる89.7%の視聴率で実に6千万の国民がTVに見入った、いわゆる“あさま山荘事件”の顛末である。
別に筆者は、ひきこもりと立てこもりの語感が似ている、ただそれだけの駄洒落で同事件を持ち出したわけではない。これらの両者が意外にもその性質の点で共通項が多く、故にこそ一方の対処法がもう一方にも効果的な対処手段になると考えるのである。
具体的な対抗手段を考慮する前に、なおも両者の取り合わせに不審を抱かれる向きも読者にはあろうから、その共通性をいくつか提示する。
(i)閉鎖空間に閉じこもる
(ii)思想的要求をする
(iii)世間に迷惑をかける
(iv)人質を取っている
(v)己の将来を棒に振っている
まず、(i)については状態がそうなんだから文句ないところ。
(ii)は、あさまにおける連赤は、この時点で思想集団としては壊滅していたので、捕まるまで完全に沈黙を護り続けて不気味さを増していたのだが、本来の学生運動はなんらかの主張があって始まっているものなので、立てこもり一般としてこの項目を掲げることが間違いにもなるまい。ひきこもり側も、「学校でいやなことがあるんだよぅ。」、「社会に出てもうまくやれない。」、「気分が悪くなる。」などの主張が家族に対してなされるのと、インターネットの掲示板でデカイ面して書き込んでいるそれをあげることが出来る。両者は要求内容においても、あまりにも現実から乖離した狭隘な見解が社会的に許容できないという点で非常に類似している。
(iii)も異存ないだろう。ひきこもりの場合は家族に迷惑をかけているだけだとの反論があるかもしれないが、山田昌弘氏提唱のパラサイトシングルの概念ではないが、ある類似した傾向を示す存在が多くなると、社会への影響はバカにならないのである。(独身の筆者はこの点耳が痛い。)ひきこもりの社会的影響は、労働力の不足とそれによる投資の低減といった経済学的効果も大きいが、なによりもひきこもっている以上、そのユニークな個人が社会に出た場合に、好悪含めて社会に与える影響がなくなってしまうことが痛いのだ。
(iv)の人質は、あさまではY・Mさんだったが、ひきこもりの場合は実に、ひきこもっている当人を指す。あさまにおいて公安側が最後まで強硬手段を採るのに躊躇していたわけは、人質の安全を最優先していたからであることは言うまでもない。ひきこもりで直接迷惑を被るのは家族であるが、その家族は正に当人と家族であればこそ強硬手段を採用できないのであり、人質が本人とはそういう論旨から述べている。両者に共通するのは、そうした立場を最大限に利用してゆずらない卑劣さであることは指摘しておいてよいだろう。
(v)はもはや言うまでもあるまい...。
さて、つらつら羅列したことで、立てこもりとひきこもり双方の類似性が示せたと思うので、本節最初に掲げた、公安による立てこもり犯への対処手段をひきこもり対策に生かせるかを見てみよう。
公安側が採った最初の手段は、1.とにかく大量の人員を迅速に動員すること、である。ガダルカナルにおいて攻者三倍原則を守らずに戦力を逐次投入したことで戦局全体の流れを変えてしまったことは日本軍の失態として大きなものであるが、このように、日本人の組織運用政策のなかで短所の一つとして有名な“戦力の逐次投入”を単刀直入に愚作と喝破する佐々淳行氏のほぼ独断で、あさまは早々に大量の人員によって包囲され、最終的には1500人の人員で対処したのである。(攻者三倍どころか攻者三百倍である。宮崎アニメみたいだ。)これを受ける形で考えられるひきこもり対処法も同様で、家族側は、知人友人隣近所に親戚と、とにかく考えられる限り多くの人に頼み込んで部屋の前に陣取ってもらうのだ(少なくとも三百人は欲しい)、それもひきこもりをしているとわかった時点からできるだけ短時間で行うほど良いと考えられる。
この方法は二つの効果がある。一つは勿論、早期に対処することでひきこもっている本人に、「なんかとんでもないことになった。」感を植え付けられること、もう一つは、自分に関わっている人間の多さを実感させることである。そもそもその重さに耐えかねてひきこもるのだと言う向きがあるかもしれないが、これにはため息一つつくしかない、人生とはそういうものである。
この方法が現状の短所も指摘していることにお気づきだろうか。ひきこもりが家族内に出ると、その家族は一般に、世間から隠し通そうとするのである。しかも相手に対する態度が世間体を考えて下手になるから、反撃する術を与えてしまうことになり、そして結局、長期化、深刻化するのだ。
公安の採った二つ目の方法は、犯人の肉体と精神の消耗作戦だ。あさまでは兵糧攻めで空腹を募らせる作戦は採られなかった(山荘には大量に食料が保管されていた)が、昼間の説得工作と深夜の雪だま投擲や威嚇射撃による安眠妨害を行っている。これをひきこもりに対して行う場合、兵糧攻めは良いのだが、精神的な追い詰めは危険なので、こちらは推奨しかねる。当人がノイローゼとか自暴自棄になっては意味がないからで、犯人と被害者が同一人物という点がこの難問の焦点だ。兵糧攻めもあんまりやると餓死しちゃうから程度問題なのだが、食料を出す場合も何らかの約束(言葉を交わすとか)との交換条件であるべきで、give and takeの社会関係を思い出させるためにも妥協を許すべきではない。
立てこもりが長引いたことで、公安が最後に採った強硬手段がクレーン車による鉄球攻撃と、放水、ガス弾援護の突入作戦だ。立てこもる建物自体の破壊による、犯人が隠れている場所をなくす。これが結局立てこもり犯人を捕らえることになったのだが、これをひきこもりに適応する場合、かなり荒っぽい手段が必要になる。
まず、ドアを破壊してでも部屋を開放状態にし、部屋の中のありとあらゆるものを外に運び出し、廃棄してしまうのである。相手がどれだけ抵抗してもこちらの被害を恐れてはいけない。とにかく一旦、その部屋を空にしてしまうのである。
ホントに強硬手段だが、これは効果的だ。自分なりに構築することで安寧の地としてきた場所がなくなるという、ひきこもる人間が固執しているものを無くすためで、これまでの状況を変更したくないという心情がひきこもりを持続させている場合が多いから、この方法による効果が大きいのだ。
それまでの関係のリセット、それは平たく言えば、“もぅいっぺんゼロからやり直せ。”ってことだ。
[ひきこもり自身について]
今回、擬似物理学的すなわち三人称的な“ひきこもりのメカニズム”と、現場に立ち会うかもしれないときのリスクマネジメントから見た“引きこもり環境の打破”つまり二人称的なアプローチという、まったくことなるアプローチから問題を扱ってみた。これらを受けた最後のこの項では、一人称的な、すなわちひきこもり自身がどうあるべきかということについて考察してみたい。
“冬ごもり”という言葉がある。 ...いきなりまた駄洒落かよ、などと落胆しないでいただきたい。前項もそうだが、言葉が酷似するのは、何らかの類似があるからとも言えるのである。(言えないかもしれない。)
ここにいう冬ごもりとは、今や日本で絶滅に瀕している動物である“ツキノワグマ”などの“熊”が、越冬するための手段のことである。雑食性の熊は、秋になると木の実や昆虫、小動物などいろいろなものをたくさん食べて皮下脂肪として貯える。そしてその栄養を元に、寒さが厳しく食べ物も少ない12月から3月の間、大木の樹洞(うろ)などにもぐりこんで眠る。これを冬ごもりと呼ぶのだが、ひきこもりとはある種、この冬ごもりを人間が行っているようなものだと思われるのだ。
そこで考えてみよう。熊君はどうして冬ごもりをするのだろう。それは外に出ていても餌にありつける目処が立たないからだ。外にはろくな事がない。だからぬくぬくとした樹洞の中にいるのが一番なんだ。この考え方は確かに合理的である。実際、雪の中であれだけの大動物が生命を維持するだけの食物を捜すのは大変だからだ。
引きこもりの当人が部屋に居続けるのも結局同じことだ。外にはろくなことがない。だからぬくぬくとした部屋の中にいるのが一番なんだ。これも確かに合理的ではあろう。外に出た場合に彼が受ける精神的(あるいは気の毒なことに、身体的)ダメージは、部屋にいる限り受けなくて済むのだから。だから筆者は、それが“生命を維持するのが大変”な場合、ひきこもりを寧ろ推奨するものである。
だが熊君はその先どうなるのだろう。簡単だ。おなかがすくのである。そのまま眠りつづけたのでは死んでしまうのである。だから熊君はこう思うのだ。早く春にならないかな。
熊君を冬ごもりさせていた原因である冬の寒さは、三月になると姿を消す。ひきこもりの当人をして引きこもらせた原因は確かにあるだろう。が、往々にしてそれは、あり続けるものではないことが多い。そして上記したような“生命維持の危険”が去った後のひきこもりは、熊で言うと、餓死を待ちながらも眠りつづける愚昧な行為に過ぎないのである。
ひきこもりを他人が社会復帰“させる”手段など、あるはずがないと筆者は考える。それは結局、本人が気づくか気づかないの問題でしかないからだ。
熊君は春を感じて冬ごもりを辞める。同様に、ひきこもりを辞めるための“春”を周囲(もしくは自分自身)に感じるのは、本人にしか出来ないのである。
おわり
あとがき
あ"―駄目。ギャグのつもりだったのに。一応筆者は社会人だけど、心情的には近いところにあるからこその辛辣さだと思ってください。