筆者はこれから、さる歌の内容を検証した結果を公表するのだが、読者には以下の内容を読むに当たり、ある種の了解というか、覚悟をして頂きたいと言わねばならない。というのも、この内容はそれまで我々が普段何気なく愛唱している童謡の歌詞に関することで、それが実はとても奇妙かつ恐ろしげなことを示す内容であるという真実を知ってしまうことは、今後読者諸氏をして純粋に同歌を口ずさむことが出来なくなることを意味しているからである。
筆者としても、斯様にして敢えて皆さんの夢を壊すようなことをするには忍びない。しかし、真実への追究が心ならずもかくのごとき実体をあらわにすることはよくあることであり、何よりもかの童謡の作者が本当に意図していたことを皆さんに公表することは、同作者が歌を作った動機、すなわち今から示すような恐ろしげな情況は実際にあることだと、多くの人に警鐘を与えたかったのだという作者の真の想いを遂げさせることになると信ずるからこそ、こうして敢えて筆をとったのである。(ワープロだけど。)
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン
上記歌詞は、あまりにも有名な童謡“あめふり”の一番である。筆者がこの歌詞に疑問を持ったのは今年の春、既に黄昏かけた空に暗雲が垂れ込めはじめたときのことであった。
(また降るのかい。今年はもう梅雨に入っちまったのかねぇ。)
言いつつ筆者は、周りに早くも生暖かい風が吹きすぎるのを感じ、慌てて折りたたみをカバンから取り出した。そして留め金を外し、同傘を広げるが早いか、雨はどうと降り出したものだ。
(まったく折りたたみ傘はありがたいよ。もしなければ“蛇の目でお迎え”をしてもらわなくちゃいけないものね。)
筆者は自らの用意のよさに感心しながら、機嫌よく上記の歌を口ずさみ始めた。しかし、筆者はそこでヒタと立ち止まった。筆者の脳裏に突然ハッと、閃光の様に閃くものがあったからだ。歌の歌詞を口に上せたところで浮かんだその疑問。それは、
今時じゃのめでお迎えする人なんているのか?
これから解読して明らかになる真実を筆者はまだその時には知る由も無かったが、その心を震撼させる内容を予感させるように、立ち止まったまま沈思黙考する筆者の傘には、気のせいかいつもより重く感じられる雨粒が叩きつけられていた。(それは決して染乃助に一升マスを載せられたからではない。)
前置きはこの位にして、検証を始めよう。
確かに前述した疑問の通り、現在蛇の目でお迎えすることは皆無となった。これは次に述べることが原因だろう。そもそも、筆者のような貧乏人がこれまで黒い折り畳み傘しか持ったことが無いことは論外としても、一般で“雨の日に蛇の目”という打てば響くような感じで使い慣れている、という人はあまりいないのではあるまいか。これは、蛇の目が現在では意外に高級品であり、同傘が無くなったわけでは決してないとはいうものの、ビニール傘が捨て値同然で売られている中でわざわざ持ち歩く小洒落た人が減ったことを意味している。そして尚重要な点を述べれば、そもそもそうした傘を持てるような家庭は、今では駅までならば車で迎えに行くことの方が普通になっており、わざわざ傘を一本余分に抱えてお迎えにゆくという人は見られなくなってしまったのである。
じゃのめでお迎えしなくなった理由については斯様な解答にて妥当であろう。筆者もそれについてはそう納得した。だが更に、そうした考察を踏まえて筆者が考えたのは、作られてたかだか数十年でこの童謡がかくして早々に時代に合わなくなってしまったことは、この童謡作者の意図することだったのだろうかという疑問である。本来世代を超えて長期間歌い継がれることを前提にして作られるのが童謡である。とすれば上記疑問に対して単純に“そうだ”と答える浅薄さは全く無責任なものと言わざるをえないのであり、となると今度は逆に、“否”と答える時の理由を考えなければならない。
本童謡の製作意図には今普通に思われている歌詞の解釈とは全く別のものが潜ませてあるのではないのだろうかと考えるのは、そうした思考経緯による。
ではその本来意図とは何か。それを次に探っていくことになるのだが、そのとっかかりとしては正に、“じゃのめ”という名詞の解釈から始めるのが望ましく、そこから得られる解釈は驚くべきものに発展する。
そもそも“じゃのめ”とはこれまで、蛇皮模様の付いた傘と解するのが妥当であった。歌を自然に解釈すれば当然の帰結だ。が、ここではそうしたありふれた解釈を捨て、もっと素直に、つまりこれを文字通り“蛇の目”と捉えてみよう。すると、途端にこれまでの楽しげなイメージは一変する。何故なら、迎えに来るのが“かあさん”であることには変わりないにせよ、彼女は“蛇の目”をその瞳にたたえているからである。
なんと恐ろしげなイメージだろう。そしてそのイメージは、他の歌詞の解釈も連鎖的に可能にする。というのも、迎えられる主体はとてものこと“嬉しい”わけがないから、これも本変化に合わせて解釈しなおせば、これはやがてやってくるであろう蛇の目母さんに対して“憂し”と畏れているということになるのだ。
では“うれしいな”の“な”はどうするのか。これは実は後に続く文の副詞という文法的位置付けにあり、本来「な〜そ」と、後ろに“そ”が付くことで禁止を意味する構文なのだ。これ以降の歌詞に“そ”がないのは、歌につける歌詞に制限があったからだろうが、ともかくこうして否定されるべき“〜”部分の言葉は、“ピッチピッチ”であることがわかる。
こう見てくると、“ピッチピッチ”なる擬音はこれまで解されていたような、雨靴のようなもので水溜りを楽しげに踏む音、では明らかにないだろう。そんな楽しげな状況を古語表現まで使ってわざわざ否定する必然性が無いではないか。繰り返すがこの“な”はこの擬音を“出すな”という禁止の意なのだから、当の擬音はかなり強い感覚を持った音であることになる。となれば考えられるのは、ピッチピッチとはこれが、空気を切り裂くような鞭の音ではないか、ということである。そう考える根拠は、音の発生源が歌詞の中に見られるからだ。驚かれるかもしれないがはっきりとそれはこの歌詞の前に鎮座しており、それはすなわち、“ふれふれ”。
ピッチピッチの擬音は、母さんが鞭を“ふれふれ(振れ振れ)”させることで(だから本来は“振り振り”とすべきなのだが、これは出回っている解釈に引っ張られて語尾が変化したのだろう。)発せられた音だったのである。
蛇の目母さんが鞭をしならせて“迎えに”来る。これはもう唯では済みそうもないイメージである。ここで、この母親が迎える主体、つまり歌の主人公たる子供がクリスチャンであることが判然とする。何故なら、そうした恐ろしげな状況が来ることを憂慮して、既に歌の冒頭から“アーメ(ン) アーメ(ン)”と唱えているからである。
母親は更に子供に迫る。そして母親は彼を見つけ、舌を出し入れしてよだれをすする音を出す程近づいた。それが“チャプチャプ”と出された擬音の正体である。そして遂に、身に危険が今しもと近づいたとき、かの子供はどうしたか。最後の最後に彼(彼女)は耐え切れずに駆け出した! 母親の元から全速力で逃げ出す様は彼(彼女)を駆り立てる心の悲鳴である“ランランラン(run run run)”が、緊迫するほど活写している!!
“あめふり”と題された童謡が一種ホラー映画的な状況をナマナマしく描き出していることがお判りいただけただろうか。これまで我々が考えてきた同歌の解釈がいかに楽観的であるか。そして、故にこそ今回浮き彫りにされた真実の内容に反映された作者の思いが非常な緊張感を伴って我々の胸を打つのである。
今回筆者による本歌の解釈は一番に留めているが、一般にあまり知られていない二番以降の歌詞には
あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
なるものがあることは注目に値する。言うまでも無くこのシチュエーションは、正に日本怪談の持つイメージの真骨頂であるからだ。
無警戒に近づいた歌の主人公は“あのこ”の正体として、何を見るのであろうか。
こうして本論を締めくくると、やはり気になるのが逃げた彼(彼女)の行く末である。彼(彼女)はどうなったのであろう。残念ながらこの件について歌詞はそこで終わっているのだから、それ以上の情報を我々は読み取ることができない。
しかし、本論で予期せぬほど読者を怖がらせてしまったであろうお詫びに、ここに筆者なりのフィクションを付け足すことで幕としよう。
蛇の目をして鞭をしならせる彼女、妖怪人間べラは、逃げ疲れ、怯えきった彼に対し、調子こそ強いが温かみのある声で言葉をかけるのである。
「何をおしだい! さっさと行くよ、ベロ。」
(おわり)
注)妖怪人間の三人はOPによると、“それはいつ生まれたのか誰も知らない。暗い音の無い世界で、一つの細胞が分かれ増えていき、三つの生き物が生まれた。”とあり、少なくとも親子ではないことが指摘される。