[9章]ペド生態学
 
 
 これまで見てきたペド生物学は統合少女体のについてであった。この章ではもう少し広い視点、統合少女体が住む環境とはどういうものなのかということを考えてみよう。そうした視点から美少女を研究するのがペド生態学である。
 一般に言う生態系で最も有名なのが、生産者から消費者、そして最終消費者までを考慮した生態系のヒエラルキー(階層ピラミッド)構造だろう。ペド生態学でもこれに類似の現象は報告されている。ペドラルキーといわれる構造がそれだ。


図9-1 ペドラルキー(従来型)

 図9-1に従来型ペドラルキーを示す。各層に入る要素の数は生態ピラミッドと同じく上に向かうほど少ない三角形を示すが、生態ピラミッドがエネルギーを生産者から消費者に吸い上げる構造だったのに対し、ペドラルキーでは萌えという流れが上から下に流れる逆構造になっていることが特徴的だ。この図における最上位は神(少女)である。何故ならかつて少女はテレビアニメや雑誌など、限られたメディアに住んでいるセレブな存在だったからである。人数も少ないため、その影響力はいわば黄金聖闘士を思わせるものだった。
 その次の階層にいるのがクリエーターと呼ばれる生産者たちだ。彼らは神少女に拝謁を許される数少ない人間たちである。彼らがこの階層にいられるのは、不可視なほど雲の上の存在である神少女の御姿を絵や作品として具現化するという特異な能力を有しているからだ。具現化には膨大な体力と表現力、それに何より萌えに対する研ぎ澄まされたセンスが必要とされるため、反動で人間的に問題があったり生活力がなかったりする者も多い。とはいえ、彼らの持っている才能は“あらゆる人間が等しく感ずる萌えを抽出する能力”なのであり、更に彼らの持つ“民衆の潜在意識下の願いを汲みとる才(さらに言えば、必要ならば新しい萌えに大衆を引っ張ることさえしなければならない)”は確かに神官と呼ぶべき卓越した能力と言ってよいものだろう。
 そして最下層でペドラルキーを支えるのが消費者・オタクたちだ。消費者であるオタクはひたすら神少女から下賜される萌えをありがたく頂戴する立場であり、クリエーターの著した“作品”という限られた窓から神少女の御姿を仰ぎ見るにとどまっている。更にこの階層にいる下々の者は下賜される萌えに対して貢物を差し出さねばならない。貢物は拝謁の程度によっても異なり、ムックなどによる御真影の部分拝謁ならまだしも、OVAなどでその手取り足取り動くさまを30分も拝謁しようものなら1万近い拝観料が必要だし(風俗!?)、ピラミッドの石段の一つを丸々調達するに等しいDVD-BOXなどは、信者にかなりの財政逼迫を要求するため、実行はもう苦行と言ってもいい。このようにペドラルキーでは“萌え”は確かに上から降ってくるものだが、逆に“”は環境ピラミッドと同じく階層の下から上に吸いあがる仕組みを持つ。独身サラリーマンなのに経済的に汲々としており、吉野家で卵すら付けられないと言うような、一般人から見れば七不思議としか思えないような状況に陥ってまで信仰を行うような者もでてくるわけだ。更に最近では畏れ多いことに本来空想次元であるはずの神を3次元に写像するフィギュアと呼ばれる技術も盛んになってきたので、御真影の再現度が高い像などに破壊的な献金をする人もいる。こうした敬虔な修行者の話を聞くにつけ、筆者には自らに鞭を入れて罰するドミニコ派もかくやと思わせる、とても真似の出来ない崇高さを感じざるを得ない。
 彼ら消費者・オタクは常に上昇志向を持っている。クリエーターや声優になりたいという姿勢は最もわかりやすい例だが、抽象的な願望としても、例えば生産者になれば神に直接拝謁することが出来るし、真下にいるんだからスカートの中だってのぞけるかもしれないわけだから、なにがなんでも這い上がりたいと思うのは詮無いことなのだ。

 と、このような、下階層の者には悪いが原初時代の手塚治虫作品以来ずっと安定していたペドラルキーだが、近年この構造が急速な変貌を遂げている。


図9-2 ペドラルキー(近年型)

 図9-2に示すのが近年のペドラルキーだ。一見して判るように三角形の中における少女の存在比率が変わっており、更に生産者と消費者の境があいまいになっている。
 底辺に存在していた消費者の誰もが手軽に生産者になりうるという技術の一般化。これはまずコミックマーケットの隆盛に代表される同人誌の台頭が発端となっていたが、インフラの整ったインターネットがこの傾向に拍車を掛けた。生産者側に昇れるようになったオタクたちは多数に上り、同人側からプロになる例も多いのだが、同人側から排出した作品が萌え市場において巨大な勢力になっていることも見逃せない。このため生産者における以前のような権威は現在失墜したと言っていい。
 権威の不安定化は最上層の少女にも及んでいる。生産者が増えたことにより少女の絶対数が増え、更に二次創作によって消費者に少女のさまざまな行動が開陳されるようになると、こうした俗化により次第に彼女ら少女を“神”と呼ぶことも少なくなったのだ。
 この傾向は進化論的にも説明される。少女は従来の階層では非常に狭い領域に押し込められていたのだが、存在面積が一気に広がったことは、少女らの生息域を広めることにつながった。しかし広げられたこの領域は以前と同じ属性を持って進出するのは危険を伴う。同階層でも下の方では中間層との壁である床が安定していないため、上部で安定している少女と同じことをしていては忘却される可能性が高いからである。こうして同階層の下のほうに少女が進むためには“属性の多様化”が必要になる。お嬢様、おっとり、陽気など元々あった属性から更に分岐してツンデレ、舌足らず、穴掘り(引っ込み思案)など数え切れないほど多様化したのはして見ると必然な流れなのだ。
 これら特徴は増加した生産者が独自の切り口をもって少女を作品化しようと試みることによって生じてきた。これによって消費者の願望にもさまざまに応じられるようになり、前述した“金”を吸い上げる構造はますます膨らんでいる

 こうしたペドラルキーの変化は一見隆盛を極めているように見える。萌え市場は順調だし、秋葉原なんか往時の影もないほどにピンク色だ。しかし、インターネットは同時に、これまでとは比較にならない萌えの消費速度の増大も招いている。増大した生産者による必死の生産にもかかわらず、一方の消費者達はそれを瞬く間に消費するのだ。
 そもそも情報というのは小出しにすることが人気を煽り、更に持続してゆくための秘訣の一つだ。(それは、具体的に商品化することで一気に沈静化したかつてのセンチメンタルグラフィティなどの例が雄弁に示している。)して見るとこれまでテレビアニメに頼っていた頃、萌えは最低でも一週間単位での情報更新だったのだが、現在のインターネットではこれが日単位、時間単位の情報更新にまで早まってきた。このため熱しやすく冷めやすいというのが最近のブームなのであり、それに慣れてしまったのが現状消費者ということなのだ。
 そういうわけだから、人気を繋ぎとめないと萌えの持続にならない以上、生産者は必死になって情報更新を行うが、それは結局更なる消費行動のスピードアップに手を貸すという悪循環をもたらしているに過ぎない。(実のところ0章で扱ったうたラジなどのトピックも、人気のピークは7〜8月というわずか2〜3ヶ月だったため、極端な話’07年冬コミで出された本ですら風化した印象が否めなかったほどで、この本でネタとして扱うには勇気のいる内容となっていた。)これはまさに“加速する萌え”。JOJOの表現を使えばまさに“メイド・イン・ヘブン”である。加速する快楽は突出した高揚感をもたらすが、そうした究極、行き着く先にあるのは果たして本当に神少女のいる天国なのか。ひと月後に忘れてしまう神とは、そもそも神と呼んでいいものなのか。
 空想世界の美少女は無限だが、それを支える現実環境と、何より我々オタクの肉体(と財布)に限界があることに気付いたものはこの問いに、明確に否と答える。そうではなく、これは現状の破壊だという。加速した萌えの行き着く先、そこは創造に疲れ、新しい萌えの一頁に自らの功績を貼ることを誰もしなくなった荒廃した世界。
 レッテル・カーソンによればそれは、『沈黙の貼る』だという。
 

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