今更だけど、このページにリンクしようなどという、筆者には嬉しいが、世間様には甚だ迷惑な行為をする方々に急告!

ここにリンクするときは、部屋を明るくして離れてみてね。

...ではなく、本サイトは基本的に直リンを黙認してます(容認ではない。)が、このページだけは本サイトTOPか、せめて論文リストにも貼ってください。
というのも、以下の内容は数学のパロディで成り立っていますが、数学の苦手な奥様のために数学ネタ解説のページがあるためです。
(直リンだと、このページで挫折して帰ってしまう人があまりにも多いための処置です。ご協力を。m(__)m)




ペド数学概論

カロ藤法之
[0]‘04萌え動向

 去年の暮れから初夏にかけて萌え関係は、久しぶりに活況を呈したと言えるだろう。なぜなら、世間を騒がせたその手の現象について、今期は三つも指摘できると筆者は考えるからである。近年の萌え状況の停滞したことを思えば驚くに足る豊作である。が、ここでいつもなら“美少女アニメ事情”とでも副題をつけるところ、“萌え”なんて言葉を使っていることに気を留められた方は鋭いと言わねばなるまい。これは書き違いというわけではなく、今回指摘する上記三つが、いずれもアニメの中の美少女ではない、もしくはそこを発端として人気を博したものではないからなのだ。
 ではその三つとはなんだろう。敢えて通称で言えば、“マリみて”、“KOTOKO”、そして“わたおに”である。
(注・この三つの萌えキーワードが全て判る方は[0-4]へ。あと、筆者に話し掛けるな。)

[0-1]マリみてについて

 “マリみて”は“マリア様がみてる”というのが正式な題名で、ミドルティーン少女向けの読み物をラインナップすることで有名な、集英社コバルト文庫中の同名の小説を指し、カトリック系お嬢様女子高校の生徒会を舞台にしたコミカルな作品だ。元々2年ほど前からコミケにて独立してジャンル分けされるほど人気になっていたが、去年になってコミックス連載が始まり、年が明けてからアニメ化もされたため、更に人気が沸騰する結果となった。
 では、萌え情勢における本作の影響はどこにあったかといえば、出てくる登場人物たちが悉く存在感を主張しているところにある。この人物ならこういう性格でこういった行動をとるであろうという位置付けが、出てくる登場人物(当然ながらほとんど少女!)全てに対して丁寧に為されているため、こんなイベントが与えられた場合にこのようなことが起きるという想像を膨らませ易いのである(コミケのブレイクが人気の発端なのは偶然ではない)。萌えの基本が対象人物への思い入れと親近感だということを思い出し、かつ登場人物が悉く少女達ということになれば、こうしたマリみての特徴が萌えに値することを否定するものはいなくってよ祐巳。

[0-2]KOTOKO について

 “KOTOKO”とは人名、歌手の名前(アーチストって言い方はどうとでも取れて好きではない)だ。北海道を拠点とし、主として18禁ゲーム(いわゆるエロゲー)の音楽を担当している音楽集団IVE(I’ve)の歌姫(100曲以上の歌や歌詞に携わる)と言われる。その筋では以前から人気だった女史を今年上半期の萌え事情に敢えて入れたのは、彼女が比較的有名になったのが4月のメジャーCDデビューであり、かつ同時期にネットで非常に有名になったFlash“とらぶるうぃんどうず”があったからだ。
 KOTOKO嬢を語る上で欠かせない特徴は、歌に“萌え”を見出せるところだ。甘酸っぱい声で“Chu!”とか“Kiss”とかを果てしなく連呼するその内容は、一回聴いたくらいでは嘲笑するだけなのだが、IVE音楽の楽曲としての出来のよさと、女史の確実に脳に侵食する歌声が繰り返し聴くことを要請し、何度も聞き流すうち徐々に、文字通り脳内に“萌え”として根を張るのだ。キュルルン!
 元々アニメ声優が亜流として歌っていたこの“萌え歌”というジャンルは、好き勝手やれる18禁ゲーム市場を中心に2〜3年前から確立されたようだ。甘い声を声質として持つ女性ボーカルが聴者に呼びかけて脳を冒す歌と定義すればかなり正しいだろう。だから今回萌え歌歌手の中で飛びぬけた存在であるKOTOKO女史を代表させることで、このジャンルを萌え動向の一つとみたのである。

[0-3]わたおに について

 “わたおに”という名詞、世間一般ではTBS系の人気ドラマ“渡る世間は鬼ばかり”のことだろう。では本稿で同作品中にて成長してきた“かずちゃん”を取り上げるのかと言うと、残念ながらそうではない。ここでいう“わたおに”とは、1月初旬から5週にわたって販売された期間限定の雑誌・“週刊わたしのおにぃちゃん”のことだ。
 幼女のフィギュアに申し訳程度の小冊子が付いているため、書籍で扱えることが売りだったこの商品、筆者行きつけのオタク系本屋ではそれこそ飛ぶように売れており、なんというかもう半ば呆れ半ば感心させられた。この商品はそれはそれで時代にあっていたことを物語るからである。これは大変と調査してみると、細かい作りこみは実に良く出来ていて、さすが一級フィギュア職人に依頼しただけのことはある。(買って調べたのか? という疑問があるようだが、とんでもない。封も切っていない。)

[0-4]三者を繋ぐもの 〜 ペド数学へ

 上記三つの特徴の共通点は一体なんだろう。筆者にはそれが、“現実離れ”というキーワードで括れるように思えてならない。
 マリみての登場人物たちに親近感を抱かせる方法が成功の秘訣であることは前述した通りだから、一見このキーワードは当てはまらないかにみえる。だが、眼前に展開されるのは、それでもなお我々の現実には決して見出すことのできないパラダイスであることを忘れることは出来ない。現実の街・職場・学校・電車の中には、醜態を晒して己を顧みない人々と、そしてどこまで行ってもその人達の一部である自分しかいないのだ。
 KOTOKO嬢は現実の女性である。彼女に人気が出るのは人間として寧ろ自然ではないかとの問いは、表層的にはもっともだ。だが筆者の感性が狂っているのでなければ、彼女の歌が他の歌手と一線を画している理由は『彼女の歌が人間ではないから』だと考えている。彼女の声は、アニメのキャラクターが歌ったらこうなるのではないかという究極化、人間臭を限りなく無印としたものなのだ。(敢えて言うならパソコンの声か。)だから彼女の歌を聴くものは、歌の先にKOTOKO嬢という“人間”ではなく、おそらく漠然とではあれ2次元キャラを想定しているはずである。
 わたおにについて、現実からの離間を同意しない者はいまい。
 一見無関係としか思えない三者がこのキーワードをもって共通することが判っていただけたのではないだろうか。こちら側の人間は、今や彼女らに思い入れをすればするほど、反比例して自分を取り巻く現実から離れていくのである。数年前に例えばホシノルリがはやったとき、筆者は彼女の冷静な視線に“現実の女性に類似した”ものを想定させる作り手の作為を見出したものだった。だが今にして思えばそれはオタク界の最後の足掻きで、混迷の後に達した今の萌え界に跋扈する現象にはもはや“具体”などなくなっている。今そこにあるのは、“理想”と“抽象”のみだ。

 ここに、萌えが辿り着いてしまったこの“理想化”または“抽象化”の病理は、奇しくも現代ペド数学の行き着いた先に類似する。そしてそうであるなら、本学の先を見極めることは、これほどまでに深刻化してしまった現代の萌えに方向性を見出すことになりはしまいか。
 筆者のペド数学へのモチベーションは、こうして形成されたのである。

[1]ペド数論〜ペド代数学

 美少女への想いの端緒を“ゼロ”とするなら、我々におけるその後の心の展開するさまは、あたかも数直線に類似しているとみなすことができる。ペド数学の基本の位置付けを与えられるペド数論から話をはじめることはだから、同体系の壮大な世界に誘うプロローグとして相応しいであろう。
 数学の世界における“ゼロ”は、輪廻思想を根底に持つインドで発明されるまでは人類の前にその姿を表さなかった。だがこれに対してペド数論における“ゼロ”は、およそ美少女に対して喚起される感情の最発端と定義されている。それは桜舞う春の校庭だったやもしれぬ。雨宿りに駆け込んだ商店の軒先だったやもしれぬ。人それぞれに違うであろうがいずれにせよ、彼女と出会ってしまったその瞬間が、その少女を“他人”ではなく“彼女”と認識したその瞬間が、我々をして全てのはじまり、“ゼロ”だったのだ。

[1-1]自然数&正(常)の数

 そこからはじまるアプローチは、一般に至極まともなものだ。彼は彼女を知るために、一歩を踏み出して、こう言うのだ。「こんにちは。」と。そして、彼女の瞳が彼を映し出してから流れ出す時間は、正しく自然の流れに沿うているといえるだろう。そして次の一歩、また一歩と踏み出される歩みに、次第に変化する心の中はそれ以降、飽くことなく希望を大きく膨らませてゆく。
 筆者自身びっくりするほどまともな文章で構成される上記足跡は、ペド数直線における“自然数”であり、方向として正(常)を持つ数と捉えられる。それはまともな感情を持つ一般人が歩む軌跡であり、我々もかつて歩こうとしたに違いない道だ。

[1-2]負数&性数

 だがここに、この道を歩かなかった彼がいる。これは例えばこのゼロが、遅刻しそうな道すがらぶつかった瞬間に少女のスカートの中が見えてしまったとか、引越し先の部屋を初めて開けたら少女が着替えの最中だったとか言う場合だ。この場合の二人の関係が、上記規定の自然数に当てはまらないことは言うまでも無い。二人の関係は共に歩む関係からは程遠い反対方向にすっ飛ばされるのである。数直線で反対方向に動いたこの関係を、“負数”と定義するのはしてみると至極もっともだ。この関係はラブコメなどではやがて改善され正数に立ち戻る。だが現実には、知り合うにつれうっかり昨日のセーラームーンのネタをふってしまい、やがてオタクであることがばれてしまうなどしてますます嫌われるのが普通だ。負数が逆方向にも果てしなく続いているのはこのためである。
 正の自然数とゼロ、“−”のついた自然数を合わせ、“性数”とするのは、かかってこれが人間の機微だからである。

[1-3]小数&分数

 正数を歩む二人も順風満帆ばかりとはいえない。彼の煮え切らない態度にやきもきしたり、奔放なもしくは天然な彼女に振り回されたりと、ふとしたことで起きる感情の齟齬は、お互いの歩みをギクシャクとさせるが、これは足場となっている数が自然数ではない“小数”値をとっているためだ。
 とは言えまだここにみられる小数は、彼と彼女の歩みの商をとることで表現できるもので、

彼(彼女)の歩幅/彼女(彼)の歩幅
で定義されるこの関係を“分数”と呼ぶ。お互いが割り切れない想いを抱くのはこうした関係を示している。

[1-4]無理数

 後述するペド幾何学において、この分数を凌ぐ複雑な数を見出した。三角関係にある彼と少女二人の位置関係において、お互い完全に拮抗するライバルである場合は、彼と片方の少女の関係を1とすると、二人の少女どうしの関係は1.41421356…という具合に、どこまで行っても不規則な小数点が繰り返されるのだ。分数で表現できないこうした数を、和解不可能と言う意味で“無理”数と読んでいるのは言い得て妙である。(上記数は“人世一夜に女(ヒト)見頃”と読み、ただでさえ移り気な彼の性格を表現している。)
 無理数は全部の数字を書くことが不可能であるため、記述にはもともとの数関係を√という記号で括って表現する。√は“伝説の鐘が外された時計台”を表す象形文字である。ヒビキノゴラス派の少女達はこの関係を非常に嫌悪していたため、中の鐘は三年三月で見捨てられた彼女達の一人が抹消したとする逸話にもとづいて付けられた。こわ。

[1-5]超越数

 どんなアプローチからも系統だって全体を導き出すことが出来ない連続した数が続く数字を指す。いちばん有名なのが、複数キャラ同時攻略の決め手と呼ばれる絶妙なバランス数“π(拝)”だ。複数人との感情の位置関係をこの比率πに留めながら仲良くなることで、三年二月の状態で(どんな状態だ)全てのキャラを射程距離ギリギリに留めることができる。のだが、永遠とも思える(いや永遠に続くんだけど)絶妙な間合いのため筆者にはとてもこんな器用な真似は出来ず、セーブデータを貰っても卒業の日に誰もこないという惨憺たる結果となってしまった。
 もう一つあげると、指数体数で重要な役割を果たす底と言われる数“の”だ。底が“e”でなく“の”なのは、数学との違いを明確にする目的があるが、わざわざ“の”を選んだ理由は後半、あっと驚く形で明らかになるだろう。

[1-6]キュン数

 さて、いよいよペド数論におけるクライマックス、“キュン数”の登場だ。
 上記した無理数を考えることで、ペド数直線は−∞から+∞の範囲で連続的であると捉えられるようになり、そうした関係全てを(現)実数と呼ぶのだが、どうにもこうにも、この数直線状のどの位置にも存在できない者達がいる。現実世界の関係を著しく逸脱し、“虚構”を信望する者、オタクたちである。
 だいたい、彼らは発端、彼の少女との出会いを示す“ゼロ”からしてイカレている。彼にとっての少女は上記したような現実にあり得るそれではない。その少女は、幼馴染で隣に住んでいて朝がた布団を引っぺがしにきてくれるのであり、そうでなければ空から降って来て腕の中にすっぽり納まるのであり、それでも駄目なら道端にネコミミメイドの格好で座り込んで泣いているのである。
 もう何が起こっても不思議じゃないこの滅っ茶苦茶なシチュエーション。そこから始められる彼らの少女への想いはだから、上記したような現実がもつ数直線状にはいさせてはもらえない...表現できない体のものなのである。実世界から逸脱した関係を表現しうる体系、それを探さねばならない。
 幸か不幸か(不幸だ)歴史はそんな関係を見出している。ペド幾何学に言う負の三角関係、すなわち彼が両方の少女から嫌われているような場合、先のような少女のライバル関係はここで取り合いでなく押し付け合いになる。ここでこの時の少女間の関係は√(嫌われ者)の形になるのだが、驚くべきはこの関係が、両少女から押されることで、実数の体系から飛び出してしまうことである。

ではどこに飛び出してしまうのか。これが判らないためこの関係は長きにわたり数とは認められなかったのだが、かの大数学者ガウスにより、実数直線と直交する直線状にこの関係を記述する方法が発明された。ガウスはこの時、嫌われ者という負の関係を√にとったこの存在を、少女側からみた“嫌”を文字化してiで表したのだが、これが、実数軸と独立して存在する形での上記オタクたちの空想恋愛世界、いわゆる萌え関係を記述するのに相応しいことが判明したのだ。オタクご用達のこの軸は、彼らの対象にときめくときの直感的初動動作“キュン”に由来した“キュン軸”と名づけられた。
 空想軸をもったことで、ペド数論で扱えるのは実数軸の一次元から一気に二次元座標面となった(z=実数+iキュン数で表すこれを“妄想二次元座標面”もしくは“スク(水)素平面”という)のであり、オタクたちの空想力が如何に広大なものかを白日の下に晒し出したのである。
(キュンの名称については議論のあったところで、すなわち別次元に誘う合言葉として提案された“キッス”,“Chu!”などとかなり最後まで争ったようである。ただ後二者の、相手を伴わなければならないという点が、純粋に虚を示す単位としての馬鹿馬鹿しさ...力強さに欠けるということが議論を納める理由となったようだ。キュン軸の虚しさは、そう考えるといっそう心に響く。)
 ペド数論はこの後も、全ての関係から逸脱した“超絶萌え数”などを考慮するペド代数などに発展させることができるが、虚構存在に対する萌えの関係を記述するのに適したキュン数を紹介すれば、概論としての役割はひとまず十分だろう。





[1-7]ペド代数学について

問題  あかほり集団が三人います。いま、“ロリ顏で脳天気”,“おっとりお友達”がいる時,残りの一人はどんな美少女でしょう。
こたえ  しっかりものの美人
 三人で何か行動を起こす場合、直線的な性格である“ロリ顔で脳天気”が行動力を示し、“おっとりお友達”がサポートと激励をする。ということは、そのままの二人では突っ走ってしまう可能性があるため、ちょっときつめな性格の足かせ役が必要となる。
 答えの“しっかりものの美人”はかようにして導き出されるのだが、このような、ある問いに対して相応しい美少女を見出すことを“”を得るという。
 上記のような問いは一つ一つ考えて解くことは勿論可能である。だが、与えられた条件から、
画面構成 − {ロリ顔 + お友達(ロリ顔に追随)} = x
物語構成 − (脳天気 + おっとり)         = y
のように包帯式をたてて未知の少女x,yを求める方が汎用性がある。そしてこのように少女を仮の数で置き換えた包帯式を解くことによって少女を同定するのがペド代数である。
 包帯式には上記のような変数が一つの包帯式のほか、変数xyが混在している連立包帯式、xやxなどのn次包帯式などが存在し、数論に見る仮想美少女などへの美少女妄想の拡張は、実を言えばこのような包帯式の解を得る必要から生まれたものだ。(包帯式の項としてあげたx,xなどは“感数”として、ペド解析学の方で紹介する。)
 してみるとペド代数学を、単に包帯式を解くと定義しても良いのだが、これは還元すれば“まだ知らない美少女の側面を見出したい”という要求になる(「あれ〜お代官さまご無体な〜」「良いではないか良いではないか」的な側面か?)。だから現在ではよりこの包帯式の解釈を追究して、“美少女を新たな角度から見直す見方”つまり既知の現象にある操作(演算)を施して未知の魅力を引き出す操作そのものを研究することがペド代数学のテーマとなっている。

[1-8]演算子と行列


 入力された少女が入力とは違う形で出て来る。
入力[少女] → ??? → 出力[メガネっ娘]
とある場合、この???はなんだろう。言うまでも無く、[メガネをかける]という操作になる。この???の部分が演算子であ
り、名詞化する場合は語尾に“〜たん”をつける。数学用語を敢えて例として用いれば,
[ラグランジュたん]  [ハミルトニたん]
のようになる。つまり上記演算は演算子[メガネたん]として
[メガネっ娘] = [メガネたん][少女]
のように表すことができるのだ。演算子は連続して操作を行うことも可能だから
[メガネどじっ娘] = [どじたん][メガネたん][少女]
とすることで複合的な少女の魅力を引き出すことも可能なのである。演算子がわいわいと横に並んでいくから、上記式を行列式と呼んでも良い。
 他にも演算子の例を挙げれば
[セーラーたん]  [白衣たん]  [網タイツたん]
など、服を着せる行為は全て演算子に帰することができる。つまりありていに言えば、コスチュームプレイ一般の行為は演算操作を施すことによって彼女らの魅力を増しているのだとみなすことができる。
 演算子は上記の例では少女に施す操作として考えられているが、逆になんらかの物事を少女に行わせたときに起きる結果を出すという操作、つまり少女演算子というものも考えることができる。
[少女の生活] = [少女たん][生活]
なるもので、これによって少女の生活をさまざまに想像することができる。
 この少女演算子[少女たん]は一般に物語が進むにつれて固まっていくから、この性格付けが上手くいくことが、「キャラが立つ」と言う表現と同意と思えばいいだろう。近年まれに見る明確な少女演算子は[マリみてたん]だろう。出て来る少女の個性が逐一明確なので、その少女が原作にないなんらかの行為をしたときの反応が想像しやすいのである。
[マリみて同人誌] = [マリみてたん][日常]
のように本コミケでも山のように同人誌がでているが、それは[マリみてたん]を自分達なりに計算に使用した結果だということができる。
 コスプレと同人誌はまったく違うもののように見えるが、演算子を使うと同じような式に帰着することができる。

[1-10]行列

 では演算子とは、一体どういう中味なのだろう。一言で言うならばそれは、“単純な計算要素の複合体”である。
 例としてある少女のコミケ用着替えに相当する演算子を見てみよう。これは中味が
なる形をとる。ここでは四つの要素を持つが、もっとたくさんの要素を考えることも可能だ。
 さて次に、これに入力される[少女]を考える。コスプレを考えるとここでは一般に
という形態をとる。これは単純に数量一つ持っているのではなく、多数の量を一つのものとして扱っていることを示している。RPGのプレイヤーのパラメータだと思えばよく、ボクトル量という。ここでは少女の中に現実面と虚構面が混在しているさまを表している。(ボクトルを美少女からの魅力放射の解析に用いる研究も興味深いところだが、それは三章で解説しよう。)そしてこれを計算すると、
となる。現実的でかつ“かわいい”程度のなコスプレをするならメイド衣装でアクセントとしてうさ耳をつけるくらいだが、悩殺を目的とするならローレグに網タイツだ、というような選択をすることになる。現実が勝つか虚構が勝つかはあくまで彼女の理性次第だ。(理性判断を残しているあたりが数学的でないというなら、上記式に演算子[理性たん]を入れればいい。)
 [少女たん]の例も見ておこうか。マリみての福沢祐巳と小笠原祥子を例にとると、
[祐巳たん] = [百面相 頑張り屋 周囲から好かれる 幼児体形 考え込む ...]

[祥子たん] = [美人 お嬢様 芯が強い 大人体形 一目置かれる 弱いとこもあってそこがまた ...]

といった感じか。一列に書いたのはたまたまで、[着替えたん]のようにn行n列に構成する場合もある。ここで行為の入力として[遅刻]を使えば簡単なドラマができて、
といった状況を想定することができるわけだ。

 創作一般がこのような演算行為と考えていいのだが、新規な演算子を創造するのがいかに大変かは、数多ある少女演算子が悉く消費者に無視されていることを考えるだけで十分だろう。

 ペド代数学では上記のように、“新たな少女の魅力を見つけだすこと”という積極的な姿勢と、演算子・行列が創作の本質的部分であること、の二つを認識することが重要である。この姿勢はやがてその更に上、“少女の魅力とはそもそもどのように組み立てられるのか”というテーマを扱う“ペド群論”に至るのだが、概論の範疇を超える(どちらかというとペド哲学に近くなりそうだ)のと、これをやると若死にする傾向があるので、ここではこのくらいにしておこう。
(より根源的に美少女について考える群論は、二次創作者よりもだから作家や企画者が学ぶべきものである。既存の演算子を見つけてきて作品を作り出すようなあかほり的な創作は、創作行為にプライドをもつ人間がやるべきではない。)



中間コラム “萌え”はベクトルか

 筆者はよく“気合はスカラー、根性はベクトル”のように、変なものの数学的表現を考える。
なんで根性がベクトルかと言うと、「相手がいるから」。
 つまり感情は、それを向ける対象があるときにはベクトルだと捉えられる。だから
穏やか”はスカラーだけど“優しさ”は注ぐ対象がいるからベクトルということになる。
 じゃあ“萌え”はベクトルかと言うと、注ぐ対象がいるので当然“ベクトル”だってことになる。
 だけど、我々に芽生える萌えの総量は、“萌え”ベクトルの大きさだから、スカラー量だと考えることができる。
 この辺のことは、三章で詳細を述べよう。




[2]ペド幾何学

 青森県で見つかった縄文時代のものと推定される土偶が、豊満な胸と大きな腰を持つ大胆なデフォルメを施されていたように、美の追求は形の追及でもあるという状況は、原初からあった。視覚的な美少女の姿形の美を追及するペド幾何学の歴史はしてみると非常に古い。目を世界に転じてみても、古代エジプトではナイル川氾濫の後の区画整理を、男一人と女二人にループ状の縄を持たせて三角関係を作って行っていたというのは、ピラミッド内の壁画などから良く知られている。

[2-1]ヒビキノゴラスの定理

 数論でも少し紹介したヒビキノゴラスの定理とは、三角関係にある男女三人の微妙なバランスを公式化したものだ。例としてダカーポを挙げてみよう。基準を“O兄ちゃん”とすると、恋のライバルであるN夢とSくらの心理的距離は、

の関係となる。N夢とSくら、女性同士の距離であるは均衡状態では一定であるため、O兄ちゃんはどちらかに近づくともう一人の女の子とは離れてしまうという関係を示しており、驚いたことにO兄ちゃんを頂角とした直角三角形となる。ヒビキノゴラスはアクロリポリス神殿の床に敷き詰められたタイルに描かれた26枚の連作絵を見てこの関係に気付いたという。それによれば、1枚目から18枚目くらいまでこの関係はほぼ直角二等辺三角関係を為すが、以降枚数が増えるに従って徐々に片側に頂角O兄ちゃんが移動することを見出したという。
 現在この関係はより深く調べられており、頂角O兄ちゃんの優柔不断なさまは両少女を直径とした円周上を軌跡として動くことや、その軌跡上で均衡が崩れ出した20枚目に簡単な比3:4:5になること、また、最終回一歩手前の25枚目でも5:12:13の関係となることが知られている。当初45°で安定していた三者関係が後者の時期には22°にまで近づくため、クライマックス間近のハラハラ感がこの図形からは読み取れるわけだ。(0°の関係はあまりTVではやらない。この勉強にはOVAやゲームなど、金がかかることが多い。)

[2-2]黄金比

 形の追及と言う意味で美少女をつきつめたのは、ペド黄金比の追及であろう。一般に黄金比とは(√5−1):2(ほぼ1対1.618)で与えられるが、ペド黄金比は、美少女の顔の基準となる横軸線比や目の大きさの比率など、萌え感情を多く喚起する顔立ちを研究して見出されたものだ。すなわち、前者では円を横軸線で分割する時の上下比が黄金分割であること、後者では一般成人女性と美少女との目の大きさの比が、黄金比をなしていることを示すものである。もっとも、美少女の好み全般が低年齢化している昨今の動向からも明らかなとおり、ペド黄金比は必ずしも定数ではないことは注意されたい。この黄金比の根幹をなす公理は、あくまでもオタクたちの深層心理に起因するものだからである。

 幾何学が古代から発展した理由の一つに、証明、つまり何故かという理由付けを論理的に説明しやすかったからというものがあるが、ペド幾何学でもこれは同様で、だからこの“深層心理から来る公理”から、黄金比の変化を一つ説明してみよう。昨今大きく黄金比が偏向した傾向の一つに、美少女の胸のサイズが小さくなっていることがあげられるが、この嗜好変化は、
命題 微乳好みは何故傾向化した?
現実女性のリアル思考に追いつけなくなった
⇒嗜好を低年齢化させよう
⇒低年齢はスク水が似合う

⇒スク水は貧乳と決まっている!!!

と階段論法によってあっさり証明できてしまうのだ。
 ビッグサイトに集まる人々の視線を見れば、視覚的インパクトが感性の中で重要な項目を占める事は言うまでも無い。このような萌え少女の絵画がオタク受けする要因が、彼らの“内的嗜好を視覚傾向として反映させる簡明さ”にあること、これを明快に示すところにペド幾何学の真骨頂がある。


[2-3]エキレイデスの幻論

 上記のようなペド幾何学関係を集大成したのがエキレイデスの幻論だ。それは公準(公理)と呼ばれる5つの基準からなる。
エキレイデスの公準
1.二人で手を繋ぐことができる
2.握手は美少女とが望ましい
3.自分を中心とした任意の半径にオタクは入ってきてはいけない
4.直感は全て正しい
5.正常な交際をする二人以外にもう一人がいた場合、その人とは距離を置いた交際しかできない
(環境庁・絶滅危惧種レッドデータブック’04より抜粋)
 ヒビキノゴラスの定理などもここから導き出すことができるわけで、まさしく集大成と呼ぶに相応しいものだ。加えて幻論は道徳的にも正しいとされていたから、近代教育との兼ね合いもあって、ながきにわたって権威を誇示しつづけてきたのである。
 エキレイデス幾何学の第五公準はやがてオタクの攻撃を受けることになる。

[2-4]非エキレイデス幾何学

 前節では、これを疑い得ない基準として考えるようにという五つの公準からペド幾何学が構成され、それが長く絶対権威であったことをみた。だが他の四つの公準に比べ、五つ目の公準に対しては、「べつにつきあってもいいじゃん。」と考える人間もいた。
 ヤーノ(ペル)シャ・ボーヤ,カール・ツキガスキ・ガウス,ロリプニスキーの三人はそれぞれ独立にそう考えた。ガウスは三人の中でおそらく最初にこの考え至ったものの、「非道徳的だ。」として発表しなかったから、栄冠は他の二人に帰せられるべきだろう。ただボーヤは親子二代で研究に勤しみ、親父のいかれた研究を苦にしたお母さんから「頼むから止めてくれ。」と言われたのに聞かなかったんだから罪なもんである。
 じゃあ非エキレイデス幾何学とはどんなものか。これは上述したように、エキレイデス幾何学の第五公準を読み替えることによって再構成されたものだ。すなわち“正常な交際をする二人の関係を直線とするとき、もう一人との関係を
(i)付き合っても問題なし
(ii)道徳的に付き合おう
(iii) 付き合わない
の三つに分け、それぞれの幾何学が矛盾無く存在できることを示すものだ。
 (i)はちょっと考えれば判るように、浮気を認めるようなニュアンスがあるから、不道徳を理由にガウスが発見しながらも公表しなかったというのもまぁ頷ける。“ダメ幾何学”と呼ばれるのはそのためだ。(だが不道徳と言っておいて密かに研究しているあたり、ガウスもけっこう好き者である。)エキレイデスは(ii)にあたる。均整と整合の取れたイデア的な世界での男女の交際を考えたギリシアペド哲学の流れをそれは体現していると言っていい。付き合わないよと考える(iii)が、“破局幾何学”と呼ばれるのはこの連続性で考えるともっともだ。
 発端としてどろどろとした男女関係を想像させる非エキレイデス幾何学が、しかし現在ペド幾何学の一大分野としてとして開花しているのは、この最初期にまつわる歪んだイメージを超えたときに始まった。
 というのも、非エキレイデス幾何学ではエキレイデス幾何学のようなお互いが正常にとどまる関係ではなく、“対象となる少女にどれだけ惹かれるか”という関係を扱うのだが、この割合を好色などの度数ではなく、もっとペド学に即した内容、すなわち“萌え率”として定義したのだ。これは重大な発想の転換だろう。すなわち萌え率は、ある少女の容姿形状がどれだけ萌え、すなわちプラトン的愛情を注ぎ得るかを示す指標としたからである。
(i)正萌え率(ダメ幾何学):萌えを感じる少女
(ii)萌え率0(エキレイデス幾何学):お付き合い可能な女性
(iii)負萌え率(破局幾何学):萌えを感じなくなった女性
このように定義し、それぞれの幾何学に伴う女性の容姿形状を調べることで新たな研究意義を見出したのが非エキレイデス幾何学なのである。
 この幾何学は形状的に判断できるところが面白い。今萌え率を正から負に変える場合の、円の変化を見てみよう。(図2-2)


 円は少女の顔の輪郭を表したものだ。真中が通常の少女、左が萌え率正、右が萌え率負となる。これを見ると、左側の丸がいささかつぶれ、視線位置を示す水平軸線が中心よりやや下に来ている。これに対し右側の丸は縦に長い楕円としてつぶれ、視線位置水平線が中心よりやや上に来ている。
 更に図2-3も見てみよう。

これは少女の体形を簡易形状で模したものである。真ん丸の塊のような左図から徐々に鋭角的に変わっていき、右側で萌え率が負になっている。
 これは“萌え”の本質を実によく表している。すなわち萌えとは幼児体形もしくは童顔を伴った少女に対して感じる感情であって、大人の女性に対してそれは感じなくなる体のものなのだ。
 この非エキレイデス幾何学を利用したものが二つある。一つ目は、冒頭に述べた“わたおに”である。萌えを喚起することのみを目的としたそのフィギュアの形状は、正に本学の粋を結集したものだったことがここにご理解いただけよう。二つ目は、不具合OSと言われるWindows Meを擬人化したMe子たんだ。彼女はその容姿をダメ幾何学の中で敢えて構成することで、“ダメ”というレッテルを貼られたものでも“萌え”を伴った愛着に変え得ることを身をもって示したのである。(それもある意味ビ○ゲイツの陰謀なのではなかろうか?)
 ここに見てきたような、非エキレイデス幾何学で明らかにしたことは非常に興味深い。というのも一般には、萌えと恋愛は連続性はあっても違うものの用に思われるからだ。大人の女性に対して感じるのは正に恋愛感情であり、基本的にプラトン的な萌えはそれ以上の関係を洞察するには不向きだと考えられるからである。
 さて、ペド幾何学はこのような拡張を経て、そもそも形態的特長をすら凌駕したペドロジー(位相萌え学)に行き着く。これは全国12の都市に散在している美少女を最短経路で遭いに行くというキ○ガイじみた野望を諦めさせるために考えられた。オレジャナイ・オイラーはこうした行動が煎じ詰めると多方向ストーカー行為にすぎないことを示し、「相手の方が“引く”」と、根本的アドバイスをしたのだ。これは萌えの特徴のみを捉えて記号化した場合、それが他者に受け入れられるかどうかを示そうとしている。現在では萌え行動よりも萌え形状に対して研究が進み、顔の中で目の占める面積が大きすぎるデザインや、耳の極端に大きな配置で童顔を出すレッツ&ゴーからビーダマンまで続くシリーズが受け入れられるかを考える指標になっている。後者はここまで来るとピカソの絵までもう一歩だと一時期思っていたのだが、いつの間にか目が慣れてしまった。そういう中でデザイン的新奇性を出さねばならないキャラデザイナーの苦労は察するに余りあるが、ペドロジーはそんなとき、発想のきっかけを与えてくれるだろう。
(オタクの中には萌えを感じることが愛情だと考えている人がいることも事実だ。こう言う人は現実の女性に対して“そっぽを向いて”いるわけで、それはそれで悲劇なのである。では筆者はどうかって? 野暮なこと聞くな。)

[3]ペド解析学


 オタク者と少女の主観的関係の広がりを捉えるペド数論と少女の魅力を見出すペド代数学。同関係と少女の容姿について形態的、視覚的に捉えるペド幾何学をみてきた。ペド解析学は原初性こそ前二者に譲るものの、ペド数学三本柱の一つであることに違いはなく、移ろいやすい少女の心の動きを動的に捉えようとするものである。
 具体的には、ある時点での少女の心の状態を見て、その直後の状態を予想する。この、時間ごとの動きを表す数学的記述を“感数”といいf(x)で表すのが普通だ(fはfemaleのイニシャル。xは多く時間tに置換される)。だが、予想に用いる関係として、以下のようなものが基本となる。

[3-1]線形関係

 ある時点での少女の振る舞いがずっと持続するもしくは一定に変化するようなとき、彼女の性格は“線形的”であるという。個別の性格でこれにあてはまる少女は“冷静”の評価を下されるホシノルリのような存在があてはまる程度だが、線形関係が重要なのは寧ろ作品全体としてみた場合についてである。近年よくある“バイキング料理型”美少女ゲームやあかほり型のアニメなどは、一人一人は別個の感数が割り当てられているものの、全体として見れば先の展開が読める。このような、現在我々が持っている作品を見るときの文法に沿って未来の展開が単純に予測できるものを“線形関係”という。数式としては
f(x)=ax
で表されるものだ。(aは定数)
 物語としてみた場合、こうした類型化はあまり感心できないかもしれないが、少ない可能性で市場に受け入れられなければならないゲームやセルアニメでは、購買層に判りやすくカテゴリーを示すこともある程度止むを得ないところだ。寧ろそうした枠を限定して、更にオリジナリティとか面白さとかを出していくところにクリエイターとしての腕の見せ所があると最近は考えている。
 さて、線形関係以外の関係は全て、“非”線形関係ということになる。これら少女感数f(x)はそれこそ美少女の数だけ存在するのだが、解析の際の基礎となるいくつかの感数を紹介しよう。

[3-2]代数感数
 x x ・・・ x
 自分自身をかける。つまりべき乗することで表す感数で、これらに定数をかけていろいろ組み合わせたもの全てを示す。(xを二次感数、xを三次感数と呼ぶ。)
 “自分自身をかける”とは、美少女感数的にどういう意味を持つのか。例えばシリーズもののアニメを見ているような場合、はじめはメインキャラの一人として類型的性格を与えられ、線形的未来を予測できるような脇役美少女がいるものだ。ところが回の進んだあるとき、その美少女の言動がいつもと違う、もしくはその美少女の日常(富野作品だとシャワーシーンもあったりする!!)が活写される話が存在する。このような話に遭遇すると、我々はこの美少女に対して持っていた認識を多様的に改めることになる。彼女の新しい一面が垣間見えたと言うわけだ。そうした話を数学ではシリーズにおける彼女の“特異点”と位置付け、そこでそれまで単調だった感数曲線が方向を劇的に変化させたとみるのである。
 そしてこれを数学的に表現するのがいわゆる“自分自身をかける”ことになるのだ。
 例えば、自分を三回かけた三次感数x3のグラフ(図3-1)を見ると、この感数は特異点が二つあると読める。これは、この美少女が出演したシリーズ中、このキャラにスポットを当てた回が二回存在したことを示すものだ。半年26回のシリーズだと、だいたいこれくらいの感数になることが多い。この二回の話によって人気が上昇するか下降するかは、その時の特異点付近が示す性質による。(微分のところで詳述する。)






[3-3]三角感数

 どちらかというと類型的性格をあらわす感数の一つだ。

Sin:正幻波 Cos:余幻波 Tan:性節波
 直角三角関係のそれぞれの辺に対応した感数で、先述した三者の好感度のバランスが変化してで円軌道を描くときの各人の関係を表現したことから三角感数の名がついた。正幻(ヒロイン)と余弦(サブキャラ)は相容れない関係であることが痛々しい。
 三角感数を実例で解釈すると、多くの場合1話完結連続モノに登場するヒロインの性格が近い。Sinは物語の始めは中立だが、その後の展開いかんで気持ちが浮沈することから、しずかちゃんタイプのヒロインがこの感数で表現される。また、始めはテンションが高いけどその後落ち込み、最後で救いがあるといった展開をするのがCosであることを考えると、マリみての祐巳などが比較的このパターンに近そうだ。Tanは軌跡を見るとおり毎度毎度怒る事が魅力の一つになっていることを考えると、エヴァンゲリオンのアスカなんかが典型だろうか。(ドロンジョさまと言ってもいいのだが、さすがにちょっと本学の趣旨から外れる。)

[3-4]指数感数,体数感数
で表されるのが指数感数だ。これは底“の”の大小によって劇的に性質が変わる。この感数で表現されるもっとも顕著なものに“スカートの魅力”がある。
の :スカートの長さ/丈下の長さ
x :年齢(0<x<18=絶対防衛線)
としたときの、魅力の変化量を示したものが図である。“の”が1より大きいうちは年齢が高いほどに魅力が増すが、1以下になったとき、すなわち常に中が覗いているような時には、魅力はなんと下降線をたどるのである。常に見えてしまう上で年齢が高いのはもはや猥雑でしかないのであり、萌えの魅力とはなり得ないのだ。(指数の“指”はスカート丈が膝上指何本と決められていることからきているのは象徴的だ。)
 これに対し、指数の逆感数の関係にあるのが体数感数だ。
LoriX
で表される。萌えは数値化すると巨大であるため、“扱いやすい”状態にしてから利用するというのが発想の発端で、この計算を施すと成長した少女が幼女化する(だから“”数という)ため、行動の先が読みやすい、もしくは研究にお金がかからないというメリットがある。とはいえ、
扱いやすい ⇒ Lori
という思考過程が、如何にも本学研究者の実生活でのダメっぷりを示している。
 幼女嗜好性及びそれに付随する“わたおに”の好調ぶりは、実のところこの体数感数と同じ位置付けを持っていると筆者は思っている。現実の自我を肥大化させた女性に対する愛情の注ぎ方がわからなくなったオタクたちの視点は、体数化された微小数値を発する幼女フィギュアに向けられることで、辛うじて自己の論理性を保ち、逆にロリ性を強固にしているのである。だからこうした論理...ロリを体数を使って表すと、
Lori (現実女性) =わたしのおにぃちゃん
という関係になる。かのフィギュアにおいてどちらかというと媚態のようなものを感じるのは、体数化することで却って強調されてしまったからだろう。
 指数体数の本領はキュン数が絡んだときに発揮されるから、請うご期待だ。
 さて、上記までで基本的な感数は紹介した。ここからは、美少女の感情の動きそのものを表現した感数をf(x)について、さまざまに計算する試みを見ていこう。

[3-5]微分法

 美少女の気まぐれに翻弄されるのは、古今を問わずオタクたちの苦労の元となっている(中には喜んでいる者もいる)。だが故にこそ、その気持ちの揺れを調べる橋頭堡として、瞬間瞬間の心の揺れを記述する計算法が望まれていた。美少女の“微妙な気分”を扱う“微分”はだから、オタク研究家達にとって待ちに待ったツールだった。
 微分法は極限の考え方に起源をもつ。近年ローレグなる水着もしくは下着のファッションが萌え絵界で台頭してきたが、あのように少女の腰部を覆う布を小さくしていった場合に、萌えが究極的にどうなるかを調べる計算法がある。
なる記述をとるもので、limlimitを表し、ちっちゃいものやぷにに対する属性を示す接頭語だと思えばよい。三角Δは勿論くだんの布である。あえて読めば、
“ちっちゃいもの属性をΔに適用してどんどん小さくした美少女に萌えるなぁ”
となる。この布で隠されるべき部分をここでは極限値と呼び、Δがどんどん小さくなることで、極限値は一つの値に収束することがわかっている。三角が当の布を表すならば、Δではなく∇ではないかとの指摘があることはもっともだ。これはこの極限専門の数学者が、研究熱心のあまりほとんど見上げるほどのローアングルから調査を敢行したことに由来する。
 非常に不道徳な行為ではあるが、彼の勇気ある行動のお陰で上記数式の答えが
0))`b゜) ・  アウッ
となることが判明したのは幸いだ。我々は彼の奥歯の犠牲に敬意を表そうではないか。(もしくは手鏡を使う方法もあったようだが、今使うと捕まるのでご用心だ。研究者にとって「リミッター解除!!」の台詞は魅力的ではあるが、やはり禁じ手と弁えるべきであろう。)
 この極限の、ギリギリまで突き詰めるという方法論が、微分における“瞬間の少女の気持ち”を探るのに有効だった。だからこそ今度は三角布ではなく、瞬く間を表すh(はっ!のh)とした
を、微妙な気分の瞬間値と定義したのである。少女はある瞬間に見せる魅力こそ我々をはっとさせるため、これは“同感数”と呼ばれる。目に焼き付けられたその姿に我々は心を奪われるからこそ、微分を示す添え字として“キュン”をあてているのだ。(キュン数と語源は同じだが、使いみちが違うことは注意されたい。)
 微妙な気分を知ることで、我々は少女の奔放な気持ちの方向性を知ることができる。前述した代数感数の特異点付近にこの微分法を適用すると、値が正ならうきうきとして上機嫌の女の子を更に持ち上げることを、負ならちょっと沈みがちになっている子も萌え〜なんて言ってる場合じゃなくて慰めてあげるというようなことができる。具体的な美少女ワールドへの実用性を持ちうるのである。

[3-6]積分法

 瞬間的な魅力を探る微分法に比べると地味な感は否めないが、積分法も美少女研究には不可欠な要素だ。これは微分とは逆に、少女の行動を逐一累積していくことで、分厚いストーキングファイルをつくる...じゃなくて長期的な性格像を捉えようとするものである。
 積分は大昔のとき○モで卒業時に告白されて大団“円”となるイベントを、当時の変態数学者アルメイドスキが一週間に一度のデートの累積として捉え、しかもかなりの精度で導いたことに始まる。やがてこの累積状況をより数学らしく
と表すようになった。一回一回のデートの“ご機嫌の貯金”をこつこつ貯めていくという意味がΣにはあり、がま口を横にして覗き込んでいるさまを象った象形文字である。(底が上げ底になってきているあたりが涙ぐましいではないか。)さらにこのデート回数を限りなく連続的にこなすことでへとへとに...じゃなくて連続感数にも適用できるようにしたものが積分法なのである。すなわち定義として
なる考え方をしているのが積分なのである。ここに示した∫は時、すなわち出会いから結果までをイメージしており、右肩上がりのシグモイドカーブを描いているのは研究者の願望の現れであろう。しかしそもそも、デートを感情調査の基礎としていながらも、研究者自身への好悪感情ではなくあくまでも“少女の想い”と客観視しているあたりが本学研究者のストイックなところと言うか、ダメ人間なところと言うか...。
 とまれ積分法が確立したお陰で我々は少女達が自分達にどれだけ不満を描いているかもうすうす判るようになったわけで、爆弾を破裂させないように気を使えるようになったことにありがたいと思わねばならない。
 このような前項までの微分と積分の起源を鑑みれば、両者が元々まったく別物であったことは論をまたない。だからここに、ルリベーグという変態...天才によって以下の式
が見出されたことで、初めて両者が繋がっている、すなわち積分して微分すると元の感数に戻ることが判明したことは覚えておいて良い。“今の少女の表情を瞬間読み取る”微分と、“少女の性格を読み取る”積分が一つの関係であることは、言われてみればそうなのだが、機微に疎い研究者にはなかなか気付かないことだったのだ。
瞬間垣間見せる想いの中にこそ女の子の真実の全てがある
微分と積分の明かしたそれは真理だ。「微分積分いい気分」という格言はここから来たのであり、我々凡人はこの真理に対しただただ「開いてて良かった。」と感慨するほかないのである。

[3-7]ボクトル解析

 ペド解析学を騙る...語る上で忘れてはならないのがボクトル解析だ。というのも代数学の章で述べたように、美少女の持つ魅力を扱うには、列挙された複数のパラメータを処理できるボクトルが有利なのだが、そのうちでも彼女が周囲に及ぼす魅力の空間放射を解析するのに、このボクトル解析が大変有用だからである。微分積分という材料が整った今、これを縦横に活用するこの分野を解説する用意も整ったのだ。
 そもそも美少女の萌え力は2種類の方式を取ることが知られている。一つは彼女の存在自体が持つ魅力であり、[3-2]の三次感数のグラフで呈示した“萌え度数”にあたるものだ。人気と考えてもいいが、そうそう、サイヤ人の持っていたスカウターで測れるような戦闘力ならぬ萌在力と考えれば判りやすい。これは彼女がいるだけで発する力なので、ス(素)カラ力という。もう一つは、彼女が周囲に放射する魅力だ。これは古来からキューピッドの矢にも象徴されるように、大きさだけではなく明らかに方向も有している。矢が刺さるのが我々だからこれは“ボクトル”量なのである。
 では、ある美少女が発する魅力ボクトルはどのように表されるのだろう。それは少女の萌在力fをいくつかの嗜好で別々に微分表現することで表される。例えば同基準を体形{せくしぃな身体(byきりさとななか)}ベクトルと、{美人顔}ベクトルという二つの判断基準で微分すると、
体形 +魅力(大)
体形 +魅力(小)
となる。体形や顔などが太字の斜体で示されているが、これは美少女嗜好の基本ボクトルであることを示している。(普通はもう一つ、性格が基本ボクトルとなる。)
 このように、ある嗜好で微分することを偏微分と言い、美少女の魅力を割り出すこの
crad =体形 +性格
を、演算子cradと言い、“クラッ度たん”と読む。
「気落ちしてはいけなくってよ祐巳。この嗜好が{ずん胴}{たぬき顔}だとしたら、あなたの方が魅力は大きいもの。」
「なぐさめになっていませんよおねえさま。(T_T)」
 萌えの数学的メカニズムとして面白いのは、我々の内に喚起する少女の萌在力が、彼女の魅力矢が我々を通過するときに我々の心にどれだけ彼女の魅力矢がマッチングするかによって決まるところだ。それは内積といい、ボクトル同士を“”で結びつけることで、
我々の萌在力 = 少女の魅力受け手の好み
と表される。なんとなく判ると思うが、
お互いの矢の方向が完全に直交する場合
(-_-;)シオシオ〜
お互いの矢の方向が完全に一致する場合
キタ―――――(゚∀゚)―――――!!
となる。男とは実にバカである。
 男はだからバカなりに、美少女感数fを見る前にある程度の偏見演算子を作っておくこともある。この、魅力発散推定演算子div
div = crad ・
となり、“潜水たん”と通称する。
 “潜水たん”とは、美少女にもぐって(どこに)調べるのと同じくらい詳細に少女を調べることができる方法という意味から
来ている。すなわち、
魅力 d外見=魅力d中味
で表されるガウスの定理のことだ。これは外に放出される魅力を全て集めれば、少女の中味まで見なくても(潜らなくても)判っちゃう。という助兵衛な定理で、好き者の彼に相応しい定理ではある。実際この定理から、少女をあらゆるアングルから取り捲るカメラ小僧が出てきたわけで、当の少女達にとっては甚だ迷惑な話である。
 こうした、オタクの側からの一方向的な解析手法ばかりが発達しているボクトル解析だが、美少女の側にとて好みはある。だから彼女達からこちら側に働きかける手法も存在する。
 それは彼女らの魅力の向いている方向を別の方向に向かせるもので、彼女らが恋する相手の好みに自分をあわせて振り向かせるという健気な計算術である。
受け手の好む魅力 = 変身力×少女の魅力
であらわされ、少女の側からの積極的な対外攻勢手段であることから、外積といわれる。
 変身力に当たるのは具体的には服飾を変えるとか性格を変えるとかだが、魔法力がそれを担うこともある。魔法力
の場合は円運動を基本としているため、この魅力確定演算子rotは、
rot=crad ×
であり、“回転たん”と呼ぶ。
 回転たんを効果的に利用している例としておジャ魔女どれみを挙げることができる。円弧状に配された少女達が己の隣に魔法力を、円の中心に魅力を放出するとき、天の方向にいる視聴者は、彼女らの魅力を物語として最大に享受することができるのである。
(女性は強くあれという思想か。東映はこの一環として、戦う美少女ユニット・プリキュアも見出している。彼女らの攻撃“プリキュアマーブルスクリュー”は、天から力を受け、お互いの方向に魅力を向けることで、正面に外積ぶんの攻撃を行うのだ。プリキュアの美しき魂に吹っ飛ばされるのはオタク共であり、“ごめんな、ごめんな”と引き下がるほかないのである。)
 さて実際、解析学という名を冠するのも、瞬間に見せる微妙な気分を数式化して“微分包帯式”とし、その包帯式を積分して解いてゆくことで少女全体の気持ちf(x)を良いではないか良いではないかと割り出すところから来ている。ところが少し考えれば判るが、部分から全体を類推するのは大変なのであり、この都合のいい考えはなかなか上手くいかない。だから高等解析学の内容は多く、積分値を求める方法や、積分しやすい形にする方法などのテクニックが研究されることになるのだ。

[3-8]セイラー展開(ミクローリン展開)

 我々が少女について知りたいと思うとき、それは彼女の持つ感数f(x)を知ることに還元されるというのが解析学の目標であった。だが、出会いを発端として彼女の情報が与えられている現実で、f(x)を正確に知るなどほとんどありえない。そんなとき、その時点で知りうる情報を累積していくことで、f(x)に近似させていこうという考え方がセイラー展開の方法論だ。
 今、観察...いやいやデートを始める時間を始まりとして、この時点で知り得た彼女の機嫌を“ふつう”だとしよう(初期値)。彼女がこちらに気付き、微笑みかけた表情にはっとする。これがいわゆる1キュン微分を表し、彼女の萌え度が正方向に1キュン分動く未来を予想することになる(第一近似)。ところが人間の機微とは相関が基本であるから、彼女のそうした仕草にはっとして表情を変える野郎側に反応して、少女の態度も僅かな修正を施されることになる。この動きにまた萌えを感じるため、これが2キュン微分の成分となり、先の予想値はこれによって更に正方向に修正されることになる(第二近似)。(負であることもある。いや寧ろ現実にはその方が多い。)そうして連鎖的にフィードバックされることで性格情報を微調整していく。こうして見てくるとこれは人間関係でいつもやっていることだと気付くのだが、数学的に改めて式にすると下記のようになる。
これが未知の美少女感数f(x)の近似表現となる。今近似と言ったが、実際にはキュルルン状態になった野郎にそれ以上の判断が不可能であるため、外部(研究者側)から判定できるという条件をつければ、これは少女感数に等しいのである。
 セイラー展開はこうしたデートが学生時代一般に通じるということで考えられている。これが出会いのときからの展開に限定した場合、別の研究者の名前を取ってミクロ―リン展開と言うのである。

[3-9]オイラーの公式(セイラー展開の応用)

 セイラー展開は任意の美少女感数にて利用可能だ。だから、これを既知の感数に適用してみよう。
=普通+しっかりx+慌てるx2+きびきびx3+転ぶx4
+機敏x5+ぶつかるx6+冷静x7+落とすx8
指数についてはこのように展開される。三角感数はそれぞれ、
sinx=しっかりx−きびきびx3+機敏x5−冷静x7
cosx=普通−慌てるx2+転ぶx4−ぶつかるx6+落とすx8
となる。この3式をじっと眺めてはっとした人は慧眼。x=±iθ(キュンθ)とすると、

±iθcosθ±isinθ       (*)
なる関係があるのだ。
 だが、数学のようにここからθ=πとおき、
 =−1
を導いて凄いだろ、とくるだろうと思った人、甘い。 (^.^)b
 そうではなく、ペド数学におけるオイラの公式は、(*)式のプラスマイナスを用いてcosとsinを求めるのだ。すると、
となり、分子に忽然としてメガネっ娘とお目目パッチリのロリ少女が姿を表すのである!!
 無味乾燥な数式の中に表れる癒しの天使。
 これこそがペド数学の神秘といわずしてなんと言おうか。
(補足すれば、Cosの娘は数式から察するにおそらくドジっ娘である。また式中の口にあたる_は、上の部分が分子であることを明確にするために表記した。ちょっと無理があるあたり、これを“オイラの公式”と独断ネーミングした訳もわかろうというものだ。)

[3-10]スク素感数への展開


 オイラの公式の凄さは、妄想二次元座標平面、すなわち萌素平面(数論において示された実数とキュン数を交えた二次元座標面)という、一見なにに使うのかさっぱりわからない平面とともに考えることで頭角をあらわす。
 (*)式右辺の実数部を構成するCosと、キュン数を構成するSinは、片方の絶対値が増加すると片方の絶対値が減る相関関係にあるため、変数であるθの変化によって円運動を行う。ということは同時に、のiθに円の動きがあることをも示していることになる。ここからわかるペド数学的意味は重要だ。何故ならわれわれはそこに、
1.座標平面は萌え美少女の根源である“二次元”として展開されていること。
2.出会い(ゼロ)から半径値までの円環が、萌えの存在領域であること。
 そして更に言えば、
3.萌え領域の境界を規定する運動が、ドジッ娘とメガネっ娘のフォークダンスであること。
を見出すことができるからである。
 萌えを研究するペド数学において、萌素平面が持つ重要性が、少しは伝わったのではないだろうか。

[3-11]ローラ展開

 キュン軸を含めた萌素平面上の感数である萌素感数になると、先のセイラー展開より凄いことができる。というのも、スク素平面は時間と空間を超越できるため、敢えてその瞬間に拘ることなくじっくりと少女からの情報が得られる(どんな方法で得るのかって? そりゃあ、「表には出せないような方法。」だよ。)ようになるのだ。このため、通常空間では出会い以降の解析法だったセイラー展開をこのマクー空間...いやいや萌素平面では、過去まで遡って解析情報を得ることができるのである。

 具体的にマリみての福沢祐巳でこれを試みてみよう。と言っても、彼女の現在の性質は小説などで十分に知られており、今更解析するに及ばないと言う意見もあろうから、彼女が三年生になった時、つまり彼女の未来の感数f(x)を求めてみよう。(注.筆者はこの時点ではチェリーブロッサムまでしか読了していないから、祐巳二年四月の知識で書いている。)
 セイラー展開でキュルルン次まで解析したように、ローラ展開では時間軸を取り扱う。(セイラー展開が少女の身に纏うセーラー服を象徴して名を冠されたのに対し、∀ガンダムの主人公が女装していた時の名を冠することで、より広義の法則であることを示している。)だから段階的に時間軸を切り取った情報があればより精度の高い解析ができるのであるが、上手いことにリリアン女学園では姉妹(スール)システムというのがあり、生徒会では三薔薇さまから蕾、その妹と続く時系列を観察することができる。この段階的時間軸を切り取って利用すると、
と表せるのだ。これを“ローラ展開”という。精度を帰するなら本式に、
の項を付加しても良いだろう。
 ところがここで驚くべきことを示そう。上記式、全体に萌素数Zをかけるのだ。すると(祐巳妹)項以外には全てZ項が含まれるようになるが、ここで、Z→卒業としてみよう。すると、(祐巳妹)項以外全員リリアン女学園からいなくなってしまうのである。((現在の祐巳)項も消えてしまうが、これは成長と捉えて欲しい。)数式にすれば、
となり、要求する解は(祐巳妹)の人となりのみが影響することが示されるのである。
 これは最上級生となった場合、先輩薔薇様を尊重はしつつも、彼女らを模倣するより(多分、そもそも祐巳には無理だ)は下級生達の世話をする方が重要になってくることを暗示している。理想を追うより今に留まる生活こそ、自分を形作る基礎であるということなのだ。
 ちなみに、卒業イベントにも負けずに学園に留まる(祐巳妹)項のことを、“留数”という。
 スク素感数論における少女研究はこうしてみてくることで、ペド解析学の集大成であることがご理解いただけたのではな
いだろうか。キュン軸と二次元美少女の相性の良さが、かくまで同分野に活気を与えているのだ。

[4]その他

 ペド数学の現代の主流はこれまでに見てきたペド代数,ペド幾何学,ペド解析学の三つに大きく分かれるが、ここでは三者に帰着しない分野を紹介しよう。

[4-1]確率・統計

 少女がどの場所に多く出没するかを調べ、出会いのきっかけを作ろうとする目的で始められたのがペド確率だ。少女に存在確率係数を掛けるとその場所における出現頻度が出るというものだ。これは現実の女性ではとても算出不可能であろうが、一昔前のPCゲームは出会いの場所がランダムだったので、どうすれば多く出会えるかを調べることができたようなのだ。ただ、このために朝から深夜まで同じ場所にいたり、数十人の仲間(最近のオタクはその辺の仲間の数は多い)を集めて全ての場所に張り付いたりして調べ上げたりした。もうまるっきりストーカーもいいところであるが、ラテン系の脳みそで楽天的に考えるのか単なる日和見主義なのか、オタクはそこまで思い至っていない場合が多い。
 これに対し、来るべき美少女枯渇に具えて現在の傾向を知り、将来少女の多く表れる雑誌を買っておいて後で自慢しようと言うのがペド統計・推計学だ。いかにも地道なゲルマン系の学問だ。ネットオークションでの高値を考えての投機的買物もあると言うが、パチンコと同じく、投資額に見合った儲けを出した人など聞いたことが無い。

[4-2]ペド集合

 ペド集合論も基本的には地道なものだ。ある集合を考え、それに見合った少女を見つけ出し、そこに加えるというもので、コレクターのやっていることに近い。
 同じ要素を持つ少女の集まりを考え、集まり同士の関係を考える。ルールは単純なものだ。
(i)  ̄(でない): その集合でない集合(差集合)
 例.A={元気っ子の集合}のとき、={病弱っ子の集合}
 どっちもまずまず。
(ii)∩(かつ): 集合と集合の共通項の集合(積集合)
 例.A={メガネの女の子の集合} B={天然ボケ女の子の集合}のとき、  A∩B={天然メガネっ子の集合}

(iii)∪(または): 集合全体をあわせた集合(和集合)
 例.A={スク水少女の集合} B={ブルマ少女の集合}のとき、  A∪B={夢のような集合}
この三つの規則を集合に演算することで、あらゆる少女を見出すことができるという。これが通常の集合論であるが、この演算に関しては去年筆者の書いた『ペド論理学概論』に詳しく、今回正直燃え尽きているので、別記参照されたい。

[4-3]無限集合


 集合の要素を萌素というが、これが無限にある状態を指す。集めることに終わりがないという点でもコレクションに比せられるだろう。
 さて、無限集合は通常の集合と違い、奇妙な状態をもたらす。オタクは年季が第一と言われることがあり、筆者も上の世代にはいまだに頭が上がらないのだが、無限集合の場合、
大昔からの魔女っ子集合 = {サリー,アッ子,リミット,メグ,ルンルン,モモ...}
中昔からの魔女っ子集合 = {モモ,マミ,ペルシャ,エミ,ユーミ,ミント,...}
小昔からの魔女っ子集合 = {ミント,姫子,チャチャ,サミー,コメット,小麦,...}
我ながらそらでこれだけ列挙できるのもどうかと思う(まだでたりする)が...、ま、まあそれはともかくだ。オタクの年齢に起因するこれらの情報合戦では、通常は上位の人に敵わなかった。上位の人は話に窮すると下位のオタクの弱点である昔の話を持ち出して優位性を保とうとするからだ。「あの作品は○○の焼直しなんだよね〜。」なんていわれると、心の中でグッと拳を握りしめ、「そんなん威張れたもんじゃねーや、このオタク!」と近親憎悪を湧かせるしかなかった。
 だが上記集合をよく見ると、{...}の先が終わっていない。つまり無限大なのだ。この場合、各集合の一つ目、{サリー,モモ,ミント}を第一番目、以降第二番目を{アッ子,マミ,姫子}、第三番目{リミット,ペルシャ,チャチャ}...と番号を振っていくと、どれもず〜っと対応ができる。これは紅白歌合戦の最後で、籠の中から玉が延々と取り出される状況と同じで、つまり決着がつかないのだ。
明らかに上の集合の方が先の要素から始まっているのに萌素数が等しい
 これはどういうことなのか。老舗のオタクであるガリレオ・ガリガリ博士も、アイスをかじりながらこの現象に気付き、頭がキーンとなったため、考えるのをやめたという不思議現象だ。
 これに果敢に挑んだのがゲルググ・カントールだ。さすが新型! 彼は上記のように萌素に等しく対応をつけられる集合の“濃度”を同じとし、上記三者を全て基本濃度
:アレレゼロ
とした。は魔法使いの印綬の一つと言われており、“アレレ”と読む。ちなみに呪文の続きは、「おかしーなこのときめきはー」とつづく。(この呪文は繰り返し聴く者を“萌え状態”にする恐ろしいもので、発声は特異な声を持つ巫女が行った。だから普通の人間にはとても再現不可能だ。キュキュン!)
 とまれカントールに拠れば、このアレレゼロの状態と判定された三者のオタクとしての“濃さ”は同じだというのだ。これで君も年長オタクに辟易することなく自分の道を突き進むことで、若くして彼らと同じ“濃さ”を身に付けることが可能となったのだ。(ただし∞、つまり一生続ける必要があるのだが...いやでしょ?)
 カントールの無限大の理論はまだまだ続き、彼はなんと上記濃度がもっと濃くなる状態すらも明らかにしたのだが、コミケ伏魔殿の最奥部に潜むような彼らのことを暴いたこの研究、筆者は怖くてこれ以上口にすることができない。ひー。
(カントールは彼らの呪いのスパムメールと掲示板あらしに遭ったため、気の毒に最終的に精神を病んでしまったという。さすが新型...。)

中間コラム フェルマーの最終定理

  筆者とフェルマーの定理との出会いは、もう10年以上前に遡る。まだ駆け出しのチンピラだった筆者は、一人で売り出そうと躍起になった挙句、コミケに手をだした。
「壁際になろうってな。」
 彼らの秘密がどこにあるのかを調べようと某サークルの列に並んだ。折りしも日本は記録的な熱帯性高気圧に覆われ、その日の日差しはゴジラの放射能すら凌ぐレベルだったから、帽子を被らなかった筆者は倒れ、やっと木陰に這って行ったが、もう動くこともできない。その時...。

 あぁ。このコラムの余白じゃあ狭すぎて、続きが書けやしない...。




[5]ペド数学の統合と集合論の意義

 前世紀末、ヒモベルトはペド数学の統合という野望を思いつき、誰が一番かを決めるために天下一武闘会を開くことにした。群雄割拠するペド数学会は、各個つわものが多く、トーナメントは熾烈を極めたが、四強として残ったのが、“代数学”と“幾何学”、それに“解析学”と“集合”だった。
 準決勝第一試合は“幾何学対解析学”。幾何学は神の技と言われた得意のエキレイデス定理で流れるような論理を見せつける。わははは! 幾何学に王道な〜し!!勝ち誇る幾何学だが、若い解析学はすでにルリ・デカルト老師から秘策を受けていた。武闘会床に敷かれたタイルを座標と見立てる特訓により、幾何学の全ての技を既に見切っていたのである。
「マトッリクス・デカルトぉっ!!」
ズシャアッッ!
目を閉じて歩み去る解析学は、余裕の笑みを浮かべていた。
 準決勝第二試合は“代数学対集合論”。準々決勝で数論を下して圧倒的な強さを見せ、優勝候補とまで言われた代数学だったが、意外にも集合論に歯が立たなかった。代数包帯式を全て集合に置き換えられ、最終奥義である“群論”すら、環体攻撃を見切られては代数学に勝ち目は無かったのだ。試合後の代数学のコメントも消極的だ。
「あいつとは実数体を共有している。ロリ構造に乗られたら勝ち目は無い...。」
 波乱万丈を予感させる決勝戦は、前半解析学が押しまくった。代数学との戦いで有効だった相手の技の“ロリ化”が、解析学のセコンドについたラッセルによって弱点を指摘されたからである。「やつのパンチには穴がある!」
 更に身内からも反逆者が出た。取り込み方式でどんどん勢力を伸ばしていった集合は、およそ問屋にウケが悪く、チンピラだが天才のゲーデルをスパイとして送り込まれていたのだ。
「集合論は自分のパンチがどこに当たるかを保証できないんだ!!」
これには集合論も焦った。影ながら押していたヒモベルトはこれで白髪になってしまったくらいだ。
 だが、勝負は意外にも、集合論の勝利で決着した。武闘会場を全て吹っ飛ばす集合論最後の大技・気吼砲で、解析の足がかりとなる少女入力そのものを断ち切ったのだ。後はどちらが先に地面に落下するかの勝負だったが、ゲーデルによって足が地に付いていないことを指摘された集合論は、皮肉にも空を飛べるようになっていたのである。
 このようにして、ペド数学界は集合論によって統一されたのだが、上記したように集合論は己の論理のうちに既にして付き合うことが説明不能な不透明少女を抱え込んでいて、それに全数学界が付き従う現状は、砂の上に堅牢な城を作る行為に等しいと筆者には思えてしまう。
 支配体制についてもそうだ。集合は各学を己の言語による度量衡統一を始めたが、その法典は既にペド数学の専門家にしか判らない言葉で書かれており、現代のペド数学はこれに依拠するため、日々深められるるロリ狭義は純化するほど抽象化し、いまでは理論のためのロリ理論に堕しているというのが正直なところだ。どういった形かにせよ現実の萌えにリンクしていたそれまでのペド数学から見ると、既に自己満足でしかなくなっている。エンターテイメントであることを忘れた文化には、変人以外の継承者はいないだろう。
 我々民衆にロリを復帰することはできるのか。それは結局我々次第なのだ。

[6]おわりに

 以上長々と、ホントーに長々と、ペド数学について述べてきた。冒頭に言ったロリ界の陳腐な理想化、抽象化が、[5]で述べたペド数学の現状に似ていると言ったことが腹に落ちたのではなかろうか。現実に依拠しないペド数学は、文化貢献という意味から見て空虚である。そしてそれは、現実に依拠しなくなった我々の萌え感情に対する空虚さとどこかあてはまるのだ。ペド数学は現実と共に歩むもしくは、現実にアプローチする努力が必要であるはずで、それはだから我々自身にもいえるのである。
 書を捨てよ。そしてテレビとPCも捨てて、あなたは半年振りに街へでようではないか。日の光を浴び、コミュニケーション
を求めて歩み出そうではないか。
 今日はコミケなんだから
                         おわり

  注.上記オチは、本書がコミケで初発表されたことに起因している。




あとがき

 数学をペドシリーズのネタにしようと思ったのは、もう10年以上前の話さ、まだ駆け出しのチンピラだった...ってのは冗談で、まぁ去年('03)の6月くらいですかね。僕のスタンスは、決めた分野の概論と言われる本を片っ端から読みまくって自分なりの説明を抽出するというやり方で、今回も同じやり方で20冊くらい読みましたか。
 で今回思ったのが、この方法は使えない...。
 出回っている数学の本は、いずれも“ある分野”の理解には適しているが、それ以上包括したものが無いんですよ。数学という学問を鳥瞰して眺める視点の本が無い。何とか全集全30巻なんてのはあるんですが、そんなの読んでも一巻目の内容を忘れちゃうし、全般的な視線は得られない。そりゃ入門書はありますよいくらでも、でもそういう本って極端に一般向けで役に立たないか、だいたい受験数学もう一度、みたいなノスタルジックでしかない。数学史も2?3冊読んでみたけど、数学にまつわる状況の歴史であって、概念がどう発達してきたかを説明したものは無かった。(これは実際、数学と言う分野がアリの巣のようにあっちゃこっちゃと枝を無秩序に伸ばしていったから、しょうがないところはある。だからヒルベルトが総括しようとしたんだし。)
 とてもわかりやすい数学の本は結構あった。今回解析学を複素関数論までまがりなりにもパロディにできたのは、“物理数学の直感的方法”っていう長沼伸一郎氏の本のお陰だし、山のように読んでたはずなのに、アインシュタイン理論の基礎となる非ユークリッド幾何学についてはっとさせられたのは“数学が解き明かした物理の法則”っていう大上雅史、和田純夫両氏の著作による。そしてそもそも“四次元の林檎”をはじめとする大上丈彦氏の三部作が無かったら、どこから手をつけて良いかさえわからなかったろう。でもそれらの本も、「完全な理解じゃなくてもいいから全体を見渡したい」っていう僕の欲求を満たすものではなかった。(そういう意味で一番俯瞰していたのは、意外にもブルーバックスの“マンガおはなし数学史”(仲田紀夫氏)でした。この本が僕の目指していたものに一番近かった。)
 今の数学界には、そういう大きな視点を持って本を書ける人がいないんじゃなかろうか。ヒルベルトのような高邁な理想は数学者までで止まっていて、それを一般に流すような本は存在しないんじゃないか。
  こりゃもう自分でやるしかない
 結局僕の行き着いた結論はそういうものでした。だから今回とんでもなく時間がかかったのは、下敷きにするものがない状態で、自分が目指す数学概論をまず自分で打ち立てないといけなかったからです。

 で、できたのがこの本です。代数学と解析学の位置付けが曖昧だとか、いくらなんでも確率統計がすくないとか、不備な点は多々あります。そもそも志の壮大さに比べて随分といかれた本じゃねーかと思われるのは当然なので、その辺苦笑するしかないんですが、僕なりのやり方で俯瞰したという達成感はある内容にしたつもりです。
 ペドシリーズは、読み手が自主的にその学問を続けようとするきかっけを与える本を作りたいと言う、僕の密かな野望を体現した作品なんですが、読み終えられた皆さんはどう感じられたでしょうか。


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