つぶ餡のアイデンティティ

カロ藤法之

 小さな子供達の間で長年人気のあるヒーローと言えば、“しましまとらのしまじろう”や“かいけつゾロリ”を挙げる人もいるかもしれないが、ネームバリューをみたとき、一番を取るのはなんといっても“アンパンマン”だろう。ジャムおじさんのパン工房から生まれた、アンパンの顔を持つ正義のヒーロー・アンパンマンが、悪いことをたくらむバイキンマンを懲らしめるという、判りやすい勧善懲悪作品だ。やなせたかし氏の絵本から生まれた本キャラクターは20年前にアニメとなるや爆発的な人気を博し、その丸い愛嬌のある顔がそれ以降、ずっと子供達の間で絶大な指示を受け続けていることはみなさんご存知であろうところだ。
 アンパンマンの構想は、やなせ氏の戦後における食料難経験に発するといわれる。そのため、お腹がすいて困っている人の元に飛んで行って助けてあげると言うパターンは、初期アンパンマンから連綿と続くプロットとして外せないものになっている。お腹がすいてるときに、アンパンが飛んできてくれたらいいなぁと言うのは、微笑ましいがなんとも直線的な発想といえるが、その単純さが子供にアピールしたのだろう。
 とは言えこの救助イベントの凄いところは、アンパンマンがくだんの人物に何か食べ物を差し入れするわけではなく、彼に対して“自分の頭部をちぎって”与えることにある。筆者が最初にこのシーンを見たときのショックはまさに衝撃的で、修行僧を助けるため自ら火に飛び込んで食料となるウサギの仏教説話を思わせる感動を味わったものだ。助けられた人はそれはそれは感謝して美味しそうに食べるものだから、子供達がアニメを見終わってからアンパンを欲しがるのも無理はない。
 ところで、同作品をあまり知らない御仁は、アンパンマンが自分の頭を食料に差し出してしまったら、それ以降彼の頭部はどうなってしまうのだと不思議に思われるかもしれない。アンパンマンは頭部となっているアンパンが完全形状のときが一番強い。ところが、部分的にせよ形を失ってしまうと、それまで持っていたスーパーパワーが発揮できなくなってしまうのだ。しかし心配ご無用。そんなときは、上記したアンパンマンの生みの親であるジャムおじさんが、新しいアンパンを持ってきてくれるからだ。そしてジャムおじさんはその焼きたてのアンパンをアンパンマンめがけて放り投げ、今までのアンパンマンの頭部がそれと交換されることで、アンパンマンは元気を回復し、ピンチを脱して今日もバイキンマンをやっつけることができる、というわけだ。
 さて、今説明したシーンを実際にアニメで見たとき、筆者は更なるインパクトを受けた。ある意味、自分の身体を差し出すという前述のエピソードに勝る程の衝撃を与えたそれは、アンパンマンが“頭を交換する”ところだ。というのもこのシーン、アンパンマンは、頭部の欠落した部分を手に入れた新しいアンパンで補うとかいった、修復的な行為をするわけではなく、ひゅ〜んと飛んできた新しい頭が古い頭とぶつかって“弾き飛ばし”入れ替わって頭にくっつくのである。つまりそれは文字通り交換、すげ替えなのだ。
 ここに筆者が驚いた理由は察していただけると思う。アンパンマンの交換部位は腕とか足とか、我々が一般に義手義足などと最悪取り替え可能であるような身体部位ではなく、思考を司る“頭”なのだ。
   アンパンマンの自我はどうなっているのか
 本稿のテーマとなる上記疑問、筆者でなくてももたれることだろう。
 

 上記疑問に対し、モデルケースとして考えられるのは次のようなものだろう。
1.新しい頭部と古い頭部で別々の自我が存在する。
2.新しい頭部は古い頭部の自我と同じもの。

 物理的には1.を想定するのが自然だ。新しい頭部の活躍するのを見ながら、その辺に転がった旧頭部は、心臓からの血液供給が無いまま静かにその生を終える...。くだんの場面を素直に解釈すればどう見たってそう思えるのだが、この説ではアンパンマンが複数人存在することになってしまい、自我の個としてのユニークさは損なわれてしまうという難点があることは否めない。だからここに、実際の作品中で新旧アンパン頭部における性格の不一致が認められないことを根拠として、こうした複数自我説を否定するのは確かに簡単だ。だが例えば、どこかにホントのアンパンマンの自我があり、活動する頭部アンパンはそれを逐一コピーしてくると考えれば辻褄が合わないことも無く、単純に一蹴するには惜しい説である。ジャムおじさんの工房の奥には巨大なアンパンがあって、「私がオリジナルだ。」なんて言うかもしれないではないか。
 とは言うものの、作品中におけるアンパンマンの自我は不一致どころかほとんど連続しており、「多分僕は三人目だから。」なんて台詞はこれからも喋ってくれそうにないので、これ以上この説にこだわっても真相にたどり着けそうも無い。
 

 だからここに2.を考えるのだが、これは更に二つに場合分けして考えられそうだ。
2-1.新旧頭部は直接自我を継承する。
2-2.新旧頭部は間接的に自我を継承する。
 直接的な自我継承の非常な困難については、作品中彼の頭部交換がほとんど一瞬で行われることに思い至るだけで十分だ。一般に頭部同士の接触はお互いの頭に星や天使を湧出させるくらいで、そこに正の付加価値を見出すことはきわめて難しい。(しかし、2Dの世界にはこれの例外も見られる。当たった相手が食パンを咥えた女の子で、しかもスカートから中が覗けてしまえるような場合だ。)ただ、物理現象として衝突を捉えた場合、互いに渡す情報として運動量とエネルギーがあるから、アンパンマンにおける自我とはそれに類似したものと考えることもできる。バイキンマンを常に拳骨でやっつける彼は体育会系だろう。とすれば、その程度の情報交換で自我は事足りると言われると、思わず納得しそうである。とは言え、運動量とエネルギーをそれぞれ1bitとすれば、一回の交換で相手に与える情報は僅か2bit! 1文字にも満たない情報量だ。与太郎だって“どっこいしょ”くらいは覚えられるのだから、正義のヒーローとしてはいかにも情けない。
 ただ、上記は映像中で観察される交換を“硬い物質同士の衝突”から類推している。実際の頭部はアンパンでできているのであり、もっと柔らかいから、接触時間は実際にはもうちょっと長いであろう。そうした場合に考えられるのは、アリの情報交換である。“ありさんとありさんがごっつんこ”という歌詞にも見られるように、働きアリたちは餌の情報を相手との一瞬の頭部同士の接触によってやりとりしているから、アンパンマンの頭部の情報交換がこれと類似した方法を用いているとしたら、2bitよりもう少し多くの情報をやりとりしていると考えて良さそうだ。
  アリの情報     :餌のまでの距離と方向 餌の大きさ  餌の種類
  アンパンマンの情報 :バイキンマンの位置  被害の大きさ 被災の種類
いい感じにこじつけ...いやいや推定ができている。自我の全部は無理にしても、少なくとも戦闘情報に関する限り、接触法で伝達は可能なようだ。タカビーなドキンちゃんがバイキンマンをどれだけ足蹴にしてたかなんてことまでは無理にしても、アンパンチをどこに繰り出せば良いか程度の情報は伝わるわけだ。
 では、残りの膨大な自我は間接的に伝えられているのだろうか。これについて、例えば無線などを使えば、情報は送ることができることは間違いないのだが、自我を電波に乗せられるのかというのはこれはこれで納得し難い。まぁ確かにリングのビデオみたいな例もあるからそれもありかもしれないが、それはもうサイエンスではなくオカルトだろう。
 

 さて、我々の探求はこの段階に来てなお、アンパンマンの戦闘情報以外の自我に対しては相変わらず謎のままだ。だから筆者はここに考え方を少し変えてみることを提案する。すなわち自我存在の形体の新たな可能性として、
3.頭部で持っている自我は元々僅少で、残りの大部分の自我は身体のほうが担っている
と考えるものだ。
 これはすなわち、“アンパンマンというのは実は胴体が本体で、頭は寧ろ副次的なものではなかろうか。”とも換言できる。このいささか突飛に思える説を筆者が挙げるのは、驚くなかれその根拠として、“頭部が無くても生存している種族”の存在を歴史中に見出したからだ。
 これは、古代中国における風伝を集大成したといわれる天下の奇書『山海教』、その『海外西経』という篇にそれは見られる。一臂国に住み、名は『形天(けいてん)』。時の帝に反して奇肱国にて戦を交えたが、敗れて首を切られ、常羊の山に一旦は葬られている。しかしにもかかわらずその後、形天は頭が無いまま、“身体の乳首を眼となしへそを口として”マサカリと盾を持って踊ったというのである。
 かつての古代中国にかように、頭が無くても生きている人物の実例があった! だから筆者はここに、更に驚くべき仮設を提唱する。すなわち、
   アンパンマンと形天は同じ種族(一族)である
というものだ。根拠は二つ。
(i)首が取れても生きている。
(ii)首が取れた後は戦わなくなる。
 (i)に異論はあるまい。問題は(ii)だが、舞を舞うだけの形天はともかく、アンパンマンは、頭部が不完全になってからの彼のそれまでとは一転して“弱くなる”性質をここでは“戦わなくなる”とみなしているのである。
 この二つの共通点の特異性を思えば、アンパンマンと形天の関係を同族とみなすことに、異論のあるものはおるまい。

 そしてここに、アンパンマンの頭部にどのような自我が存在できるのかが、形天という同族の特徴によって補足される。まず、形天は首を落とされてなお元気に跳ね回っていたにもかかわらず、何故帝が舞を舞うことを止めなかったか、に留意しなければならない。これは帝が、“形天が首を取られた後には戦わなくなる”ことを知っていたから、それまでの敵対関係を赦して“舞を舞わせた”ことにほかならない。すなわち形天は、
   戦闘的な性格の因を頭部に集中している
ことが判るのである。そして形天と同族であるアンパンマンも、同じ性質を持ち合わせていると考えられるのである。
 これは物理的性質から頭部交換時の情報伝達の困難性、僅少性を指摘した先述の議論とも一致する。
 

 ここにこれまでの成果をまとめよう。“アンパンマンは生存における自我のほとんどは身体の方にあり、頭部には戦闘に関わるものしか存在しない”ことを提唱した。根拠として、物理的側面から“アンパン頭部交換時における情報伝達の僅少性”を挙げ、かつ歴史的側面から“頭部がなくなると平和種族となる形天と同種族であること”を挙げたのだった。こうしてアンパンマンの特異な自我構造を解明することで、“アンパンマンの頭部すげ替え”という、同作品における一大難問は、解決をみたのである。あんこの脳みそでは、所詮戦うことくらいしか考えられないと言うことなのだろう。
 

 さて、筆者としてここに最後に残っている疑問としては、打ち捨てられてしまった食いかけアンパンの行く末である。
 この放置されたアンパンに自我が残っているかどうかについては、情報が少ない以上判断のしようもないが、少なくとも新たに戦うアンパンマンの姿を、自分と同一とみなしていない事だけは確かだ。
 何故なら、新たな頭部と取り替えられることによって打ち捨てられた、このもう一つの(another)頭部には、既に中味である“あん(an)”は食べられてしまって無くなっているのであるから、その存在は既に
   他人(other)
になっているのである。

おわり


[解説]

 形天っていう怪物を知っているかどうかがこの話のポイントになるんだけど、画像がどうしても見つからなかったなぁ。荒俣系か水木系の絡みで山海経を知っていればまず目にしてるんだけどね。
 アンパンマンの頭が取れるネタは結構あるらしく、アプローチはともかく発想のオリジナリティについては足りなかったわけで、ちょっと残念。


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