収蔵品によるこまの歴史

こまの歴史について話したいと思いますが、特に創世記に関しては

はっきりとした文献が残っているわけでもないので

諸先生が発表されている説におかしいなー?と思うところも含めて、

収蔵品から見た、おっちゃんなりの考えで説明していきたいと思います

〜目次〜

〜第1章 こまの歴史〜

〜第2章 べーごまの歴史〜

〜第1章 こまの歴史〜

その1 こまのはじめは

 現在、残っているもっとも古い独楽は、エジプトで発掘された「たたきごま」で紀元前1400年〜2000年頃のものだといわれています。たたきごまの場合は削って形を整えていくという作業が必要です。おそらく最初は、みなさんが子どもの頃にどんぐりにつまようじをさして、こまを作ったように、左右対称の自然物を、例えば、どんぐりやくるみ等の木の実(写真1 北海道京極町)(写真2 エクアドル)ややしの実(写真3 パプアニューギニヤ)や貝やヒトデやウニ等(写真4 沖縄 江ノ島)(写真 6 沖縄)をそのまま、あるいは加工して(写真 5)作ったと想像できます。このように考えて見ると、もっと以前に(極端な言い方をすれば、人類の生活が始まった時点から)自然発生的に、世界各地で考え出されたものと考えるのが、最も自然ではないのでしょうか。

写真@

写真A

写真B

北海道(京極町)

エクアドル

パプアニューギニア

写真C

写真D

写真E

江ノ島 演ォ縄

奄美大島

沖縄(具志川村)

 

その2 日本は ?

「こまは中国から渡来した・・」と、ほとんどの書籍など書かれていますが、本当にそうなのでしょうか。もちろん、どんな独楽が、ということにもなりますが、前述の自然物を利用したりしたことを考えると、日本においても土着のものがあったと考えるのが自然ではないのでしょうか。事実、宮城県名取市の清水遺跡や石川県金沢市の戸水遺跡、奈良県藤原宮跡や平城京跡、福岡県大野城市、広島県草土千里等の各遺跡から出土しているところから見ても、土着の独楽があって、日本人だけが考え出せなかったとは到底思えません。(写真7 広井道顕氏作 清水遺跡の出土品の独楽の形に戸水遺跡の出土の上面の亀甲を模した復元品)

写真F
広井道顕氏作

   その3 はじめて形や動きを表現した「大鏡」

それまで「こま」という言葉は出てきても、形を表現したものはありませんでした(このことについては後日、掲載したいと思います)。形が表現された文献は、「大鏡」が最初で、後一条天皇(1016年、9歳で即位)が幼少の頃、家来達に「変わったいろんなおもちゃを持ってきて」とたのまれ、みんなは天皇の気を引こうと、いろいろ考え、金銀などで飾られた豪華なものを差し出しましたが、興味をしめされませんでした。その時、藤原行成が紫の緒のついた独楽を差し出しました。「変な形をしているが、それは何なの」と聞かれ、説明した後、「回して見てください。おもしろいですよ」と申し上げますと、天皇は紫辰殿に出られ、回されましたところ、広い廊下を音をたてて、走りまわる様子を見て、とても喜ばれ、それ以後、こればかりで遊んでいた。と書かれています。このときの独楽が、このHP「独楽百科事典」の「古形鳴りごま」です。江戸期にこれを「トウゴマ(象ゴマ、ゴンゴンゴマ等)」と呼び、当て字もたくさんありました。その内のひとつに「唐ごま」と書かれたものがあり、これを見つけた或る学者先生が双方を結びつけて、独楽は中国から渡来したと発表されたみたいです。

その4 投げごままでの独楽

庶民の子供達はどうだったのでしょう。おそらく太古の時代から遊ばれていたとは思いますが、文献上、出現するは「太平記」で、数人のこどもがこままわしに夢中になっている様子が書かれており、鎌倉時代にはかなり盛んに遊ばれていたようです。でも、一番花開いたのは江戸は元禄時代でしょう。よく知られているのは貝(ばい)ごま(後にべーごま)、こまの胴部分を六面に削った賭博用の「お花ごま(角ごま)」、酒席でまわっている間、踊る道具に使われた、穴空き銭で作った「ぜに(銭)こま」等、各種のこまが考案されました。

〜第2章 べーごまの歴史〜

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