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ノロドム・シアヌーク・ヴァルマン国王による民主憲法の発布と普通選挙権による第一回選挙体制の年である1947年までは、王権を象徴する青で全体を囲み、国家を象徴する赤と、バラモン教、現在は大部分が仏教徒を象徴する白から成るものでした。現在の国旗は、1948年から1970年までにかけて公式に採択されたもので、1993年9月24日の君主制の復活の日に再び採択されました。中央の紋章はアンコール・ワットの塔を表しています。クメールの世界観では、お寺の台座は、世界の創造主であり王の祖の守護神である"慈悲深き神"、カンブルの最高の聖地、宇宙の構造の源であるメル山を表しています。王は空と大地、神と人との仲介者だったといわれています。現在では、国旗には、クメールの君主制のモットーである"国家、宗教、王室"の3つが反映されています
カンボジアの概要
国名 カンボジア王国(正式名称 Preah Reach Ana Chak Kampuchea) 国歌
王国の詩(ボット・ノーコー・リェッ)(正式名称 Bat Nokor Reach) 独立年 1953年11月9日
人口 11,626,520 (1999年7月 推定)
人口増加率 2.49% (1999
est.)
出生率 41.05 人/ 人口 1,000人あたり(1999 推定) 死亡率: 16.2
人/ 人口1,000人あたり(1999 推定) 実質移住者率: 0 人/ 人口1,000人 (1999 推定)
男女比率: 出生時: 1.05 男性/女性 15才未満: 1.03 男性/女性 15-64 才:
0.88 男性/女性 65 才以上: 0.69 男性/女性 全体: 0.94 男性/女性 (1999
推定)
乳幼児死亡率: 105.06 人/新生児1,000 人当り (1999 推定)
平均余命(平均寿命): 全体: 48.24 才 男性: 46.81 才 女性: 49.75 才 (1999 推定) 出産する子供の数:
5.81 人/女性 (1999 推定)
言語: クメール(国語) 識字率(15歳以上で読み書き可能)
全体: 35% 男: 48% 女: 22% (1990 推定) 民族
クメール(カンボジア)人90%、ベトナム人5%、中国人1%、チャム人、約30の山岳民族 面積 181,035km2 土地利用率
耕地13.3%、樹園地0.3%、牧草地11.3%、森林65.7%、その他9.4% 首都 プノンペン特別市(110万人/1995年) 宗教
上座部仏教90%、イスラム、キリスト教、民間信仰 貨幣単位 リエル(Riel) 為替レート 1米ドル=4040リエル(98年7月) GDP
289米ドル 日本との時差 マイナス2時間
プノンペンの気候(平均気温と降水量)
| 月 |
1 |
2 |
3 |
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5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
|
| 年平均気温 |
26.1 |
27.5 |
28.9 |
29.4 |
28.8 |
28.1 |
27.6 |
27.7 |
27.3 |
27.2 |
26.7 |
25.4 |
27.6 |
| 降水量(mm) |
9.0 |
8.0 |
28.0 |
73.0 |
146.0 |
129.0 |
129.0 |
147.0 |
231.0 |
250.0 |
134.0 |
36.0 |
1,320.0 |
カンボジアの歴史
1-6世紀にかけてフーナン王国、6-8世紀にかけてチェンラ王国として繁栄、その後一時ジャワ王国の支配を受けたが、9世紀に主権を奪回し、以後15世紀までアンコール王朝の繁栄を極め、大帝国を築き上げた。しかしその後、次第に東南アジアの新興国ベトナムとタイ(シャム)から挟撃され、1884年にフランスがインドシナ半島を植民地化しフランスの保護国となる頃には、半ば両国の従属国となっていた。
1941年の日本軍の仏印進駐以来、フランスの影響は後退したが、1945年8月の日本の敗戦に伴い、フランスの間接統治が再開される事によって、独立運動が激化する事になった。シアヌーク国王の主導のもと全土に広がった独立運動により、1953年11月9日「カンボジア王国」として、完全独立を達成した。その後、シアヌーク殿下の治世の下で、非同盟中立政策が推進され、平和と発展の時代が続いた。しかし、隣国ベトナムと大国アメリカの影響を受け、インドシナ戦争に巻き込まれることになる。
1970年にアメリカ支援の下、親米右派のロン・ノル国防相によるクーデターが発生、ロン・ノル政権(クメール共和国)が発足、シアヌーク殿下は北京に亡命した。シアヌーク殿下は、かつて自らが弾圧した共産主義勢力と共闘し、政権奪回を図った。ベトナム共産党の支援を受けたインドシナ共産党を中核とする連合勢力が、1975年の4月17日にプノンペンを陥落させ、全土を掌握した。その後、インドシナ共産党の一派であったポル・ポト率いるクメールルージュが、内部抗争によって政権を掌握し(民主カンプチア国)、都市住民の農村下放や、大量虐殺が行われたことは、記憶に新しい。その後も、ベトナム軍の進駐や、親ベトナム政府軍とクメールルージュ主体の3派連合との内戦の継続など、不幸な歴史を歩んだ。1991年には全ての当事者の間でパリ和平協定が成立し、日本でも大きく取り上げられた国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)管理のもとで、1993年に民主的な総選挙が行われた。この結果、シアヌーク殿下(現国王)の息子ラナリットの率いるフンシンペック(独立・中立・平和・協力のカンボジアの為の民族統一戦線)と親ベトナムの旧政権を主体としたカンボジア人民党の連立政権が誕生した。同年9月21日には立憲君主制、民主主義、自由市場経済を標榜する「カンボジア王国憲法」が制定、カンボジアに、新たな時代の幕が切って落とされた。
王国政府成立後の主な出来事
1993年 5月
パリ協定に基づき、UNTAC(国連カンボディア暫定機構)が総選挙実施。 1993年 9月
新憲法公布=「カンボディア王国」発足。シハヌーク国王即位。国王、ラナリット第一、フン・セン第二両首相を任命。UNTACは任務終了。 1994年 7月
クメール・ルージュ(KR)非合法化法成立。 1995年 7月 ASEANへのオブザーバー参加。 1996年 8月
ポル・ポト派の分裂(11月6日に分離派政府に統合) 1997年 3月 クメール国民党のデモへの手榴弾テロ事件発生。 1997年 7月
首都プノンペンにて武力衝突発生。 1997年 8月 国会、ウン・フォット外相を新第一首相に選出。 1998年 3月 ラナリット殿下帰国
1998年 4月 政府軍、KR拠点を制圧、その後ポル・ポト死亡。 1998年 7月 総選挙実施(26日) 1998年 9月新国会召集(24日)
1998年 11月 ラナリット殿下は国会議長に、フン・セン氏は首相に就任。(25日)新政府成立(30日)。 1999年 2月
カンボディア支援国(CG)東京会合開催 1999年 3月 タ・モックKR元参謀総長逮捕 1999年 3月
上院設置(25日開会式)、チア・シム人民党党長が議長に就任。 1999年 4月 ASEAN正式加盟(30日)
地理・気候
カンボディアは熱帯に位置し、年間を通じて極めて豊富な太陽の恵みを受けています。平均気温は摂氏27度(華氏78度)です。最低平均気温は摂氏17度(華氏68度)です。相対湿度は夜のほうが高く、通常は90%以上となります。昼間の平均湿度は80%です。季節は、雨期と乾期の2つに分かれます。
南西の季節風のために、多湿な雨期が4月から10月まで続きます。気温差は摂氏17度から27度(華氏78度から92度)までで、湿度は90%まで上がります。ほとんどの雨は山岳地帯に降り(年間5000ミリ)、プノンペンの雨量は年間で平均1400ミリです。涼しい乾期は11月から3月まで続きます。12月から1月が、最も涼しい期間です。最も暑い月は4月で、気温は38度(華氏100度)まで上がることがあります。
地理・領土 合計: 181,040 平方 km(北海道の約2倍) (陸地
176,520平方キロ、河水湖沼地 4,520平方キロ)
気候 熱帯モンスーン気候 雨季(5-11月)
乾季(12-4月)
平均気温 26.7℃ (プノンペン)
年降水量 中央平野部で約1400mm、山間部や沿岸部では約3800mmに達する。
地形植生 はるかチベットに源を発する国際河川メコン川が国土のやや東よりを北から南に縦断し、プノンペン付近で西側から合流するトンレサップ川と合流し、東南に流れを変えベトナムへと注いでいる。国土の中央部には、トンレサップ湖およびこれらの大河がつくった沖積平野が広がっており、その周囲を取り囲むように山地が走っている。国土の大半を森林(密林、疎林)が占めており、年間降水量が4000
mm から 6000 mmを越す東側の海岸地帯にはマングローブ林が発達している。
天然資源 すず、宝石(サファイア、ルビーなど)、鉄鉱石、マグネシウム 燐、
土地利用 耕地:
13% 牧草地 11% 森林: 66% その他:10% (1993 推定) (参考:灌漑地: 920 平方キロ (1993 推定)
)
経済・財政
主要産業は農林水産業で労働人口の約8割が従事。93年の新政府誕生後、経済復興が進んだが、97年7月の武力衝突やアジア経済危機の影響で援助停止や投資中断が相次ぎ、経済状況は悪化。98年の新政権成立による政情安定化と財政経済改革を受けて状況は回復に向かった。99年は1月に付加価値税を導入し9月までの税収が前年比58%増加。過去2年連続1%だった成長率は4%程度に、インフレ率は前年の12.6%から5%程度になる見通し。 国際通貨基金(IMF)は96年に腐敗と森林乱伐を理由に融資を停止したが、99年10月、2002年までに8160万ドルの融資再開を決定した。 2000年の予算案は総額2兆3550億リエル。歳出で最大の国防費は6%減の3112億リエル。厚生、スポーツ関係費は倍増。
経済データ
1.主要産業
農業(GDPの37%、99年、経済財政省資料) 2.GDP 約31.3億米ドル(99年、同上資料) 3.一人当たりGNP 268米ドル(99年、同上資料) 4.物価上昇率 0%(99年、同上資料)
5.失業率 不明
6.貿易総額(99年、経済財政省資料より)
(1)輸出 7.2億米ドル
(2)輸入 10.8億米ドル
7.主要貿易品目
(1)輸出 縫製品、木材、ゴム、魚介類、農作物(大豆、とうもろこし等)
(2)輸入 石油製品、タバコ、金、建設資材、自動車、電気製品
8.主要貿易相手国(98年)
(1)輸出 米、シンガポール、タイ、独、中国
(2)輸入 タイ、香港、シンガポール、中国、越
9.通貨・為替レート リエル(1米ドル=3,910リエル、2000年9月)
10.現状
97年の7月事変及びアジア経済危機による外国援助や投資、観光収入の減少等により経済が悪化(GDP成長率は96年の6.5%から98年には1%に低下)。新政権は、経済再建を最大の課題として、軍・行財政等の改革に真剣に取り組み、四半紀毎に改革に関するドナー国とのモニタリング会合を開催。99年には政治的安定の回復とともに経済が好調に推移し、4.3%のGDP成長率を達成した。
経済協力
1.新政府成立後
我が国は、新政府成立後の「カ」の復興及び民主化に向けた努力を積極的に支援するとの方針の下、新開発戦略の重点国として協力を行っている。新政府成立後、99年2月世銀主催の第3回支援国会合を東京にて開催。我が国は同会合をカンボディアの発展と繁栄のプロセスの開始への重要な節目と位置付け、(イ)退役軍人支援分野(ロ)地雷除去・被災者支援分野(ハ)森林保全分野(ニ)基礎生活分野(ホ)インフラ整備等無償・技術協力を中心に支援表明を行った。また、有償資金協力についても支援の可能性を検討していく旨表明した。
2.日本の援助(二国間援助ではトップドナー) (1)無償 約546億円、技協 約130億円(1992年から98年までの累計)
(2)第3回支援国会合でのプレッジ額 総額120億円の開発援助及び90万ドルの地雷除去支援
3.主要援助国(98年)(カッコ内は援助額、単位百万ドル)
日本(71.4)、仏(39.4)、米(31.4)、豪(21.8)
外交
フン・セン首相の政権は99年、東南アジア諸国連合(ASEAN)に正式加盟を果たし、日本など支援国の協力も確保。首相は活発に外遊。ASEAN各国や日本のほか5月にフランスと米国を訪問、9月にはカナダ、キューバ、米国を歴訪した。
【対ASEAN関係】 カンボジアは95年7月からオブザーバーで、96年4月に加盟を申請。加盟は97年7月に予定されたが、同月の武力衝突で延期された。98年7月の総選挙実施を受け、12月のASEAN首脳会議で加盟問題が検討されたが、上院設置が実現していなかったためシンガポールやタイが難色を示し、加盟受け入れは決まったものの正式加盟の式典の即時実施は見合わされた。しかし99年3月に上院が設置されて加盟への条件が整ったのを受け4月30日ハノイで加盟式典が行われ、正式加盟が実現。加盟承認宣言ではASEAN自由貿易地域(AFTA)計画を含む域内の条約や協定に従うことがうたわれた。フン・セン首相は11月にマニラでのASEAN首脳会議に初めて出席した。首相は10月20日ビエンチャンで開かれたラオス、ベトナムとのインドシナ3カ国の非公式首脳会議に出席。3国は地域の発展と貧困撲滅を目指す「経済協力の枠組み」を採択。首相は2月にマレーシアを、3月にはインドネシアを公式訪問した。 ベトナムのレ・カ・フュー共産党書記長は6月9、10日、同党書記長としては89年以来のカンボジア公式訪問を行い、両国は2000年中の国境問題の解決を目指すことなどを盛り込む共同声明を発表。11月にはインドネシアのワヒド大統領が来訪。
【対米関係】 米政府は98年4月のポル・ポト元首相の死亡前からポト派による大虐殺を裁く国際法廷の設置を計画。元首相の死亡にかかわらず同月末、法廷設置の決議案を国連安全保障理事会に提出した。同案は中国の反対で採択されなかったが、12月の2幹部の投降や99年3月のタ・モク参謀総長の拘束を受け、米政府は国際法廷設置が必要との主張を引き続き表明。国務省は9月、国内で開かれる見通しとなった特別裁判について国連と緊密に協議することをカンボジア政府に勧告した。
【対中国関係】 長期間ポル・ポト派を支援した中国政府は、同派の裁判問題では前年同様に99年も「内政問題だ」と繰り返し表明、国際法廷の設置に反対する立場を貫いた。フン・セン首相は2月に訪中し江沢民国家主席らと会談。両国は低利融資協定など5文書に調印、経済・貿易面での協力強化を確認した。
【対国連関係】 国連でのカンボジアの代表権は97年7月の武力衝突を受けて9月に棚上げされたが、98年11月の新政府成立を受けて12月7日に回復した。同7月の総選挙では国連が合同国際選挙監視団を統括。ポト派の裁判問題でアナン事務総長は99年3月に国内での裁判実施を容認する考えを表明。8月下旬、法整備などを協議するためザクリン法務担当事務次長補はじめ国連の法律専門家ら5人が来訪した。
【対日関係】 日本は91年11月カンボジア最高国民評議会(SNC)と外交関係を樹立。92年3月、在カンボジア大使館を再開。99年2月に東京で開かれたカンボジア支援国会合は、同年度分として総額約4億7000万ドルの支援を実施することで合意。日本は(1)退役軍人の職業訓練(2)地雷除去(3)森林保全――などを対象に、うち1億ドルの無償資金、技術協力を約束。シアヌークビル港改修のための31年ぶりの円借款再開も表明。9月に41億4200万円の借款を供与する文書を調印した。 小渕恵三首相が2000年1月10―12日、日本の首相として43年ぶりに訪問。11日のフン・セン首相との会談で、地雷対策での除去機材の支援や専門家の派遣、経済構造改革支援のための20億円の無償援助実施を約束。フン・セン首相はポト派の特別法廷問題で、国連との協議を再開する意向を表明した。 最大の援助国で、98年度までの累計で無償資金協力520億円、技術協力113億円を拠出。98年の対日輸出は製材など1607万ドル、輸入は機械など4464万ドル。在留邦人は290人(98年10月)
軍事
旧プノンペン政権軍が主力で、州の地方部隊を含め総兵力は14万9000人。陸軍9万9000人、海軍3000人、空軍2000人。2000年から予定している兵員削減に備え99年4月に兵士数調査に着手。登録しながら実在しない「幽霊兵士」が2万人に上ることが5月までに判明。フン・セン首相は同1月、政府軍最高司令官を辞任、後任にカエ・キム・ヤン参謀総長が就任した。
軍事力
(1)国軍:約14.9万人(陸14.4万、海0.3万、空0.2万)(ミリタリ-バランス99/00) 97年の武力衝突以降一時分裂していたラナリット派軍も王国軍に統合。フン・セン首相は、99年1月、軍の中立化のため最高司令官の地位を参謀総長に譲位。兵員削減計画により2002年までに余剰人員約3万2千名を削減し、近代的軍組織としての再構築を企図。
(2)クメール・ルージュ(KR、ポル・ポト派):事実上崩壊。 93年の総選挙ボイコット以降最大の不安定要因であったが、98年4月の政府軍のKR拠点制圧及びポル・ポトの死亡、98年12月のキューサンパン等の投降、99年3月のタモックの逮捕により事実上崩壊。
主要政党
@カンボジア人民党(CPP) インドシナ共産党の流れをくむカンボジア人民革命党として51年創立。91年10月、党名から「革命」を削除し複数政党制の採用を宣言。党首(政治局中央委員会議長)はチア・シム上院議長。副党首はフン・セン首相。
A民族統一戦線(独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線、FUNCINPEC) 81年にシアヌーク殿下が結成した反ベトナム闘争のための政治組織が母体。党首のラナリットが97年7月に事実上の国外追放となり分裂状態になったが、98年7月の総選挙では第2党の座を確保した。
Bサム・ランシー党 政府の汚職体質を批判して96年5月に民族統一戦線を除名されたサム・レンシー(SAM
RAINSY)前財政経済相が党首となり11月に結党したクメール国民党が、98年3月に分裂、党名変更。同7月の総選挙で第3党に躍進した
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