出会い ・ ふれあい   


開田には、出会いとふれあいがあります。
それは、時に、今の都会の生活では得られない感動を私に与えてくれます。
私(開田おやじ)が、開田で出会った人々との出会いとふれあいについて書くことにします。

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澤頭修自先生(さわがしらしゅうじ先生)
たけみ商店ご主人と奥様
鈴木 健先生
Cさん (開拓農家出身)
木工家 Aさん
上出清造さん 
木工家 K.I.さん

澤頭修自先生(さわがしらしゅうじ先生)

出会い・ふれあいのコーナーに書くからには開田おやじが出会った人々、というのが原則なのですが、この澤頭修自先生には残念ながらまだお目にかかっていないのです。先生の著書を通して存じ上げていると言うわけです。
澤頭修自先生は開田村末川の東小学校(当時)に昭和44年から5年間勤務されました。
その誠実なお人柄から生徒には勿論、村人にも慕われたとお聞きしています。そして教職のかたわら、開田の暮しの中に飛び込んで民俗と伝承文化を調査され、一冊の珠玉の書物にまとめられました。
その本は、『御嶽の見える村 木曾開田高原日記』といいます。(昭和60年2月実業之日本社刊)


昭和40年代後半というと、開田村では過疎化が進み、都会の文化の影響が色濃くなって来つつある時代です。
木曾馬もほとんどいなくなりました。とはいえ、まだまだ古い石置き屋根の民家も沢山残り、伝統的な風習も残っていました。勿論、そうした暮しの担い手であるお年寄もおおぜい居られました。
この本には、そうした時代を背景に、村人の暮しが生き生きと克明に描かれています。そして「開田高原で暮す幸せをしみじみ感じる」という趣旨の文が何度か出て来て、感動を覚えます。
私、開田おやじはこの本によって開田に対する関心と共感を目覚めさせられました。何度この本を読み返したことでしょうか。
この本に出会わなかったら、ただ開田を自然にあふれて景色のよいところというだけで、開田の心に触れることはできなかったでしょう。私の人生を変えた一冊の本、といっても過言ではないのです。それで、独断と偏見を持って、開田おやじはこの本を
開田フリークのバイブルと認定しました。開田を深く知るには必読の本です。是非ゼヒ読んでみて欲しいのです。

先生は、現在は長野県木曾郡木祖村薮原で悠々自適の生活を送っていられるとお聞きしています。できることならば、一度お目にかかってお話をお聞きしたいというのが、開田おやじの切なる願いです。
※この本は、残念なことに出版から年数が経過しているため図書館か古本屋で探すしかないかもしれません。
どうしても読んでみたいという方は開田おやじにその旨メールを下さい。
なお、先生にはこのほか木曾をテーマにした数冊の著書があり、その多くに大なり小なり開田の事が出ています。
先生の『夢もまた緑なり』(編集工房ノア 刊)もまた開田をメインテーマにした興味深く素晴らしい本です。

平成12年6月追記・・・先生の本が新しく出版されました。
水ぬるむころ ―奥木曾の少年時代―」です。
先生の薮原での少年時代の生活を、時代背景と共に、遊び、暮し、学校、祭などについて、臨場感あふれる文章で語っていらっしゃいます。(信濃教育会出版部 発行   tel 026−232−0291)

たけみ商店ご主人と奥様

国道361号線を開田村役場から西野方面へ行くと九蔵峠があります。
はじめて開田へ来た人で心がけのよい人は、ここで御嶽山の大パノラマを見て歓声を上げることになります。峠から下っていくと西野の集落に入ります。因みにこの峠をおりる途中からの西野の風景(特に大込集落の)にも開田おやじは感動を覚えるのです。
西野に入って、国道沿いの左側に たけみ商店さんはあります。
なにか買いたいものはありませんか?お酒、食料品、日用雑貨、お土産・・・たいがいのものはありますよ。
ちょっとお店に入ってみましょうか。ガラガラガラーっ (戸を開ける音)、こんにちはー
右側のレジのところにいるのがお母さん(奥様)、左側のストーブのところ(多分)にいるのがお父さん(ご主人)です。お店の向いの「旅館 嶽見」も経営しておられます。(この「旅館 嶽見」さんはよくテレビに取材されて放映されるので有名です。)
このご主人と奥様には、夢野山荘の面々はずいぶんお世話になりました。
まず、名古屋のN大学花井ゼミの若者達一行15名が、ご主人と親睦を深めてしまいました。
時は1993年3月3日、15名がスキーで夢野山荘に泊りました。
彼らがお酒でも買いにたけみ商店さんに寄った時、ご主人が、「あんたたちどこから来たの? 名古屋か・・・。うちの息子も名古屋にいるよ。 どこに泊っているの?そうか、夢野山荘か。近いな。それじゃ、夜、ちょっと顔を出してもいいかい?」 「どうぞ、どうぞ」というような話になったのでしょうか。
そして、その夜、ご主人が夢野山荘に来て、盛り上がってしまったと言うわけです。お父さんがちっとも帰ってこないので、お母さんが迎えに来て、そしてミイラになってしまいました。その間の詳細については、このホームページの「冬1」に楽しい記事が出ていますが、その中に、「やさしいたけみのお父さん、お母さん」という言葉があります。いかに皆が楽しいひとときを過したか、よくわかります。  (冬1はこちらから。)

若者達には、この夜の出会いが、開田の雪景色と共に忘れ得ない青春の1ページになったようです。
私達夫婦もお世話になっています。開田に行ってお店に寄ったとき、ご主人や奥様が気さくに話をしてくださり、村のことや子供の話など他愛もない話をするのですが、不思議と心が和むのです。店の人とお客という関係でなく、知人どうしのように対等の立場で、自然体で接してくださる・・・。いや、本当にうれしいというか、ありがたいです。
年代から言って、田舎の姉さんと兄貴、という感じでしょうか。
考えてみたら、都会にはこういう暖かい笑顔とホスピタリティーを持つ人にはまずお目にかからないことに気がつきました。
皆さん、開田でのお買物は、是非 たけみ商店でどうぞ。お主人と奥様の笑顔もお土産に帰ることができますよ。

鈴木 健先生

4年前(1995年)、名残の紅葉のきれいな11月4日(文化の日の翌日)・・・。西野の探勝園へそばを食べに寄ったとき、いろり端で大盛りざるそばに食らいついている中年オジさんがいました。
話し掛けて色々聞きました。
そのおじさんは鈴木 健と名乗り、島崎藤村の生まれたところで有名な木曾の馬篭の出身で、(30年くらい前)音楽学校を卒業したばかりで開田の学校(中学校?)に数年勤務したこと。開田が懐かしく、教え子に会いに、今も時々来ること。
そして、なんと、前年、
開田中学校でお盆休みに開催された『 開田高原ふるさとシンフォニー 』で日本歌曲を歌ったのはこの自分である。ピアノ伴奏はむすめがやってくれた。今は松本の小学校に勤務している・・・・
いや〜びっくりしました。と言うのも、その話に出たコンサートは、NHK交響楽団をはじめとする30余名の演奏家と、更に合唱団約20名がつくという堂々たる陣容で、素晴らしい音楽を開田の夏の夜空に響かせてくれたのでした。そして、その中で、藤村の歌曲などを歌われたのが、目の前の鈴木健先生だったのです。

私(開田おや
じ)は、そのコンサート当日に開田に行っていて、たまたま教えてくれる人(後述のAさん)がいたのです。友人夫妻と3人で、座布団を小脇に抱え手には千円札2枚を握りしめて開田中学校にとんで行ったのでした。
コンサートは盛況で、司会の方の軽妙な話でくつろいだ雰囲気のものになりました。座布団に座って聴くクラシックコンサートなんて珍しい・・・。
終わりがけに全員で”ウサギ追〜いしかの山”と歌う頃には、大好きな開田で、Aさんとの思いがけない出会いの後、更にこんないい音楽が聞けるなんて・・・・と、感動で涙が出そうになって困った覚えがあります。
目の前の、まじめで素朴な感じの(先生 ごめんなさい)おじさんがあのときの・・・・ウッソ〜
もっと色々お話を聞きたかったのですが、探勝園のお客も立て込んできたりで、残念ながら住所をお聞きして、先生とお別れしました。
正月には、年賀状をお出ししたところ丁重な返信をいただき、改めて感激しました。

先生に、またいつかお会いできたら、ゆっくりお酒でも飲みながら、30年前の開田の事をお聞きしたいと思っています。      (開田中学校のホームページは
こちらです。)

Cさん (開拓農家出身)

Cさんは小学校高学年のときに長野県の伊那谷から開田にやって来ました。開拓農家の息子でした。
昭和30年頃から38年頃まで、国の施策として開拓制度があり、それで入植したのだそうです。
文字通り、野原の中の掘立小屋に住み、はじめは何と電気も来ていなかったそうです。何年かして、ご両親や一家のご苦労が実り、高原野菜(白菜、大根、とうもろこしなど?)が広い畑いっぱいできるようになりました。大型機械を駆使し、土地のおばさんたちも手伝いに雇って、収穫の喜びに湧くときがやってきたのです。

 しかし、その喜びの年月も長くは続きませんでした。・・・連作の弊害や地力の低下から野菜に病気が発生するようになりました。また、産地間の競争も激しくなりました。
 Cさんは学校を卒業後都会に出て働き、今は、開田の地に戻って暮らしています。農業は副業的にやっているだけのようです。
入植当時の、おそらく苦しかった暮し・・・当時を振り返ると、複雑な思いもあるようです。しかし、Cさんはやっぱり開田の地が好きだと言います。畑や、林から見える、さまざまな表情を見せる御嶽山が好きだと言います。

心やさしいCさん、時々話し相手になってくれてありがとう。また、顔を合わせたら話を聞かせてください。

木工家 Aさん

Aさんとの出会いは前述の『開田高原ふるさとシンフォニー』が開催された1994年8月14日のことでした。以下、その日の日記帳より。

友人と夢野山荘(開田おやじの山小屋)でのんびりしていると、知人がひとりのユニークな雰囲気の男を連れてやってきた。
まあ、ベンチに座って話をしましょうと、山荘のベンチに誘い込み話をした。・・・・開田では、なぜか、人を見ると話をしたくなるのだ。

彼は関西の出身で、自転車で全国を廻り、開田の地にあこがれて住みつき10年。
上松町の職業訓練校(ここは知る人ぞ知る訓練校である)木工を1年勉強して今は開田の古い民家に住み、木工その他で食べていると言う。
名前は小生と同じ**だと言う。ここまで聞いて、私は思わず口走ってしまった。「あなたは、****さんでしょ」
自分の名前を突然言い当てられて、相手は少々驚いたようだった。
実は、少し前にこの人の紹介された記事を趣味の木工の本(注)で読んだことがあり、名前も覚えていたのだ。
(注 趣味の木工教室 No.7)

・・・突然の出会い。実物!に会えてうれしかった。
夏の日差しをものともせず炎天下で、ビール片手に小一時間みんなで話をした。
印象に残ったのは 「開田は自分にとって桃源郷なのだ」 と言う言葉だった。私はハタとばかりひざを打った。次にジワーッと感動がやってきた。 
 (以上 当時の日記より 以下省略)

Aさんは、開田の地で肩ひじ張らず、自然体で暮らしています。
しかし、決して埋没しているわけではなく、都会とのチャンネルはしっかりと確保し、友人も多い。・・・自分にとって、いささかうらやましく思えます。後日、Aさん宅へお伺いする機会がありましたが、奥様も あたたかいおもてなしの心を持った気さくなかたで、この奥様あってAさんがあるのだなと、納得したのでした。

・・・・開田には、こんな「開田暮らしの先輩」が、結構何人かいるのです。
私は、そんな人たちの暮らしと、その思いに迫ってみたいと思っています。もちろんAさんも含めて・・・。


上出清造さん 

私(開田おやじ)がはじめて開田を訪れたのは1990年でした。(それ以来開田狂いがはじまろうとは夢にも思わなかった・・・・。)
それから開田での拠点である夢野山荘を建てたのは2年後の夏でした。
その建築の途中、ガス工事を農協、いやJAに頼んだのですが、その打合せに来たのは、中年の感じの良い人でした。
都会人には決して見られないやわらかい笑顔の人で、包み込まれるようなやさしさが感じられました。勿論初対面でしたが、胸の名札に、上出(かみで)とあったので、ひょっとして上出清造さんですか、と聞いてみたらそうだという答え。上出清造さんの名前は、開田についての本(後述)で読んで記憶があったのです。

沢頭修自先生の書かれた「 御岳の見える村・・・開田高原日記 」という本に、上出清造さんのことばが載っています。
いわく、
「夏は、一年のうちで一番いいときだにャ。野菜を積んだトラックが、数珠つなぎになって地蔵峠のはちまきを登っていく」・・・。
昭和40年代始めの、高冷地野菜(白菜、レタス、キャベツなど)の生産が盛んな頃の話です。
(因みに、この本は、開田を深く知りたいと思っている人にはバイブルのような本です。是非ご一読をおすすめします。もっとも、昭和六十年の刊行なので図書館で探すしかないのですが・・・。)

その上出清造さんにお会いするとは思っても見ませんでした。いろいろお聞きしたかったが、残念ながら上出さんはお仕事の途中であり、こちらが遠慮してしまいました。とても残念でした。
上出さんにガス工事をお願いしてから6年後の1998年正月の話・・・。
ある人を尋ねて開田村末川の髭沢(ひげさわ)という集落へ行った折りのこと。髭沢で通りかかった家の窓ガラス越しに小さな子供を抱いた年配の人が見えました。
何と、上出清造さんでした。抱いているのはお孫さんなのだろうか、幸せそうなおじいちゃんの笑顔でした。
・・・・懐かしかった。
思いきって玄関をたたいて見ようかとも考えたが、思いとどまったというか、勇気がなかったというか、結局はできませんでした。上出さんは、仕事上の6年前のことなど恐らく覚えてはおられないでしょうから・・・。
その後、山ゆり荘で読んだ開田村広報誌に、村会議員のひとりとして上出清造さんのお名前が出ていました。お元気で活躍していらっしゃる・・・・。なんだかうれしくなったものです。

上出清造さん、いつかお会いできるときがあったら、沢頭修自先生がおられた頃のことや、もっと昔の、ご自分が小さかった頃の、木曾馬が沢山いた頃の話などお聞かせ下さい。それまでお元気で・・・。


木工家 K.I.さん

開田で会いたいと思っていた何人かのうちのひとりが、このK.I.さんでした。
1994年に出版された『木工手づくり教室No.7』という雑誌の「木曾の木工家の世界」という特集記事に、前記の木工家Aさんと共に紹介されており、それでいつか会いたいと思っていたのです。
「御岳の見える村」という沢頭修自先生の本を読んで以来、開田暮しがK.I.さんの夢だったとその雑誌には書いてありました。
彼は、その夢を実現すべく、昭和62年に長野県上松町の知る人ぞ知る上松高等技能専門校で木工を学び、卒業と同時に名古屋から家族で開田に移住したといいます。
そのK.I.さんにやっと今年(1999年)8月にお会いできました。開田村西野にあるレクスポセンター近くの彼の工房で、です。
彼の工房はウッドワークス・KINTOKI といいます。(彼の作品のひとつが山ゆり荘に展示してあるのでご存知の方も多いことでしょう)
前述の雑誌のご本人の写真(5年前の)からは、彼の意思の強さと繊細な感性をわたしは受取ったのですが、実際お会いしてみて、いささかイメージを訂正しました。・・・十年あまりの開田暮しで、丸くやわらかくなったのでしょうか?お名前がぴったりという印象を受けました。気さくさと共に悠揚迫らざる大人(たいじん)の風格をも感じさせられたのです。(K.I.さん、独断と偏見でごめんなさい)

工房のアトリエで、彼の作品をいくつか見せてもらいましたが、その中に、雑誌を見てから5年経っても覚えていた作品がありました。前述の雑誌に出ていた卓机(引きだし付きの文机)でした。
その文机(ふづくえ)は、クルミの厚板を天板と板脚に使ったもので、天板から板脚に流れる木目と、その組合せ(仕口という)がデザインのポイントでしょうか、圧倒的な存在感で見る者を魅了します。そして、このクルミの一枚板は最初からこうなることを望んでいたのだ、このデザインしかないのだと感じさせるのでした。
・・・この文机は、その後,縁あって私の友人の家の和室に納まることになりました。もちろん、友人にその机の話を聞くと、実にうれしそうな顔をすることは言うまでもありません。

K.Iさんと少しだけ話をしましたが、心に残った話をひとつ・・・
彼は言いました。「開田高原の自然環境の素晴らしさはいうまでもないが、長くその地の住むと他の違った面も見えてくる。たとえば生活の不便さなど・・・」
・・・ウーン、困った。
「開田はいいよ、住んで本当に幸せを感じる、開田おやじさんも早く開田に来たら」という話を私は無意識に待っていました。私がそんな答を期待するような顔をしていたので、彼が少しだけ意地悪な話をしたのかもしれません。
確かに、開田で10年あまりを過した人の生活からにじみ出た重い言葉だと思います。
かといって、都会暮しの者が、ウン、やっぱりそうでしょうなどと、したり顔でうなずいたりすれば、彼は、「フン、本当にわかるはずがないヨ」と、心の中で怒るに違いありません。
冬の生活が大変なこと、あるいは買物や病院通いなど不便に違いないのですが、百歩譲って横に置いておくとしても、たとえば、子供が成長して高校進学という事態になる、それひとつとっても大変なことに違いないのです。
でも、でも、K.I.さん。あなたのことばを私は勝手に翻訳させてもらっちゃいます。「色々あるけれど、開田に住んで、やっぱり幸せだよ、よかったよ」・・・と。

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