――よく晴れた初夏の日暮れ前のことだった。
珍しいな、と俺は時計に目をやる。
もう七時になるというのに、ゆりかはまだ帰宅していないようだ。
この時間になってもうちにやって来ないことも珍しかったが、帰宅していないこと自体珍しかった。
日が暮れるまでには、まだ時間がある。
なんとなく思い立って、俺は家を出、近所のコンビニに向かった。
ゆりかがよく立ち寄るコンビニだ。もしかして、そこで立ち読みでもしてるいのかもしれないし、新発売の菓子かアイスクリームを食べているかもしれない。
そんなことをぼんやりと考え歩いているその途中、俺は、ゆりかをみつけた。
ブランコとシーソー、滑り台があるだけの小さな公園に、ゆりかはいた。
「以心伝心、運命の出逢いだよ!」
と、ゆりかが一人でいて、俺に気がつけば、きっとそう言ったことだろう。
だが、ゆりかは俺の知らない男と一緒だった。
とっさに、俺は木の陰に身を隠していた。
どうやら、ゆりかと一緒にいるのはクラスメイトの男らしい。途切れ途切れに、話が聞こえてくる。
俺は、舌打ちをした。
聞こえてくるその話と、俺自身の「立ち聞き」というばかげた行為に。
俺は踵を返した。
「・・・ありがとう。でもごめんね、わたしには」
という、ゆりかの声が後ろ髪をひく。
振り返りそうになったが、俺自身の何かがそれを止めた。
日が沈むまでにはまだ時間はあると思っていたが、いざ暮れだすと太陽はさっさとその姿を厚い雲の向こうに隠してしまい、あちらこちらで忙しなく外灯が点りだす。
夕風が吹き、伸びすぎた前髪を乱す。
足を止め、首を伸ばして夕空を仰いだ。そこに幾つかの瞬く星を見つけ、俺はいつものように、だがいつもとは違ったため息をこぼしていた。
いつもと違った様子なのは、どうやら俺だけではないらしい。
「カ、カイくん、えっと、一日ぶり!」
そう言っておずおずと庭先に入ってきたゆりかを見つけ、俺は初っ端からため息をついた。
珍しく曇った表情をしている。だが暗く沈んで、いかにも落ち込んでいます、という顔は見せない。
この日、ゆりかが言ったように、俺とゆりかは一日ぶりに顔を合わせた。
丸一日、つまり今は日暮れ前。
うちには今、俺しかいない。父親は仕事で、母親は夕飯の買い物に、ゆりかの母と一緒にでかけている。
俺は縁側に座って雑誌を広げていた。
ゆりかは俺の横に、所在なげに腰をおろす。
庭の水遣りをしようとしたらしいが、すでに俺がそれを済ませたのを雫の乗っている葉をみて察したゆりかは、少し困った風だった。
いつもうるさいくらいに勝手に喋りだすゆりかだが、今日に限っては言葉をうまく繋げないでいる。
小首を傾げ、俺の様子を窺ってくる。
「カイくん、・・・何か、怒ってる?」
「・・・・・・・・・」
俺は眼鏡の位置を直すふりをして、目をゆりかからそらした。
ゆりかに対し、俺は、勝手とわかっているが、少々苛立っていた。
「・・・別に」
「・・・なら、・・・いいけど・・・」
納得はしていない。だが、食い下がってはこない。
俺ではなく、ゆりかがため息をつく。その後すぐに首を横に振って、気を取り直そうとしたが、上手くいったようには見えない。
暫時、沈黙が漂った。
庭木の梢を夕風が揺らし、それに合わせるようにねぐらに帰る鳥達の忙しない鳴き声が重なる。
俺とゆりかの間に落ちた沈黙を、それらの音がさらに深めているようにすら感じ、不快な気分に陥った。
重い空気に耐えきれなくなり声を発したのは、やはりゆりかが先だった。
「髪、伸びたね!」
当たり障りのない会話の糸口だ。
「ああ」
「切ってあげよっか。うっとーしいでしょ。それにまた視力さがっちゃうといけないし!」
俺の返答を待たず、ゆりかは居間へ上がりこみ、新聞紙とハサミを探す。来慣れた「カイくんち」だから、その二つはすぐに見つかった。
散髪を断らなかったのは、以前から、ゆりかには髪を切ってもらっていたからだ。家事全般の中でとくに裁縫系が得意なゆりかは、ハサミ使いも巧いものだった。
俺は促されるまま、ゆりかの方に向き直り、眼鏡をはずした。
つきそうになったため息を堪えて。
再び重い沈黙が落ちないよう、ゆりかは他愛のないお喋りを続ける。
俺は適当な相槌も打たず、黙したままでいた。
間近にゆりかの顔がある。
久しぶりに見たような気がした。
表情豊かな二重瞼の目、真珠のようにとまではいかないがそれなりに白い肌。鼻が低いことを気にしているらしいが、全体的に小ぶりな印象を受けるゆりかだから、相応な高さだと思う。顎に小さなホクロを見つけた。唇の右下にそれはある。普段気にもならないような、小さなホクロ・・・・・・
「・・・ゆりか」
伏しがちにしていた目を、上げた。
ゆりかと、目が合った。ゆりかの手がとまる。
「何?」
「昨日のやつは、どうした?」
「・・・え?」
「告られてたろ、おまえ」
「・・・っ!」
瞬間、ゆりかは全身を凍結させた。「どうして知ってるの」「見てたの?」と、見開かれた目が語っている。
偶然居合わせただけだなどと、いちいち言い訳をしなかった。
「断ったんだろ?」
「・・・・・・うん、一応」
不明瞭な、ゆりかの返答だった。
「一応?」
「ううん、ちゃんと断ったよ。けど」
「けど、なんだ」
「・・・いろいろ考えちゃって」
なるべくさりげない口調をつくって、ゆりかは言う。複雑な笑みが口元をわずかに歪ませている。
「好きって、時々重いんだなぁって」
再び、ゆりかはハサミを動かし始めた。おそらくわざとだろう。俺と目を合わせようとしない。
「迷惑とかそういうのとは少し違うけど、どうしようって思っちゃった。困るっていうか、辛いっていうか・・・よく、わかんないけど」
ゆりかはふうと小さなため息をつく。
「それでね、いっぱい考えたの。・・・カイくんのこと」
「・・・・・・・・・」
「今さらこんなこというのもちょっとどーかなぁって思うし、言うくらいなら最初からすんなってカイくん、言いそうなんだけど」
長い前置きをして、ゆりかはしどろもどろに言葉を繋げる。
「カイくん、すっごく迷惑してる? うっとうしいとか、うるさいとか、そんな風にはいつも思ってるだろうけど、カイくん優しいからそういうことあんまり言わないし。や、言っても、そんなには怒ってないのかなって思ってたのは、わたしの勝手な・・・っていうか、希望っていうか」
長い言い訳を俺は黙って聞いていた。意識してはいなかったが、眉間に深々と皺が寄っていたようだ。
「だからね、カイくんがものすごく、めっちゃくちゃ迷惑なら、わたしも考えなくちゃって思って」
ゆりかの手が、またとまった。
逸らしていた目を俺に向け、そして言う。
「カイくんに嫌われるのはいやだから。・・・だから、カイくんが本当の本当にわたしのこと迷惑に思ってるなら、・・・・・・やめなくちゃいけないのかなって」
泣くかと、思った。
大きな黒目がちの双眸が潤み、頬に赤みがさす。
「・・・やめるって、何をだ」
俺の低い声にゆりかは全身を強張らせた。責められているように感じたのかもしれない。
「・・・昨日のね、彼にも、言われちゃったんだ」
ゆりかには似合わない苦笑が、今にも泣き出しそうな顔に浮かぶ。
「本気で迷惑がられる前に、諦めた方がいいって」
「・・・それで、俺とつきあえってか?」
「・・・そんなようなこと、言ってたかな? ちょっと腹も立ったけど、言われてみれば、そうだよね、とか思ったりして」
「断ったんだろ?」
「え? あ、うん、けど」
「けど? けど、なんだよ? 断れ、はっきり」
少し驚いたように、ゆりかは二、三度瞬きをし、俺を見つめ返した。
「・・・なんでカイくんがそんなこと言うの?」
ゆりかは眉をしかめ、きつく俺を睨む。俺の一言で、ゆりかの中の何かが切れたようだ。ムキになって言い返してくる。
「こっ、これはわたしの問題なんだし! そりゃね、ちゃんと断ったよ! でも説得力ないんだもん。わたしの一方的な気持ちだけじゃ、だめなんだもん!」
涙目になって、ゆりかは訴える。
「わたしだけが好きなんだもん。でもそれじゃ諦めつかないって言われたら、わたしだって同じだって思ったんだもん!」
「――断れ」
「ずるいよ、カイくん、そんなのっ」
ゆりかの身体が、俺から離れかけた。
とっさに、俺はゆりかの両手首をつかんで、強引に引き寄せた。
「――・・・ッ」
そして、ゆりかの唇を奪った。
「・・・ッ!」
「はっきり断れ」
ほんの数ミリだけ唇を離し、俺はもう一度、言った。
「断れ。おまえは、俺だけ見てろ」
「・・・カ、カイく・・・っ」
「他の奴が入り込む隙なんかないって、はっきり断れ」
「・・・っ」
いきなり、ゆりかは泣き出した。
勝手なことばっかり! からかわないで! 仕方なくなんて、ヤダって言ったのに!
そんなことを、ゆりかは喚く。
ゆりかの手からハサミを取り上げ、それから今度は抱き寄せた。
いちいち言わなくてはいけないのかと、面倒くさげに、ため息をついた。
「花、咲いたんだろ。願いが叶ったって、もっと喜べよ」
「・・・・・・・・・」
「あとは、あれだ。おまじないとかいうのが効いたんだろ」
「・・・そ、そう、なの? ほんとなの?」
「知るか。おまえがそう言っただろ」
「・・・・・・うん・・・」
何度も、俺の腕の中でゆりかは頷く。それでも一向に泣き止まない。
一旦泣き出すと、なかなか止まらないらしい。
だいたい、ゆりかのこうした泣き顔は初めて見る。俺が泣かせたのだから、俺が泣き止ませるべきなのか・・・?
軽く息をついてから、俺はゆりかの耳元でささやいた。
「いい加減泣き止まないと、このまま押し倒すぞ?」
次の瞬間、ゆりかは大仰に慌て、俺の腕の中で大暴れし、その拍子にゆりかのげんこつが顎にヒットした。
思わず食らったアッパーにのけぞったが、どうやら痛かったのは俺よりゆりかの方らしい。
「いったぁい〜」
右手を振りながらぼやくゆりかの顔は、もう笑っていた。
泣き笑いしているゆりかの顔が、ようやくはっきりと見えた。
その時頭に浮かんだ単語は、口にしない。あまりにも陳腐すぎる。ゆりかは聞きたがるだろうが、言うのはもっと先にとっておく。
暮れなずむ空から、カラスの鳴き声が聞こえてきた。まったく呆れるほどタイミングがいい。
茶化すようなカラスの鳴き声に、俺のほろ苦いながらも甘め成分高めのため息が重なった。
翌日のことだ。
ゆりかは小さな鉢植えを持って、また庭にやってきた。
「これ、カイくんちに植えさせて」
薄紅色の細い花弁が重なり合って咲いているそれは、通販で買ったとかいう「願いが叶う花」らしい。
どう見てもただの花、たぶん山野草系の花だろう。
「カイくんちで、もっと大きく育てたいから」
ゆりかは時々漠然とした言葉を選ぶ。
長い付き合いのおかげで、だいたい、言おうとしていることの意味はわかる。それこそ、「漠然」と、だが。
「・・・枯れてもしらないぞ?」
「大丈夫、ちゃんと世話しに来るもん」
手早く庭木の下に花を植えつけてから、ゆりかは何やら両手を組んで、目を閉じている。
「・・・何、拝んでんだ?」
一応、訊いたみた。たぶん、ゆりかは訊かずとも、俺に言うのだろうが。
ゆりかは立ち上がり、晴れ渡った青空よりも眩しい笑顔を俺に向けた。
「あのね、これからもずっとカイくんといられるようにしてくださいって。それから、わたしをカイくんに似合う、大人っぽくて色気むんむんのフェロモン系の美女にしてくださいってお願いしたの」
「・・・・・・・・・」
「何、カイくん、そのバカにしたような呆れ顔は?」
頬を膨らませ、ゆりかは呆れ顔の俺を睨みつける。
「いや・・・呆れはしてるが、バカにしたつもりは」
「何よ、成せば成るもん!」
「・・・いや、人には向き不向きってもんがあると思うぞ?」
「むぅ」
「だいたい、おまえが考えてた俺に似合う女ってのは、そういう系だったのか?」
俺が切り返した言葉に、ゆりかは窮した。
「へぇ、そうか。・・・じゃ、考え直さないとな」
「・・・意地悪っ」
昨日俺の顎に一発入れたのと同じげんこつを、今日は腹に入れようとする。
しかし力の緩いボディーブローなぞ、止めるのはたやすかった。抱き寄せるのも、わずかな力で済む。
腕の中で、ゆりかは顔を真っ赤にしている。
俺は小さく笑い、そして軽く息をつく。
「・・・カイくんって」
上目遣いに、ゆりかは俺を見る。
俺はまた一つ、ため息をついた。
「カイくんってさ、ため息多いね」
「・・・・・・誰のせいだと思ってるんだ」
「あ、わたしか」
「自覚はあるんだな」
「ため息つくと幸せ逃げるっていうけど、大丈夫だからね、カイくん! わたし、ちゃんと倍にして返すから!」
そうしてまたゆりかは屈託のない笑顔を見せる。
むんむんとまではいかないが、それなりのフェロモンが香ってくるなどとは、口にしない。
俺は苦笑を返した。
仕方なくってのはイヤだとゆりかは言ってたが。
仕方ないさ。
「ゆりか」
「何?」
ゆりかは小鳥のように首を傾げる。
「叶った願いの責任は、とれよ?」
ゆりかの前髪をつまんで、俺は言う。そしてゆりかはいつものように、満面の笑顔を見せ、
「まっかせて!」
そう言って、俺の顔のまん前でブイサインをした。
まったくゆりかには敵わない。
俺はまたため息をつき、だがその後すぐに二度目のキスで逃げ出そうとする幸せを押し戻した。
幸せは、倍になって戻ってきた。