もう週末だ。
あれから三日。
ヤツは学校へ来なかった。
さすがに、不審に思うより心配になった俺は、担任教諭に尋ねてみた。返ってきた答えは、曖昧なものだった。
「ちょっと、家庭の事情でな。まあ、心配はない」
その後に、迷惑になるから連絡を取るのは控えなさいと付け加えられたうえ、さらにクラスの副委員としての立場まで、促された。皆に、そう伝えるようにと暗に指示されたのだ。
納得いくかよ。
無性に腹が立ったが、積極的な態度に出なかったのは、どこかで、腰が引けていたからだ。
俺との喧嘩が原因でないことくらいは、もう、わかったいた。
「家庭の事情」とやらがどんなものか、情報がまったくないわけではなかったからだ。
だからこそ、腹が立った。
俺にくらい、連絡をよこせよ。
昨日今日のつきあいじゃない。
一言でいい。今、どんな状況なのか、教えてくれたっていいだろうに。
チリチリと、胸が痛む。
俺は灰色の空よりももっと沈んだ色の感情をもてあましたまま、霙の降る寒い土曜の朝を迎えることとなった。
そして、それは翌日のこと。
霙まじりの寒い朝、家を出てすぐのところで、俺は呼び止められた。
「青樹」
ぎょっとして、俺は全身で振り返った。
制服姿ではない明栄が、そこにいた。いつからいたのか、こげ茶色のコートの肩には溶けた霙と、溶けかかっている霙がのっていた。
近づいたのは、俺からだった。
明栄は傍の電信柱と同じように、ただ突っ立っている。
「おい、明栄、どうしたんだよ、こんなところで」
そんな台詞しか出てこない自分がもどかしかったが、聞きたいことが幾つもありすぎて、言葉が俺の頭の中でせめぎあっている。
「・・・青樹、これ」
俺が明栄の肩を掴もうとすると、それを避けるようにして明栄は身を引き、そして同時に赤い小箱を俺に差し出した。
「・・・?」
「これ、受け取ってくれ」
「は?」
「いいから! ・・・じゃ、な!」
「って、おい?!」
強引にその小箱を俺に手渡すと、明栄は脱兎のごとく、俺の横を掠めて、駆け出した。
「おい、明栄っ?」
振り返っても、もう明栄はいない。
俺はまたしても、一人、取り残された。
茫然と、俺は手に乗っている小箱を見やった。
いったい、何のつもりだ。
俺はその小箱の中身を確認し、愕然とした。困惑した。
中身は菓子だった。茶色の甘い菓子。チョコレートというやつだ。
「・・・・・・・・・」
初めてだった。
いや、厳密に言うと、明栄からもらうのは、初めてだ。
「なんだよ、これ。・・・果たし状の間違い・・・か・・・? て、んなわけは、ないよな?」
義理という単語が頭につくチョコなら、いくつかもらった。本命とつくチョコも、実はもらったことがある。
昨日が、その日だった。クラスの女子から安価な菓子を「一応」という前置きつきで、数個もらった。
つまり、バレンタインデーというやつだ。
バレンタインデーといえば、本来の意味は詳しく知らないが、「女が好きな男にチョコレートを贈る日」ということになっている。
義理だの友だのが「チョコ」の上につけられる種類のものもあるが、はたして、これは上にどういう単語がつくのだろうか。
受け取ったそれは手作りではなく、有名メーカーのチョコレートだった。ハート型でこそなかったが、バレンタイン仕様の包装紙と、添えられた一枚のカードが、「バレンタイン用」のチョコレートだということを示している。
明栄が、俺に?
動揺せずにはいられない。
長年つきあってきて、「こんなことは初めてだ」的なことはいくつかあったが、これはその中でもダントツの出来事だ。
「・・・・・・・・・」
学校へなんか、行ってられるか!
問いただしてやる、明栄に!
渡されたチョコのことも気になるが、それ以前に、明栄の様子は明らかにおかしかった。
俺はチョコを上着のポケットに押し込むと、鞄を玄関先に放り投げ、わき目もふらずに駆け出した。
駆けること、十数分、俺は明栄の家の前に着いた。築二十年以上は経っている古いマンションの二階に、「阿坂家」はある。
さいわい、階段はあがらずにすんだ。
明栄を、マンションの駐車場に見つけた。
「明栄!!」
明栄は弾かれたように振り返った。
驚いたような、困惑したような、悲しそうな、そんな複雑極まりない顔をして、俺を見つめ返す。
「・・・青樹」
「お、・・・っ、あっ、明栄っ」
息も整えず、俺は今にも逃げ出しそうな明栄の腕を掴んで、引き止めた。
「おまっ、おまえ、なんだよ、どういうことだよっ?」
「・・・ごめん」
明栄は俺から顔を逸らし、俯いた。
明栄らしい闊達な表情は、まったく見えない。
「何がっ、・・・っ、はぁっ」
まずは、呼吸を整えた。
「何がごめんだ。どういう意味だよ」
「ごめん、迷惑・・・」
「そういう問題じゃねぇっ」
つい声を荒げてしまった。
明栄はわずかに身をすぼませた。そしてまだ俺から顔を逸らしたままでいる。
「・・・ごめん、青樹」
明栄は同じ事を繰り返す。
「唐突すぎだと自分でもわかってるし・・・それに、青樹は」
ようやく、明栄は顔をあげ、俺を見る。
切なげに、瞳が揺れている。ためらいに、声がふるえている。
俺の心臓が痛むほどの表情だ。明栄らしからぬ顔だが、そうしたヤツを知らないわけではなかった。
「青樹は、・・・女として、見てなかったろ、あたしのこと」
明栄は、ぎこちなく笑った。
俺は明栄の腕を掴んだままでいる。
離しても、たぶん逃げ出したりはしないだろうが、手を引くことはできなかった。
「唐突なことをして、悪かった」
明栄はため息をつき、苦笑した。
「けど、・・・最後なんだし、伝えておこうかと思ってさ」
「最後? 最後って、なんだよ?」
明栄は、今度は深いため息をつく。白い息が邪魔をして、明栄の表情はよく見えない。笑ってはいるが、・・・泣いているようにも見える。
「・・・・・・やっとさ、決まったんだよ。離婚」
「・・・・・・」
「無事にってわけにはいかないが、なんとか、今後の見通しはついたってとこだ。で、あたしと弟は父方に引き取られることが決まった。春には転勤が決まってるから、引越しも、春だ」
まさに、寝耳に水だった。
明栄の両親の離婚のことではない。
引越しが、だ。
明栄の両親が不仲で、別居生活を送っていたことは、知っていた。それとなく、そうした事情は明栄本人から聞かされていた。
明栄は出て行った母親に代わり、家のことを切り盛りしていた。父親と弟の面倒や世話を、よく見ていた。だからこそしっかりした性格になったのだろう。いや、ならざるを得なかったのだ。
そういう、とんだ苦労人だということは、知っていたんだが。
「引越しって、おまえ、そんなこと、一言も」
「うん、悪かった。言おうとは何度も思ってたんだけど。だから、春からはくされ縁も消滅だ。同じクラスには、もうなれないからな」
「・・・っ」
言葉に詰まった。
明栄の笑顔が、胸に突き刺さる。
痛くて、堪らない。
「だから、せめて気持ちくらいは伝えとこうと思ったんだ。青樹を困らせるのは百も承知で」
明栄は不自然に饒舌だった。
「青樹のこと、ずっと好きだったよ。だからずっと一緒に、並んで歩きたいと思ってた。ただのくされ縁でも、友達でも。けど、そううまくはいかないもんだ」
明栄は軽く息をつき、ようやく俺の目をまっすぐに見すえた。
濁りのない瞳だった。迷いは、ない。ただ、少しばかりの諦めがあるだけだった。
「今まで、本当に楽しかったよ。ありがとう、青樹」
「――あ、阿呆か、おまえはっ!!」
俺はようやく言葉を返した。つい、怒鳴り声で。
明栄は目をぱちくりさせ、俺を見る。
「何今生の別れみたいなこと言ってんだ?! 引越しっつっても、日本国内なんだろ?」
「・・・あ、ああ、それは、まあ」
「いや、たとえ国外だって、連絡がとれなくなるわけじゃねーし、二度と会えなくなるわけじゃねーだろ」
「そ、それは」
俺に気圧され、明栄は曖昧に応える。
「だったら最後にとか、そんなことは言うな! それと! 勝手に俺の気持ちを憶測して断定すんな!」
まくしたてた後に、俺は明栄の腕をようやく放した。
「たしかにチョコには驚いたし、戸惑いはしたが!」
俺はくしゃくしゃと頭をかき回した。
「別に迷惑とかじゃねーし。それにおまえのことはちゃんと女だって見てたし」
「・・・青樹」
「ほんとのところは、まだわからねーってのが正直な気持ちだが、いいか、明栄!」
「・・・な、なん、だ?」
「俺とおまえのくされ縁は、引越しくらいじゃ切れねーんだよ」
明栄はまじろぎもせず、俺を見つめている。驚きととまどいに彩られた瞳をしているが、それを隠そうとはしない。
「だからくされ縁っていう縁の形が、ちょっと変わるだけだ。そう思えよ」
「・・・縁の、形」
「それがどういう縁になるのかは、俺だってまだはっきりわからねーけど、ここまできて簡単に切られて堪るかよ!」
「・・・青樹・・・」
くすっと、明栄は笑った。それは安心しきった笑顔で、明栄らしいような、それでいて初めて見る表情だった。
そして明栄は赤らいだ顔を俺に向け、
「それってさ、青樹。・・・ちょっとは自惚れちゃってもいいってことか?」
そう言った。
――それから――・・・・・・
春になり、明栄は越していった。引越し先は案外近く、ヤツは「やっぱり青樹との縁は太くて頑丈らしい」と笑う。
進級し、新しいクラスメイトもできた。そのクラスの中に明栄はいない。
初めてのことに、俺はまだどこか違和感のようなものを感じていた。
寂しいには違いない。
何しろ、今までずっと同じクラスで、「セット」扱いをされてきた俺と明栄だ。
だが、新鮮でもある。
無意識に思っていたことを、意識して思うようになった。自分自身のその変化に、少々のとまどいはまだ残っている。
それでも、もう心は決まっている。そんな気がしていた。
そして週末、俺は出かける。
切れない縁をたどって、明栄に、会いに行く。
その縁の色は、もしかして赤色なんじゃないかと、夢見がちなことを思いながら。
- back -