七夕の夜、「織姫」のわたしと、「彦星」の彼は、スモッグの向こうに流れているだろうミルキー・ウェイに、ほんの少しだけ思いをはせながら、寄り添っている。
年に一度の逢瀬しか叶わない織姫と彦星。
だけどわたしと彼はいつも一緒。引き裂かれるような運命にも遭わず、他愛のない平穏な日々を、共に過ごしてる。
それってとても幸せなことなんだろうなぁって思う。
七夕って、何気ない日常の幸福を改めて気づかせてくれる日なんじゃないかな?
わたしがそう言うと、彼は眉尻を下げ、穏やかに笑って「そうかもな」って応えてくれた。
いつかの七夕の夜も、彼はそうして笑ってくれたっけ。
そうあれは、わたしが彼を好きだって思った、初めての「七夕」の日のこと。
七夕生まれのわたしは、七夕の伝承について思っていたことがあった。
もちろんそれは学術的なことでは全然なくて、くだらない感傷みたいなもの。
もしも・・・って想像をしたがるのは、年頃の乙女の必須事項みたいなものじゃない?
ことに、「恋話」に関しては。
七夕の伝承って、いろいろとバリエーションがあるみたいだけど、大雑把に言ってしまえば、「天帝の怒りに触れたために、一年に一度の逢瀬しか許されない織姫と彦星の遠恋物語」だよね。
「ねぇねぇ、もしもよ? もし自分が織姫か彦星の立場だったら、どうする? やっぱ遠恋ってことで諦める?」
他愛のない「もしも話」を、わたしに代わって持ち出したのは同じクラスの女友達だった。
あれは、高三の時。
放課後、いつものように教室の窓際に男女取り混ぜて集まって、どうでもいいような話に花を咲かせてた。受験勉強の話から日常的な雑談に移り、それから明日の七夕がわたしの誕生日だということを思い出した友人の一人が、さり気に水を向けてきた。
「七夕生まれってなんかいいよねぇ」、と言ってくれる子もいれば、「七夕っつっても祝日でもなんでもないし、微妙だよなぁ」、と笑う子もいた。
そんな流れで、七夕の「もしも話」に発展した。
男の子にしてみたら、七夕の伝承なんて、興味の範疇外。詳しい内容も知らないようで、知っている事といったら、七夕の歌と、笹の葉に願いを書いた短冊をぶら下げる事ってことくらい。
女の子にしてもそれはあまり変わらないのだけど、もうちょっとだけ、ロマンチックに考えてみたくなるようだ。少しばかり現実と重ねてみたりして。
「一年に一度しか逢えないなんて辛すぎだよ。しかも雨だったら逢えないんでしょ? ずっと離れ離れなんて、わたしなら耐えられないよ〜」
「う〜ん、たしかに」
わたしは適当な相槌をうって答えた。
窓の外、空を見るとどんよりと曇っていて、夜になればまた一雨きそうな気配があった。
「わたしならどうするかなぁ・・・」
頬杖ついて、すぐ傍にいた男の子に目をやった。
同じクラスで、隣の席で、遊び仲間でもあったその男の子に、わたしは当時、仄かな恋心みたいなものを抱いていた。
恋かどうかはっきりとはせず、曖昧な気持ちではあったのだけど、「ちょっといいカナ」くらいには思ってた。
かっこつけなところもあったけれど、洒落た見た目の男の子だったっけ。
わたしの視線を受けて、その男の子がニッと笑った。
それから、言ったんだ。「俺だったら」、と。
「天帝だかなんだか知らねーけど、大人しく言う事なんてきかないね。織姫をかっさらって逃げるさ」
ニヤリと不敵に笑って、わたしの反応を待っているようだった。
周りでは、
「うっわ、かっこいいこと言っちゃってぇ」
「駆け落ち上等ってか? 言われてみたいよ、一緒に逃げようってさぁ」
なんて、友人らが男の子を囃し立てていたけれど、わたしはそれに加わらず、黙して俯いた。
その男の子に惚れ直し、照れくさくなって顔を上げられない。・・・なんてことは全然なくて、むしろ逆だった。
自分でもびっくりするほど急転直下に、その男の子に対する気持ちは冷えて、萎んで、消えてしまったのだ。
あとかたもなく、まるで最初からなかったみたいに。
「わざとらしい気障台詞がイヤだったわけじゃないの」
と、述懐した相手は、うちの近くのアパートに去年越してきた大学生の彼。
彼は、わたしが通いつめてる喫茶店の常連客。つまり同じ常連客同士で、嗜好が似通っている上、誕生日も同じ「七夕」ってことで、なんとはなしに、親しくなった。知り合い以上友達未満で、茶飲み仲間といったところ。
彼はわたしの話を迷惑がることなく、よく聞いてくれた。おっとりとして辛抱強く、とても聞き上手な人だった。
「なんかねー、がっかりしちゃったんだ。逃げるなんて信じられないよ。だってそれってあんまり不誠実じゃない?」
わたしはため息をつき、がっくりと肩を落とした。
こういうの、「百年の恋も一気に冷める」っていうのかな? でも、あの男の子に対する気持ちが恋かどうか、はっきりしてなかった。ただ、ひどく残念な気分になったし、わたし的にあの子に対する株は、かなり下がった。
身勝手な感情だって分かってはいるんだけど。
「はぁぁ・・・っ」
うな垂れ、もう一度大きくため息をついた。
七夕の伝承について、わたしも詳しい事は知らない。
たしか、織姫と彦星が引き離される事になったのは、お互いの仕事をうっちゃって、二人がいちゃいちゃベタベタしまくってたからなんでしょう?
「それってさ、叱られたって当たり前なんじゃない? ペナルティーはあって当然だよ。そりゃ引き裂かれたのは可哀相かもしれないけど」
「まぁ、そうかもね」
目元は笑っていたけど、彼は茶化す風もなく、わたしを観察するように見ていた。
「たしかに職務放棄は褒められたことじゃないもんな」
「でしょ? いいかげんだよね、それってさ。自分がすべき仕事をほったらかしにして色恋にうつつを抜かしてるなんて、叱られたって同情しにくいよ」
わたしは何でだかムキになって語った。
「厳しいなぁ」
「まぁ恋愛ってそういうもんなんだろうけど? 周りが見えなくなるってゆーか。恋は盲目っていうもんね?」
「年寄りみたいな事言うなって」
彼はさも可笑しそうに笑った。子供が大人ぶって生意気なことを言うのを、楽しんでいるって風だった。
だけどその笑い方は、不愉快なものじゃなかった。
わたしの意見を小ばかにするようなことはなく、何のかんのと笑いながら、「そうだよな」って賛同してくれたからかもしれない。
普段は仏頂面の彼だけど、不意に見せる笑い顔はとても穏やかで、優しい。
思慮深さすら感じるゆったりとした笑顔や声に、「大人」を感じてた。そして憧れに似たものを抱いてた。頼れるし、信用できる人だ。
そんな彼に、「もしも」と訊いたらどう答えるのだろう。
彼は一瞬困った顔をし、少しの間考え込むように眉間に皺を寄せてから、答えた。
「俺なら、時間はかかっても地道な手段でいく・・・かな。織姫の父親に認めてもらえるようにさ。織姫と一緒に。だから逃げないよ」
わたしは目を見開いて、じっと、彼を見つめた。
視線が、彼から離せなかった。
心臓が、突然どきどき鳴り出した。
「まぁ、掻っ攫う度胸がないだけなんだけどさ」
と、彼は両肩をすくめ、おどけたみせた。照れくさそうに小さく笑って、それからこう続けたのだ。
「おまえはさ、生真面目でがむしゃらで、正々堂々とした織姫って感じだな」
「・・・え・・・?」
「いつでも前を向いて一生懸命で一人で突っ走って、・・・それが時々心配の種にもなるんだけど」
「・・・・・・っ」
みるみる顔が赤くなっていくのが、自分でもわかった。
恥ずかしいのに、顔を隠せなかった。
彼はゆったりと寛いだ姿勢のまま、穏やかに笑んだ。
手元のカフェオレみたいに、ほんのり甘い香りを漂わせて。
「そういう織姫も、いいよな?」
「・・・っ!」
天の川が降り注いできたのかと思うくらいの、衝撃だった。
キラキラ、シャラシャラ、いろんな音がわたしの頭と心の中で響いてた。
そしてたった一つの言葉が、その中で煌めいていた。
目の前で、星が弾けた。
――好き。
彼のことが、好き。彼が一番に、好き。
本当は、初めから彼のことが好きだったんじゃないかって、それくらいに深く。
ときめきが心をくすぐって、いてもたってもいられなくなった。
それで数日後、唐突に告白した。
「好きです、付き合ってください」って。
我ながら呆れるほど、積極的だった。
彼は驚き顔をしたけれど、頷いて、わたしの気持ちを受けとってくれた。
後日、
「俺から言おうと思っていたのに」
と、愚痴をこぼされちゃった上、受験を控えてるってのに、と呆れられもしちゃったけれど。
茶(酒)飲み仲間で恋人、そして夫でもある彼を改めて見つめた。
わたしの肩を抱いて眠ってる彼の頬を、指先でつついた。
目は瞑っているけれど、寝てないのはわかってる。
瞼の裏には、何が映っているのかな?
「ねぇ?」
「なんだ?」
彼はまだ目を開けない。仰向けに横たわったまま、応えた。
わたしはぎゅぅっと、軽くだけど、彼の頬を抓ってやった。目を開けて、わたしを見てよ。
「ねぇ、わたし達、離れ離れになったりしないよね?」
ようやく彼は瞼をあげ、わたしの方に顔を向けてくれた。そしてわたしの髪をくしゃくしゃと掻く。
さらに体が密着して熱いんだけど、心地がいい。
「・・・単身赴任の心配はないから、安心しろ」
「・・・うん」
わたしはちょっとだけ不満げな顔をした。
もう少しロマンチックな言葉を期待してたんだけどな。
せっかくお互いの誕生日の「七夕」なのに。
彼はわたしの気持ちなんて、お見通しみたいだ。
くすっと小さく笑ってから、ぽつりと、耳元でささやいた。
「信じてていいよ」
そうしてわたしの頬に、優しくキスをしてくれた。
「うん、信じてる。信じちゃってるからね、ずっと!」
わたしは笑って、わたしの髪を撫ぜてくれてる彼の指を握った。
――逃げないと言ってくれたもの、あの時。
織姫と一緒にって。
そう言ってくれた彼が、世界で一番、大好き。
そう言ってくれた彼を、わたしはずっと、ずぅっと、信じ続けてる。
「ねぇ、わたしのことも信じてる?」
「ああ」
彼は余裕ぶって笑ってみせる。
彼のこういう照れ隠しに笑うところが好き。
大きくて温かくて、無骨だけど優しく撫ぜてくれる手も、好き。
時々茶化しながら、それでも誠実にわたしの心を受け取ってくれる彼の深い懐が好き。
離れ離れになるなんて考えられないくらいに。
もし、そんな運命が訪れたとしても、彼となら一緒に戦ってゆける。天の川に橋をかけて、逢いに行く。たとえ天の川の氾濫で橋が何度壊れたって、諦めない。
彼のことを信じているから、立ち向かってゆける。
「織姫と彦星は、離れ離れになってても信じあっていて、だから一年にたった一度きりの今夜を待てるんだよね? それってすごいね」
「そうだな」
これからもずっと、お互いを信じあっていけるといいね。
「信じあえるって、幸せだね」
「・・・そうだな」
わたし達は笑いあった。
これからもずっと続いていくのだろう、他愛のない幸福感をお互いのはにかんだ笑顔に見つけて。
- 了 -