影響力の強い人間って、いるものだ。
悪い影響を与えるより、良い影響を与える方が難しいだろう。
その難しいことを、さらりとやってのける人がいる。
悪影響なのか好影響なのか、その時は分からない。
後になって、ふと気がつく。良い影響を与えられたのだろうな、と。
そういうさり気ない影響を与える人は、貴重なのかもしれない。
そしてまた、影響されやすい人間もいる。
それは決して自主性がないということではなくて、受けた影響をより良く吸収できる器を持っている、ということでもあるのだと思う。
そういう素直な心根を持つ人も、貴重と言えなくもない。
強く影響されながら、依怙地になって、それを認めたがらない狭量な心の持ち主にしてみたら。
上條くんが及ぼす影響は、もはやあたしだけに留まっていない。
一波揺らいで万波揺らぐって、こんな状況をさして言うんだろうか。
げんなりしつつ、あたしはそれを感じていた。
大いに揺らされ、心を波立たされた水面はあたし。
蒼穹を渡る秋風といった爽やかな雰囲気を漂わせつつも悪戯心を隠しもせず、水面に波紋を広げさせるのは、上條双海くん。
水面が凪ぐ気配はちっとも見られず、あたしはいつも、そわそわと落ち着かない。
あたしの平凡にして安穏な日々は、上條くんただ一人のために、大きく変化してしまった。
* * *
上條くんの積極性に影響された第一の人物は、陸上部のスプリンターにして副部長、隣のクラスの矢野さんだ。
「陸上部に入って!」と勧誘され続けて、早半年。
初めの頃は、遠慮がちに打診してきた矢野さんだったけれど、近頃、勧誘がしつこくなってきた。
隣のクラスということもあって顔を合わせる機会も多く、その度にぐいぐい迫ってきて、懇願してくるのだ。
「お願い、三上さん! 陸上部を救えるのはあなただけなのよっ」
矢野さんは切羽詰ったような顔を迫らせ、あたしの両手をむんずと掴んで離さない。
矢野さんは、あたしより少し背が低い。無駄な贅肉のついていない体躯には、陸上部のスプリンターらしい敏捷さが窺える。切れ長の三白眼は、睨まれると思わず竦んでしまうほどの威力があって、豹やらチーターやらに狙われた気分になる。
「ね、お願いだから!」
「だからね、矢野さん。何度お願いされても同じだから」
あたしは冷たく突っぱねる。同じやりとりを、今までどれだけ繰り返してきたか。
少し前までは、勧誘も控えめだった。たまに様子を窺うって程度で、こうもずかずかと押し迫ってきたりはしなかった。
「期間限定入部でもいいからさ、ね、ねっ!」
期間限定とはつまり、陸上大会が行なわれる期間を指している。
我が校の陸上部は決して弱小ではないのだけど、県大会止まりで、全国大会にはなかなか進出できないでいる。個人競技だから、個人戦ではそれなりの成績を残す者もいるらしいけれど、部としての全体成績は結構低い。
「とくに長距離が弱いのよ、ウチは! 中距離の一五〇〇メートルの成績も悪い。けど、選手はいないでもない」
矢野さんの勧誘は、愚痴混じりになる。
このあたりで、あたしは逃げの体勢をとる。最後まで聞いていたら、うっかり入部届けに拇印でも捺されかねない状況になる気がして。
「長距離は、なんでか育たないんだよ、ウチは。一万の長距離でなんとか成績残したいんだけど、その半分の距離でへばりがちなんだ。やっぱりね、中距離から長距離の転向って難しくて。長距離ランナーがフルマラソンの選手に転向するのって難しいし、失敗しやすいってよく聞くけど、ウチでもそのパターンっていうか。レベルはものすご低いんだけど」
「・・・・・・」
熱っぽく語る矢野さんの手を、さりげに離した。相槌は、なるべくうたない。同調した途端、つけこまれてしまうから。
矢野さんは大きくため息をつく。心の底から陸上部の未来を心配している風だった。
現在二年のあたし達は、春になれば三年になる。大学受験や就職活動に本気で取り組まねばならない年になり、部活は当然、引退することになる。
だから、有終の美を飾って引退したいという矢野さんの気持ちは、分からないでもない。
・・・とはいえ、部外者のあたしを巻き込まないでほしいと思うのだけど。
「三上さん、走るの得意でしょ? っていうか、好きなんだよね? 体育の授業でも見たけど、持久力もあるし、何よりすっごくいいフォームしてる」
「それは、どうも」
礼を言いつつ、一歩、矢野さんから離れた。
離脱準備は、整った。
あとは、予鈴が鳴るのを待って、教室に逃げ込む隙を伺うだけだ。
「勿体無いよ、せっかくの才能を腐らせちゃ! それに陸上部に入っていい成績を残せば―――」
矢野さんはもはや必死の形相だった。必死で紡いだ言葉の上に、予鈴が重なった。
むっとし、同時にほっとした。
予鈴が鳴ってくれて、助かった。
あたしは「とにかく陸上部に入る気はないから。ごめん」と早口に言って、伸ばされた矢野さんの手を振り払うようにして、昼食後のざわついた教室へと、逃げ込んだ。
* * *
矢野さんに悪気はない。悪気なく、つい言ってしまったことだったんだろう。
あたしは不機嫌顔で頬杖をつき、落書きのされた黒板を睨みつけた。
黒板の端っこに相合傘が描かれていたのに気づいた。あたしの名と上條くんの名が、傘の下で並んでいる。
小学校か、ここは!?
さらに、腹が立った。立ったけど、騒ぎ立てるのもばかばかしいし、面倒だったから、放置しておいた。
もう勝手にしてよ、という投げやりな気分でもあったし。
何やら・・・泣きたい気分にもなっていた。
本鈴が鳴るまでには、あと少し時間がある。時計の秒針がひどくゆっくり回っている気がするけど、やっぱり休憩時間っていうのは「少し」にしか感じられない。
その少しの時間。
あたしの横に上條くんが遠慮がちに腰かけ、そして話しかけてきた。
あたしの隣席は、一ヶ月前の席替えで上條くんの席になったのだから、遠慮がちに座る理由なんてないのだけど。
「また、矢野さんの勧誘? いつも以上に熱烈な勧誘だったみたいだね?」
矢野さんに多大なる影響を与えたと気づいているのかいないのか。
上條くんの爽やかな笑顔には一点の曇りもないし、濁りもない。晴れ渡った秋空も呆れかえる、爽快で純朴な笑顔だ。
「僕も知りたいんだけど、どうして陸上部に入らないの? 勿体無いって、正直、僕も思うよ?」
「勿体無いとか、そういう問題じゃない」
憮然とした顔のまま、あたしは低い声で応えた。
「入る気がないから、入らないだけ。それ以上でもないし以下でもない」
「走るのは好きなのに?」
「好きだからって陸上部に入らなきゃならない道理はないでしょ? あたしは、陸上部の選手になるために走ってるんじゃない」
何度言わせれば気が済むのかと、つい声が荒くなってしまう。怒りから、いつになく饒舌になった。
「それにね!」
拳を握り、あたしは思いきりドンッと、机を叩いた。
ここ数日間、この机はあたしの暴力に耐えている。拳を叩きつけられたり、たまには足蹴りをくらったり。暴力の原因は隣席の、彼。
いわれのない暴力を受けているわけだ。だけど、痛いのはあたしだって同じで(というか、あたしの方が痛い)、意趣返しはしっかりされてると思うけど。
「いくら個人競技の部だからって、やっぱりうちの学校の陸上部ってことで大会に出場してるんだから、部外者がお助け出場なんて、良くないことでしょ? っていうかそれって、ズルだよ」
「・・・・・・」
上條くんは静かに耳を傾けている。口元がゆるんでいて微笑が浮かび上がっていたけど、茶化すようなことはしてこない。
「第一、部外者が大会の出場権をあっさり奪っちゃうなんて、ムカつかない? ムカついて当然だよ! 部員の士気にも関わるでしょ、そうなったら」
上條くんはまぶしげに目を細めて、わたしを見つめてる。
あたしは眉間に力をいれて、キッと上條くんを見つめ返した。
「それに!」
矢野さんが慌てて言ったことを思い返した。それを、思わず上條くんにぶちまけてしまった。
「陸上部に入って、大会に出て、それでいいの成績残せば内申的にも好都合なんじゃないかって、そんなの、あんまりジコチューすぎない? っていうか、バカにしてるよ!」
「バカにって、沙耶のことを?」
「あたしのことじゃなくて!」
憤懣に、声を荒げた。
「あたしじゃなくて、陸上部のことをだよ。矢野さんこそ好きで入ってるだろうに、なんでその好きな陸上部のこと利用しろみたく言うの? そりゃ、勢いでつい言っちゃったことなんだって分かるけど!」
だから、あたしが怒ることもないんだって、それも分かってる。
焦るあまりに失言してしまったんだって分かってる。矢野さんに、陸上部を貶めるつもりなんてなかっただろう。
だけど、聞き逃せなくて、腹が立ってしまった。
上條くんが言ったように、やっぱりあたし自身のこともバカにされたと感じてしまったのかもしれない。
「言っていいことと悪いことがあるよ。でしょっ?」
頬が紅潮している。熱い。
その熱に気がついたのと同時に、無関係の上條くんに八つ当たりをしてしまった自分の愚昧さにも、気がついた。
上條くんは少しだけ驚いたような、困ったような顔をしていた。
「・・・ごめん。上條くんに言うことじゃなかった」
呼吸を整えてから、素直に謝った。
「ううん、いいよ。気にしてないから。というかむしろ、嬉しい、かな」
「は?」
「そうやって本音をぶつけてくれて」
「・・・・・・」
温顔で、上條くんは応じる。
あたしのささくれだった心をふんわりと包んで、癒してくれるような優しい微笑だ。
声が詰まる。とっさに言葉を返せず、固まってしまった。
「沙耶は、言葉が足りないよね」
上條くんが、さらりと言った。
鋭い指摘だったけれど、ぐっさり胸に突き刺さった感はない。
「僕は気にならないけど、欠点といえばたしかに欠点だよね?」
「・・・そ、それは、まぁ、その・・・自覚してるっていうか、その・・・」
口ごもってしまった。反論できなくて。
「あのね、沙耶。僕から助言なんだけど」
「・・・助言?」
「うん。今僕に言ったことをね、矢野さんにも言うべきだと思う。そうすれば矢野さんも納得してくれるよ、きっとね。ちゃんと陸上部のことを考えて、それを踏まえて入部しないって言ってるんだって、伝えなきゃ」
「・・・・・・」
「沙耶って、人と話すの、苦手なところがあるよね? 口下手っていうのかな? だけど、たとえば池谷さんとかには思ってることちゃんと言えてるよね? それを、少しだけひろめてみたらいいと思うんだ。徐々にでいいし、狭い範囲でいいから」
本鈴が、鳴った。
まだ、今から始まる授業の教師は、来ない。教室内のざわつきは収束しつつあった。ひそひそ声が教室内に流れている。
ひそひそ声の一つに、上條くんの声がある。あたしは上條くんの声を、心に沁みこませるように、黙って聞いていた。
「矢野さんは真剣に沙耶のことを勧誘してる。だからこそ、沙耶も真剣に応えた方がいいと思う。断るのなら、なおさら」
「・・・うん」
真面目顔の上條くんに、あたしも真面目な顔を返し、頷いた。
あたしを諭す上條くんの表情は柔らかく、どこにも居丈高な色がない。甘いといえば甘い、それでいて凛として筋の通った生真面目さが、あたしを素直にさせた。
「わかった。上條くんの言うとおりだ。めんどくさがって、言うべきことを言わないのは、不誠実だよね」
上條くんは可愛らしく小首を傾げて、にっこり笑った。
せっかく頬の熱が冷めたと思ったのに、ぶり返した。
頬というか、もう、顔全部があっつくてたまらない。
「とっ、ともかくっ」
あたしは上條くんから視線を逸らした。
まずは、動悸をおさめよう。深呼吸、深呼吸。
息をついてから、あたしはようやく言葉を継いだ。
同時に、教室前方のドアが開き、教師が入ってきた。教室内のざわめきが、一瞬だけおさまる。
あたしの声は、か細い。
上條くんに聞こえたかどうかは、分からない。
「ありがと、上條くん」
* * *
上條くんの存在は、あたしの周囲の人達に多大なる影響を与えている。好からぬ影響もあるだろう。でも、概ね好影響だと・・・・・・思う。
そして、何よりもあたし自身が一番に影響を受けている。
上條くんは積極的にあたしの「変化」を促していく。
人との対話が得意じゃないあたしを、上條くんはどんな風に変えていくんだろう。
上條くんがもたらす影響は大きい。
変化していくあたしの「これから」は、はたしてどんな「これから」になるんだろう。
まだ少しずつしか変わっていけない。
それでも、小声でこっそりとだけど、「ありがと」って言える程度には、きっと変化していってる。
敵わなくて口惜しいと思う気持ちは、変わらなさそうだけど。
- 了 -