歯車が大きく、そして忙しなく回転し始めた。
男が、油をさしたせいだ。不自然なほど、速く回りだす。
その男は、音楽プロデューサーだかコーディネーターだか、訳の分からない肩書きを幾つも持っている、業界ではかなり有名な人物らしかった。
あたしはその男の持ち駒のひとつに加えられた。
歌手として、デビューする。
まさかの事態に、あたしは狼狽した。けれど、断る選択はあたしには与えられなかった。
代わりに与えられたのは、「新しい生活」だった。
家を、出る。母、父、姉がいる「家」から、出て行くのだ。
あたしはおずおずと、居間に顔を出した。
何か、一言くらい言うべきだろうか。
姉はお茶を飲みながらテレビを観ていた。
父は新聞紙を広げていた。
そして母は、立ち上がってあたしを見た。
「あら、あなた、どこの子? ねぇ、知らない子が勝手にうちに上がりこんでるわ」
母は、怪訝そうな顔をあたしに向けて言った。
姉は相変わらずテレビを観たまま、こちらをちらりとも見ない。
父は一度新聞紙を下げ、険しい目を母に流したけれど、咳払いをしただけで何も言わなかった。
そしてあたしは、・・・・・・ほっとしていた。
そのまま踵を返し、足早に「家」を出た。
あたしの背後にはもう、何も在りはしなかった。
夕風が桜の小枝を揺らし、花を散らしていた。
さらさらと、花びらが流れている。
あたしは押し黙り、桜の木の下に突っ立っていた。
初めてだった。叫ぶことなく此処にいるのは。
手を伸ばし、幹に触れたみたけれど、すぐに引っ込めた。
手のひらを見ても、そこには何も無い。無くて当たり前なのに、少し、がっかりしていた。
「やぁ、これはまた見事な桜の木だね」
あたしを買い取った男が、いつの間にか現れてあたしの横に並んでいた。
「ちょっと怖いくらいの美しさだね」
男は眩しげに手を額にかざし、桜を眺めやって感嘆の息をもらした。
あたしは無言で身を翻し、歩き出した。
もうここを経つ時間なのだろう。迎えの車が近くで待機していた。
「桜の木の下には死体が埋まってる、とはよく言ったもんだね」
走り出した車の中、男は名残惜しそうに桜の木を振り返り、そう言った。
「何、それ?」
「知らない? 梶井基次郎の『櫻の樹の下には』って話」
「知らない」
あたしは憮然と応えた。
男はあたしの不機嫌顔などお構いなしに続けた。
「坂口安吾の『桜の森の満開の下』もそうだけど、桜の花っていうのは、こう一種独特の魔力めいた怖さがあるよね。死と狂気がまとわりついて、それゆえに儚く、妖しく、美しい、とでも言うのかな」
男は自分の台詞に陶酔しているようだった。
あたしは「ふぅん」と相槌をうって、頬杖をついた。窓の外、流れゆく景色はあたしの目には留まらない。あたしのつまらなそうな顔だけが、窓ガラスに映っていた。
「君は、桜の花が似合うな」
男は唐突に言った。
あたしは視線だけ男に向ける。
「うん、そうだ。そのイメージで売り出していこう。名前もそれっぽく改名しよう。いいね?」
男の提案は、口に出た瞬間に決定事項になる。
あたしはまた視線を窓ガラスに戻した。
桜の花は、狂った歯車の形をしているのだろうか。
そんなことを、漠然と考えていた。
桜色の歌姫だの、奇跡の歌声だの、陳腐なうたい文句、あおり文句を引っさげて、あたしはデビューした。
プロダクションの派手な宣伝が功を奏したのか、デビューシングルは飛ぶように売れた。脅威の新人と、騒がれもした。
セカンドシングル、ファーストアルバム、プロモーションビデオ、発売されたそれらは全て記録的な売り上げを示し、あたしの名は、瞬く間に広まっていった。
けど、それはあたしの力じゃない。
あたしは作られた虚像の影で歌っているだけ。
命ぜられるまま、歌っているだけ。
叫ぶことなく、ただ、言われたままに歌っている。
いつの頃からだろう。
デビューしてからずっと、あたしは叫ぶことをしなくなった。
思いだすこともしなくなった。
「君がしてきた過去のこと全て、忘れてしまいなさい」
そう言われて、あたしは過去を捨てた。何の躊躇もなかった。簡単なことだった。
「いつまでも重荷を背負っていることはないよ。もうおろしたっていいんだ」
あたしの過去を知る、関係者の一人が、たぶんあたしを励まそうとしてそう言った。まるで気の毒で哀れな子供を見るみたいな目をして。
あたしは「はい」と返したけれど、憐れまれたことに、ほんの少し苛立っていた。
だって、あたしは重荷なんて背負ってなかった。重くなんて、なかった。
あたしは狂っていたから、そんな風に思う心すら、持ってなかった。
――ただ、どうしてだろう。
ふと想いだしてしまう風景があった。
あの桜の木。川辺に佇む、あの桜の木。
あの桜の木は、まだあそこにいるのだろうか。まだあたしの叫びを憶えているだろうか。
まだ・・・まだあたしは・・・―――
カレンダーをめくる暇もないほど多忙な日が、続いていた。それに比例して、あたしの歌は巷に溢れ、そこかしこで流れていた。
見知らぬ人達があたしの歌を聴き、口ずさんでいる。
褒める人もいる。けなす人もいる。興味を持たない人もいる。
そんなこと、あたしにはどうでもいい。あたしにそれは、関係ない。
あたしはただ歌うだけ。無心に歌う。それだけだ。
「さすが彼の目にとまっただけのことはあるね、ラッキーガールさん?」
やっかみまじりにあたしをからかってくる人も、多かった。
あたしの成功を羨み妬んで、嫌味のひとつでも言いたくなるのだろう。
狂っているくせに、と目が嘲笑っている。
それは懐かしい色だった。
「いつまでもそのラッキーが続くといいわね」
その声音も、懐かしかった。
懐かしくて、奇妙な気分に陥った。
あたしは鏡に映る「あたし」を見つめて、訊いてみた。
「あたしは、ラッキー?」
鏡の中のあたしは、険しい顔をしている。
「あたし、今、幸せ?」
バカらしい質疑だった。
だって、あたしは幸福に違いないのだから。
幸運に恵まれたと、誰もがあたしを羨むくらいだもの。
幸福っていうのがどんなものかは分からないけど、皆がそう言うのだから、あたしは今、幸せなはずだ。
叫ぶことがなくなったのだって、きっと、幸せだからなんだろう。
あたしは、幸せだ。
・・・幸せなんだ・・・。
突然、あたしの中でふっつりと切れた音がした。
あたしは踵を返し、部屋を飛び出した。
いてもたってもいられなくなった。
無性に、あの場所へ戻りたくなった。逢いたくなって、堪らなくなった。
あの桜の木。川辺に佇む、あの桜の木に。
久しぶりに帰ったそこは、ずいぶんと景色が変わっていた。
道が増え、新しい家々が立ち並んでいる。
何年ぶりだろう。そんなくだらない郷愁に浸ることもなく、あたしは急ぎ足でそこへ向かった。
桜の木は満開だった。
はらはらと、花びらが散っている。
「あ、あの、すみません」
犬の散歩をしているおじいさんを、あたしは慌てて呼び止めた。
「すみません、アレ、何ですか?」
あたしは桜の幹を指差し、尋ねた。
「何って、ああ、あの注連縄のことかい?」
あたしは頷いた。
桜の木の幹には、細く編まれた縄が巻かれている。そして幾重にも重ね折られた半紙が数箇所縄から下がっていて、頼りなく風にそよいでいた。
おじいさんは足元を駆け回っている小型犬を抑えながら、教えてくれた。
「あの桜の木、もったいないんじゃが伐られることになってねぇ」
「え」
「花が終わってからになるがね。まあ、この辺りもどんどん変わっていくから、しょうがないねぇ」
「そう・・・ですか」
おじいさんが立ち去った後も、あたしはしばらく茫漠とその場に立ち尽くしていた。
雲間から射し込む西日が、目にしみた。
あたしは目を細め、それからそっと手を伸ばして桜の幹に触れた。
しっとりとした感触が、手のひらに伝わる。冷たさは感じなかった。
「そっか・・・伐られちゃうんだ・・・」
あたしはため息をついた。
「でも、しかたないんだよね。もう・・・どうしようもないんだよね?」
あたしは顔を上げた。
透けるような薄紅色の花が、あたしの頭上を覆っている。そして花びらを散らしている。
「もう、春も終わりだね」
どうしてあたしはここに来たりしたんだろう。
叫ぶ必要のない毎日を過ごしているというのに。
「・・・あたしね、幸せなんだ。幸せなの・・・」
呟くように、あたしは「幸せ」と繰り返した。
だけど、空っぽな気持ちだった。うつろな心の中で、カラカラと歯車の回る音がする。その音は、ひどく軋んだものだった。
「・・・ねぇ・・・、今気づいた。・・・・・・キレイだね」
惜しげもなく、競い合うようにして咲き誇る、桜の花。
小枝の先に丸く固まって花弁を開かせている。ピンク色の歯車みたいだ。軽やかに舞い落ちる花びらは、細いハートの形。
小枝には羽根を休めている鳥がいた。花の蜜を吸いに来た羽虫もいる。毛虫もきっとどこかにいて、のたのた這っているだろう。
ふいに、視界がぼやけた。滲んで、揺れている。
頬を、温かな水滴が伝っていた。
雨なんか降っていないのに、ぽたぽた、雫が落ちた。散り敷かれた花びらの上に、幾粒も落ちる。
「あたし達、結局届かなかったね。どんなに叫んでも、どんな歌っても」
あたしは微かに笑った。口元が自然と緩む表情を顔に浮かべたのは、初めてだった。
何度も練習させられた笑い方じゃない。
いつだったか、誰かが言った。
もっと情感を込めて歌えば、「心」に響く「歌」になる、と。
だけど、どうやって「心」を込めたらいいのかわからなかった。
あたしの声は届かないまま、消えてしまった。
どんな声を届けたいのかすら、忘れてしまった。
「もう・・・いいよね? 届かなかったけど、あたしは幸せなんだから。だからもう・・・無理に歯車を回すことなんかないよね?」
それなのに、あたしはいつしか「歌」っていた。
滑らかに、緩やかに、あたしの歯車は回っていた。
あたしは狂い咲く桜。あたしは歪んだ歯車。あたしは刹那の歌。
舞い落ちる花びらの中、あたしは声を振り絞って、歌い続けた。
あたしの叫びを、誰かが聴いているかもしれない。聴いていないかもしれない。耳を塞いでいるかもしれない。
結局届きはしなかったけれど、もう、・・・いい。誰に届けたかったのか、思いだす必要もない。
あたしの背中には何も無く、目前に見えるのは桜の木だけ。
あたしの心は風になり、桜の花弁を散らす。
そしてあたしは花びらになって、地に落ちる。
真っ赤に染まって、堕ちる。
やがて歯車は止まる。
歌が終わって、わたしは無に還る。
桜の花びらが、横たわるあたしの身体を、静かに包んでくれていた。