桜の声  scene.1 


 
 春が、終わる。
 川辺の桜は満開だった。


 その人は、いつでも不機嫌だった。その人は、あたしの母親。少なくとも、その日までは、そうだった。
 母は、胡散臭そうにあたしを見て、言った。
「あら、あなた・・・・・・どこの子?」

 いつ歯車が狂ったのか、分からない。気付いたら、狂ってた。狂ったのは、あたし。
 何をするのも遅くて、ぶきっちょで、賢くなくて、他人とどこかずれてて、違ってた。
 あたし一人が狂ったせいで、何もかもがうまく回らなくなったのだと嘆かれた。
 神経質な母は、声を荒げて怒鳴るようなことはしなかった。けれど聞こえよがしに愚痴をこぼしてあたしを責めていた。
 厳格な父は、頭ごなしに叱りつけた後、反省の色がないからといって、狭くて汚い物置小屋に何時間もあたしを閉じ込めた。
 あたしとは似ても似つかない、優秀で要領のいい姉は、いつでも冷ややかな目をしてあたしを嘲っていた。
 狂った歯車を、何とかして直そうと思ってた頃も、あった。
 だけどあたしは狂っていたから、自分のどこが狂っているのかすら分からなくて、結局、直しようがなかった。
 どうしたらいいのかと縋っても、あたしの手はすげなく振り払われてしまう。
 母も父も姉も、愚かなあたしを鬱陶しそうな顔をして、蔑視していた。
 あたしの姿は見えても、あたしの声は届かなかった。どんなに大声で喚いても、まったく聞こえていないようだった。
 だからあたしは叫び続けた。繰り返し、繰り返し、誰もいなくても、一人でも、叫び続けていた。
 その瞬間だけは、どうしてなんだろう。
 あたしは狂っていない気がしてた。


 川辺で、桜の木だけが、あたしの叫び声を聴き続けていた。
 あたしは桜の木の下でだけ、自由に叫び続けていられた。


 あたしのその叫びが、「歌」というものだと教えてくれたのは、ろくに通ってもいなかった学校の担任教諭だった。
 義務感であたしを度々訪れていたその教諭・・・彼女は、あたしの叫びを聴いて、驚き顔をした。
「いい声をしてるのね、素晴らしいわ!」
 あたしの手を取って、彼女は感嘆の声をあげた。
 彼女は音楽の先生で、合唱部の顧問だった。
「声の出し方を整えれば、きっともっと素晴らしいものになるわ。それに抑揚をつけ、情感を込めて歌えば、さらに心に響く「歌」になるわ」
 彼女はあたしを合唱部に招いた。
 あたしは、素晴らしく歌いたいわけじゃない。
 ただ叫んでいたいだけなのに。
 それだけじゃもったいないと、彼女はあたしの背を押す。
 イヤイヤだったけれど、あたしは合唱部に入って、「歌う」ことを学んだ。
 それ自体は、イヤじゃなかった。戸惑ったけれど、新鮮だった。
 だけどあたしは狂った歯車だったから、他の誰とも足並みを揃えられずに、まごついてばかりだった。
 合唱部にいた全員のリズムを狂わせてしまった。
 皆の、あたしを見る目は、母と同じだった。鋭く苛んでくる。痛くて、とても一緒にはいられなかった。
 誰の歯車とも、あたしのは合わない。回らない。
 あたしの歯車は、やっぱり狂っていた。

 川辺の桜の木の下で、あたしは叫ぶ。ひたすらに、一心に。
 花が散り、葉だけになって、それすら冬には枯れ落ちてしまい、何の木なのかわからなくなる。だけど春にはまた芽吹き、飽きもせず花を咲かせる、桜の木。
 咲いた花を眺めやることもなく、あたしはただ叫んでいた。
 葉擦れの音が、あたしの叫びに重なることもあった。
 だけど、ただそれだけ。
 あたしは桜の木を仰ぎ見ることはなかった。

 あたしはひどく貪欲になっていった。「歌」というものを知ってからだ。
 いろんな歌を、もっともっと、聴きたくなった。いろんな音で、身体を満たしていたかった。いろんな歌や音がほしくて、あたしの心はいつも渇いてた。
 だけどあたしはお金なんて持ってなかったから、たくさんの「歌」を得るため、盗むことをおぼえた。何度も補導されたけど、止めなかった。
 盗み取れない物は買うしかなく、そのために身体も売った。
 妊娠っていうサイアクの事態には陥らなかったけど、性病に罹ったことはあった。けれど別の男に医療費をせしめることができたし、弱みにつけこんで脅してみたら、あっさり倍額を出してくれたこともあった。
 そうしてあたしは、より多くの「歌」を得、「音」を知った。
 あたしの中で、何かが弾けかけていた。

 もっともっと、叫びたかった。心の底から、激しく叫びたかった。
 羞恥とか後悔なんて、なんの意味も持たない、軽く流されるだけのくだらない感情だ。
 そんな感情は、要らない。
 ――感情なんて、要らない。

 身体を売る以外の目的で街に立つこともあった。
 聞き覚えた「歌」を、路上で歌った。たった一人、何も持たず、大声を張り上げて、ひたすらに歌った。
 その瞬間、あたしの奥底で、歯車はひとりでに回りだす。
 あたしがあたしでなくなる。
 あたしは「歌」になる。
 叫びでもあり、嘆きでもある。
 それは、あたしという「歌」だった。

 街往く人達の中には、肩越しに振り返って見る人もいたし、足を止めて耳を傾ける人もいた。あたしの前に座り込んでじっとしている人も、増えてきた。
 あたしはふと、川辺の桜を思いだしていた。
 彼らはまるで、桜の木のようだった。

 あたしの叫び声が、聞こえているだろうか。・・・届いているだろうか。
 今、花を咲かせているだろう、あの桜の木に。


 その日は朝から篠突く雨が降っていて、行き交う人々の口からは愚痴めいた声が漏れていた。
「この雨でせっかくの桜も散っちゃうわね」
「明日までには止んでほしいぜ。せっかくの花見が台無しになっちまう」
「今年の桜も、これで終わりかな」
 ろくに見もしない桜の花が散ることを残念がっている。
 バカらしい。
 あたしは吐き捨てた。
 何故だか、不愉快な気分になった。
 雨のせいかもしれない。
 叫ぶ気も、歌う気にもなれなかった。
 肌寒いし、財布の中身も寂しいから、適当な男を見つけて夜をしのごうか。
 繁華街の入り口で、あたしはそんなことを考えながら、ぼんやりと突っ立っていた。
 どれほどそうしていたのか、あたしに声をかけてきた男がいた。
 三十代半ばくらいの男だった。
 男は人懐こく笑って、あたしに訊いてきた。
「今日は歌わないの?」
 妙な誘い方だと思った。
 それに、いつもあたしが相手にする男達とは、一風違った雰囲気の男だった。
 どこがどう違うのかはっきりとは言えないけれど、あたしの身体が目的ではないらしいことは、分かった。
 男はあたしに小さな紙を差し出した。
 白いその紙は金ではなかったから、あたしは受け取らなかった。
 男は肩を竦めて笑うと、その紙を引っ込め、胸のポケットにしまいこんだ。
「君の歌を聴きに来たんだけどな」
「・・・ベッドの中でなら歌ってあげてもいいわ」
 あたしはつっけんどんに返した。男は笑顔を崩さない。
「今聴きたい。君のキレイな歌声をね」
「――キレイ?」
 あたしは思いきり顔をしかめた。
 キレイ――って、何のこと? キレイなんて、知らない。聞いたこともない。
「うん、そう。君の声、歌も、透明でキレイだ。聴きたいな」
「今、ここで?」
 男は頷く。
 あたしはそっぽを向いて応えた。
「イヤ」
「イヤ? 歌うのが? それともここで歌うのが、イヤ?」
「・・・・・・」
 男はあたしの顔を覗き込み、それから軽く肩を叩いた。
「じゃ、ついておいで」
「・・・どこへ?」
「ここじゃない所へ。そこで君の歌声を聴かせてもらいたい」
「・・・・・・」
 どうして。
 どうしてついて行ったりしたんだろう。
 たったの一万円すら提示しなかった男に、どうしてついていく気になったんだろう。
「・・・・・・」
 傘を、雨が叩く。その振動が、手に伝わってくる。
 たぶん、雨のせいだ。
 雨の音がうるさくて、辛抱ならなかった。
 雨音が聞こえなくなればいいとだけ、思っていた。

* 続 *