夜、ユエル様が寝酒を所望されたので、ドイツの蒸留酒・トレスターブラントの瓶とグラスを持って、寝室に赴いた。
「こちらのお酒で間違ってませんか?」
「そう、トレスター。これで間違いないよ、ミズカ」
「……」
大きなお世話と分かっていつつ、グラスになみなみと蒸留酒を注ぐユエル様に、ちょっと窘めるような口ぶりで言ってみた。
「ユエル様、そんな強いお酒を寝酒になさって、大丈夫なんですか?」
泥酔したユエル様なんて、長年お仕えしている間に一度も見たことはないけれど、アルコール依存症になったりしないのかと、少しばかり心配だ。
グラスに注がれた蒸留酒は無色透明で、それをユエル様は水を飲むがごとく、さらさらと飲む。
アルコール度数を確かめたんだけど、三十八度と書かれてあって驚いた。
アルコールには詳しくないけど……かなりキツいんじゃないかしら? 胃が焼けちゃったりしないのかな。あ、でも、水分は体内で蒸発するって言ってたっけ……。
それにしたってアルコール度数が高すぎる。お酒に弱いわたしにしてみたら、もはや飲み物とは思えない、「アルコール」という名の液体だ。
「このくらいはどうということもないよ、ミズカ。それにね」
ユエル様は片方の手で銀髪の先を抓んで指に絡ませ、もう片方の手でグラスを揺らしている。ぶどう柄の切子が入った透明なグラスを持つユエル様の手は、まぶしいほどに白い。
「トレスターは消化促進作用があって、ドイツでは、コース料理の後に好んで飲まれている。寛ぎつつ飲む蒸留酒だから、寝酒にしても、いっこう差し支えはない」
「……そうですか」
わたし達は固形物を食べられないのだから、「消化」を「促進」する必要はないと思うんだけど。
と、言い返したいわたしの気持ちをユエル様はきっと察しているんだろう。
「わかったよ、ミズカ」
ユエル様は酒瓶の中身が半分まで減っているのを確認し、含み笑いを浮かべて言った。
「今日のところは、このグラスいっぱいでやめておこう」
ユエル様はお酒を楽しんで寛いでいるというより、わたしの反応を見て楽しみ、寛いでいるのかもしれない。
ユエル様は、長く生きているから当たり前なのかもしれないけれど、とても物知りだ。
なんでそんなことまで知ってるのかなっていう、他愛ない事まで妙に詳しい。
いったいどこからその知識を得ているんだか、不思議なほど。
ソファーにゆったりと腰かけ、トレスターブラントを堪能しているユエル様に尋ねてみた。
「あの、ユエル様。ちょっと、知りたいことがあるんですけど」
「何かな?」
ユエル様は軽く首を傾け、深い緑色の瞳をわたしに向ける。
「はい、あの……」
実は、前から訊きたかった事でもあり、別に訊かなくてもいいような事だった。
以前からちょっと気にかかってたこと。
ユエル様はアルコール中毒にならないのか、という疑問よりもっと些細な事。
こういった寛ぎの時間に、何気なく訊いてみたかったことだ。
「あの、最近本屋さんでちらっと見かけたことなんですけど」
「うん?」
「あの……ビーエルって、なんなんですか?」
たぶん、あまりに唐突過ぎたんだろう。ユエル様は目を瞬かせ、一瞬、返答に窮したようだった。
わたしは慌てて言葉を足した。
「アルファベットのBL、です。本のジャンルだと思うんですけど。漫画や小説の表紙にそういった表記をみかけて」
「ああ、そのBLね」
ユエル様は脱力したような笑顔を見せ、グラスをテーブルに置いた。
「その小説や漫画、ミズカは中身を確かめなかったの?」
わたしは頷いた。
……なんというか、手に取り難くて。
「略語、なんですよね?」
「そう。……ボーイズ・ラブの」
ユエル様は失笑か、あるいは苦笑を堪えているような表情をしている。酸っぱげな表情といってもいいかも。
とにかく、何やら妙な顔をしていた。
「ボーイズって、……えぇっと、少年とか、男の子の……愛?」
「まぁ、そうだね」
ユエル様はため息ついた後、話を続けた。
「特殊なジャンル指す言葉だ。ミズカ、以前教えたことがあったから、男色という性癖については知っているね?」
わたしは無言で頷いた。
「BLとは、広義で解釈すれば、その性癖を表している略語というか単語だ。が、似て非なるもの、とでもいうのかな。男同士の同性愛を書いた小説や漫画であろうことは違いないが」
「……はぁ……」
わたしは首を捻った。
「つまり、男の子っていうくらいですから、えぇっと、……お稚児さんとか寵童みたいなものなんでしょうか?」
わたしは知る限りの知識をひねり出し、訊いてみた。
稚児や寵童、これらも以前ユエル様から日本史を学んだ時に雑学として教えていただいたことだ。
古来、女性との交わりを禁じていた僧侶は、代わりに元服前の少年などを「囲っていた」とか。そういう少年のことを「稚児」、あるいは「伽稚児」と呼んだらしい。戦国武将も、そうした「稚児」を持っていたと教えられた。
僧侶においては仏門で、戦国武将においては戦場で、女性との交わりは禁忌とされていたから、少年で(とりわけ見た目の美々しい子等で)代用していた、らしい。
「そういうお稚児さんの話……なんですか?」
「いや、少し違う」
ユエル様は頭を振った。口元には曖昧な微笑が浮かんでいる。
「稚児を扱った話もあるかもしれないが、それだけをさしてBLと言うのではないからね」
「はぁ?」
わたしは首をかしげ、ユエル様の説明の続きを待った。
ユエル様は言いあぐねているようで、困ったようにため息をついた。
ややあってから、ユエル様は遠まわしな言い方で、説明を再開してくれた。
「男色に限らず同性愛の歴史は長く、それらは確実に実在していたし、今も実在している。ミズカもそれは知っているね?」
「はい。それとBLは違うんですか?」
「違うといっていいだろう。男色や衆道をテーマに扱う小説や創作物は古来よりあるものだが、それらを総括してBLとは言わないだろうからね」
「……でも、男同士の……その、同性愛の話には違いないんですよね?」
言ってて、気恥ずかしい単語だ。
何がどう恥ずかしいのかはっきりしない。漠然としてて、それが恥ずかしさを煽ってる気がした。
「まぁ、そうだが……」
尋ねられたユエル様はと言うと、羞恥に戸惑っている表情ではないけれど、やはりどことなくむず痒いような表情で、返答も曖昧なものだった。
「あぁ、そういえば、たしか……」
ユエル様は立ち上がり、わたしにこの場で少し待つよう告げてから、部屋を出た。ほどなくしてユエル様は部屋に戻って来、そして二冊の本をわたしに手渡して言った。
「百聞は一見にしかず、だ。これを読んでみるといい」
手渡された本はどちらも漫画のようだった。けれど、一冊は小説らしい。表紙を見ただけじゃそれとは分からなかったけれど。
ユエル様はたしかに読書家だけれど、どうしてこんな本を持ってるのか、まずそれが疑問だった。
けれど、それを訊くタイミングを逃してしまった。
「それくらいならさほど過激な内容でもないし、初心者のミズカでも、まぁ、大丈夫だろう」
「はぁ……?」
過激とか初心者とか、BLっていうのはよほど特殊なジャンルなんだろうか?
ユエル様はわたしの手に渡った本の表紙を、白くて細い……それこそ本の表紙のイラストにある美青年の肌の色をそっくり映したような……指で、軽くつついた。
「BLというのはね、ミズカ。一種のファンタジーだ」
「ファンタジー、ですか? 剣と魔法の?」
「いや、そういった意味のファンタジーではなく、元の意味、つまり幻想や空想という意味だよ。大半の娯楽小説はそういった意味でファンタジーと言えるけれどね」
ユエル様は微笑んだ。
それこそ幻想的とすら言える端麗な微笑で、緑色の双眸の艶かしさときたら、見つめられた瞬間に、すぐさま石に変じてしまいそうなくらい美妙で、魔力じみた色がある。
体中がほてりだす。けれど、石になったわたしは、ユエル様から視線を逸らすことも出来ない。
「ファンタジーだということを念頭において読むようにね、ミズカ。のめりこむと、なかなか抜け出せなくなるもののようだから」
わたしはコクリと頷いた。身体はまだちょっと硬直している。
ユエル様の優麗な微笑には金縛り効果もあって、声まで封じられてしまうから、困る。
ユエル様はやや唐突に、話の流れを変えた。
「ミズカ、私はワインと蒸留酒ならとくにドイツのものを好むが」
頷いた。頷き人形になったみたいに、それしかできない。
だけど、どうしてワインの話が出るの?
わたしはきっと不思議そうな顔をしていたんだろう。ユエル様はくすっと小さく笑い、けれどそのまま話を続けた。
「しかしこれは単に、私個人の好みの問題だ」
「…………」
ユエル様は、どちらかといえば物事に対して拘る性質ではなく、何事にもあっさりと淡白だ。だけどことワインに関しては意外なほど好みがうるさくて、薀蓄もあるから、評価も辛い。
「だから、好みではないからといって、他国のワインや蒸留酒を否定し、貶めることはしない。他国のワインにも上質なものは多い。それを認めてもいる」
ユエル様は頑固すぎる性質ではないから、無頓着なわたしが出したフランスやイタリアのワインを突っ返してきたことはなかった。「フランケンのワインがあったはずだが」と呟くことはあるけれど。
「ミズカも、そういった気持ちでそれを読みなさい」
「…………はい」
ユエル様はきっと……偏見をもたれやすいジャンルなのだと言いたかったのだろう。だからこそ偏見を持たずにいなさい、と。
人の好みは様々で、「様々」というほどに、まだまだこの世にはわたしの知らないことがあるんだって。
それをまた、ユエル様から教えてもらおう。
ユエル様は、様々なことをわたしにも分かるよう優しく教えてくれる。
時々は、わたしの質問をはぐらかしてしまうこともあるのだけれど。
* * *
その夜、わたしは未知との遭遇を体験することとなった。
ユエル様から貸していただいた二冊の本(一冊は漫画で一冊は小説)を読了し、なんとなく、「BL」って世界観が理解できたような……気がする。
ユエル様が「ファンタジー」だと言っていた意味も、なんとなく。
だから、というのでもないけど。
「ユエル様に似合いそうな……」
って、一瞬、妄想してしまった。
だけど、そうじゃないことは知っていたから、妄想はすぐに掻き消えて安堵したなんて、ユエル様には内緒にしておかなくちゃ……ね。
* 了 *