――心が重い。
心の中に靄がかかったようだった。見通しが悪くなって、見えていたはずのものまで見えなくなってしまった。そんなもどかしさに苛立ちすら覚えて、焦燥感をも募らせていた。
こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。
ユエル様の憂いを含んだ美しい微笑に、なぜこんなに胸が鳴り、疼くんだろう。背の傷までが痛み、逃げだしたい衝動に駆られる。それでいて離れるのが怖い。
こんなもやもやした気持ちを、いったいどうしたらいいのだろう。どうすれば治まり、元通りになるのだろう……?
ユエル様の傍に居たいと願うのに、傍に居てはいけない気すらしてしまう。
胸をひしめかせるこの感情の名を、わたしは知らなかった。
知るべきではないと、思っていた。
森を渡る夜風の音が窓越しに聴こえてくる。
八月最中だというのに、少し肌寒い。昼間の暑さが嘘のようだ。
ふと、部屋へ向かう途中、廊下で足を止めた。
カタカタと窓枠の木が鳴っている。窓の外では梢が擦れ合う音がまるで細波のように辺りに響き渡っていた。
日付が変わる時刻まではまだ少し猶予がある。けれど静寂な空気は宵の深さをいやおうなしに体感させた。
屋内はしんと静まり返っている。ついさっきまでイスラさんやアリアさんがいて、多少なりとも賑やかだったのに。
間接照明の合間合間にできる黒い影に、僅かな物音すら吸いこまれ、かき消されていくかのようだった。
なんとはなしに、窓に目をやった。夜の闇を背面にした窓ガラスにわたしが映る。疲れ気味のわたしの顔にかわり映えはないのだけど、不意に違和感を覚えた。
なんだろう。何か忘れているような……?
「…………?」
首を傾げ、見たところでなんら嬉しくもないわたし自身の顔を、改めて注視した。
「……あっ」
瞠目し、右の耳たぶを掴んだ。
――アリアさんに買っていただいたイヤリングが無くなってる!
左耳にはある。
細い銀の鎖の先で、水色のビーズが照明の明かりを受け、光を弾かせている。白やピンク、緑から紫へと、光の当たり具合によって、くすんだ水色のビーズは様々な色をみせる。ハートの形をしたクリスタルガラスのイヤリングだ。
けれど、片方しかない。右耳にもたしかにつけていたのに、なくなってる!
買っていただいたばかりなのに、もう失くしてしまったなんて、……どうしよう!
体中をはたいて、衣服のどこかに引っかかってないかを確認したみた。着替えはまだ済ませてなかったからワンピースのままで、そこに薄手のカーディガンを羽織っている。どこにも、イヤリングはひっかかってなかった。
どこで落としたんだろう……! 落としたという記憶もない。
踵を返し、駆け出した。
まず、寝室に戻って部屋中をくまなく探した。ベッド周りを重点的に探した。掛け布団もひっぺがし、枕の下もシーツの下も、全てめくって確かめてみた。箪笥や机や椅子、窓際も、目を皿にして探してみたのだけど、見つからない。
帰宅した時には間違いなく、両耳にイヤリングが下がっている感触があった。つけ慣れないものだったから重たいとすら思っていたのに……! なのに落としたのに気付かなかったなんて!
廊下、階段、エントランスホールから玄関周り、それからリビングにキッチン、ともかく今日歩いた場所をしらみつぶしに探そう。
寝室を出て、廊下と階段の床を端々まで確認しながら、次はリビングへと向かった。
広いリビングでの探索も、かなり骨折りだった。
入り口付近から座ったソファーの周りを特に念入りに探したのだけど、見つからなかった。
スワロ……ええっと、スワロフスキーだったかな? クリスタルガラスのイヤリングだったから、落とした拍子に割れてしまってるかもしれない。
もしそうだったら、どうしよう……。
わたしに似合うからと、アリアさんが選んでくれたものなのに。
「……っ」
締めつけられるような痛みに耐えかねて、わたしは胸元を掴んだ。それで痛みが治まるわけもないのに、こぶしに力が入る。
やっぱりわたしには不相応な品だったんだ。わたしなどが身につけていい装飾品ではなくて……だから消えてなくなってしまったんだ。
でも、そんなことは失くしてしまった言い訳にはならない。どんな言い訳をしたところでアリアさんの好意を二重に踏みにじるだけだ。
探しても探しても見つからない焦燥感も手伝って、気分はどんどん沈み、あんまりにも情けなくて泣けそうだった。
じわりと視界が滲む。
「だめだめっ! 泣いてる場合じゃない! もっとちゃんと探さなくちゃぁ!」
ひとりごち、わたしは目をこすって、頭を振った。
諦めちゃだめだ! なにがなんでも見つけなくちゃ!
屋敷からは出ていないのだから、屋敷内のどこかにあるはずだもの。
リビングを出、エントランスホールを一通り見てから、今度はキッチンへと向かった。