天に二つの日無く、国に二つの王無し 上宮大娘姫王(カミツミヤノイラツメノヒメミコ)
春、未だし頃。
空高く飛び交う鳥の鳴き声が、冷たい風がやがて甘やかな青風に変わることを、忙しなく報せている。
井戸の水が入った甕を両腕で抱え、青空を眺めやる娘は、才ある姫巫女だった。
姫巫女は、ふと、神社のわき道に目を向けた。
何者かが駆けてくる。
しかし、驚き、慌てふためいて立ち去ることはしなかった。
「お姉さま! お姉さま!」
その声が、聞こえたからだ。
駆けて来たのは、十歳ほどの年頃の童女だった。振り分け髪は、櫛を通せばさぞや美しいだろうに、腰まで伸びた黒髪は、今はすっかり乱れ、草までひっかかっている。
「まあ、またそんな男の子のように走って」
大人びた口調でそう窘めてはみるのだが、どうしても厳しくはしきれない。
「お姉さま、聞いてください」
「ほら髪もすっかり汚れて。今日は髪洗いには吉日だったはず。さっそく・・・」
「お姉さま、私、三輪山の神様にお会いしましたの!」
駆けて来た童女は、息を整えもせず、頬を紅潮させてそう言う。
「まあ。・・・それは、よかったこと。おみいさまに、この時期にはお会いしやすいのだと、父上からうかがったことがあるわ」
「違うわ、お姉さま。蛇のお姿では、ありませんでしたの!」
「え?」
「ヒトのお姿をしていらっしゃったわ。とても美しい・・・殿方でしたわ」
童女は瞳を輝かせて、なおも続けた。
「そしてとてもお優しい方でしたわ。お花を、採っていただいたの」
自慢げに、手に握り締めていた白菊を、姉に差し出す。
「まあ・・・額田」
「・・・いえ、本当は、三輪の神様かは、わかりませんけど」
ヌカタ、と呼ばれた童女は屈託なく笑う。
「でも、もし三輪の神様がヒトのお姿で降臨なされたら、きっとあのような方なのではないかしら」
無邪気な妹は、うっとりと宙に視線を泳がせる。
「お供の方がアヤのミコ様と呼んでいらっしゃったわ、たしか」
「ミコ・・・皇子様でいらっしゃったのでは、額田の君?」
「あ、そうですわね、よくよく考えたら。でも、皇子様がこのようなところにおいでになるなんて」
「そうですね。遊行にきていたのかもしれませんけれど。それよりも、額田の君、そのような方に、花を採っていただいたの?」
「神拝所に飾る花がほしかったんですもの。小川の向こうにあって、飛び越そうかと迷っていたら、採ってくださったんです」
「あなたらしいこと」
「今朝、とても良い事がある気がしたんですの。だからやはりあの方は三輪の神様の化身でいらっしゃったんだわ」
天真爛漫なこの妹は、感能力が高い。神意を、自然の理を、容易く身の内に宿らせ、そしてそれを言にして、発する。優れた巫女なのだが、まだ自覚に乏しく、幼すぎた。
「わたしはいつかまたあの方とお会いしますわ。ええ、きっと!」
―― 鏡王女。そして、妹の名は、額田王。
やがて二人は、時代の大きなうねりに呑み込まれてゆく。
あかねさす紫野ゆき
額田の気がかりは、姉のことだった。
天皇(スメラノミコト)の後宮へ入ることが決まった、それは翌日のことだ。
「お姉さま、こちらをお持ちになって」
額田は勾玉の首飾りと手に納まるほどの大きさの手鏡を、姉に手渡した。
お守りのつもりなのだろう。
鏡王女は笑んで、その二つを受け取った。
「ありがとう、額田の君」
美しくたおやかな鏡王女は、不安を面にあらわしたりはしない。妹を気遣ってのことだ。
片親だけの血の繋がりの姉妹だが、額田王は、実の姉のように慕ってくれた。そんな額田を、鏡王女もやはり実の妹のように思い、可愛がってきた。
血筋だけではなく、巫女としての能力も、額田ははるかに鏡王女をしのぐ。
巫女といっても、現世においての巫女だ。斎の巫女として、完全に神社に封ぜられはしない。ゆえに、後宮に入る道筋も、作られてしまう。
鏡王女の気がかりも、やはり妹のことなのだ。
「大海人皇子の妃にはならないのですか、額田の君?」
「・・・・・・」
額田は首を横に振った。
額田と、日嗣の皇子になりうる可能性のある大海人皇子との仲は公然のものだった。
だが、額田は正式に大海人皇子の室に入ることはしなかった。
妹の心情を、多少は察している鏡王女だが、それでも「何故」と問いたかった。
愛しているのに、と。
かつて、中大兄皇子と称されていた皇子は、今は御位についている。
中臣鎌足とともに蘇我家の頭領を討ち、軽皇子を即位させてから、実に十六年という年月を要しての即位だった。
即位前、そして即位後も、政権は落ち着かず、世は乱れを残したままでいる。
額田王は呟いた。
「皇子さまには成すべきことがあるのです。・・・それが・・・」
ふいにかすめた予感を、額田は首を振って払う。
姉の鏡王女とともに、近江の宮に留まることになった額田は、宮廷の取り巻いている暗闇を、常に見つめていた。
中大兄皇子の即位以前から、その闇は続いている。
年長者ではあるが、血筋ゆえに御位から遠ざかることになった大海人皇子との「出逢い」は、現在の近江宮ではない。かつてあった宮の近在地、狩場で二人は出逢った。
あどけなかった童女から、聡明な娘へ。額田は、美しく成長した。
森を渡る風のように奔放な額田は、気ままに出歩いては、彼女に仕えている者達の気をもませていた。
その日も、よく晴れた青空のまぶしい日だった。
花を摘むために森へ出かけ、そこであやうく馬上の青年に矢を射掛けられるところだった。
「すまない、雄鹿かと・・・。怪我はないか」
凛とした声が耳に心地好い美々しい青年は、優雅な身のこなしで馬上から降りて額田の前に立った。
「・・・あなたは」
額田には、すぐわかった。
三輪の山に居た頃、まだ幼い童女だった頃に出逢った、この青年は、あの三輪の神様の化身だと。
「大事無いか? 驚かせて本当にすまなかった」
「いいえ、大丈夫です。・・・アヤの皇子さま」
「・・・どうして、その名を?」
「憶えていらっしゃらないのですね。残念ですけど、しかたありませんわね? 私はほんの子供でしたし」
額田は悪戯っぽく笑う。その幼さの残る笑みを見、青年は思いだした。さすがに、多少の時間は要ったが。
「三輪の山で出逢った、あの少女か、君は」
白菊を手折ろうとしていた、おてんばな少女。
「そうか、君はあの時の」
「あの時は、花をありがとうございました。私ときたら、ちゃんとお礼を言ってなかった気がしますわ」
「そうだったかな? いろいろとお喋りをしてくれていたから、私も憶えていないな」
青年は改めて娘に名を問うた。額田はこの時、まだ名を明かさなかった。ただ、「鏡王の娘」だということだけを告げて。
「ところで、漢皇子という呼び名を、どこで憶えたのかな?」
「お供の方がそう呼んでいらっしゃいましたわ。・・・違いますの?」
「今は、違う。・・・今は、大海人と呼ばれている」
「オオアマノ皇子様・・・?」
その名前を知らされ、額田は少したじろいだ。
実物に会ったことはないが、その名だけは耳にしていたからだ。
姉が嫁ぐことになる中大兄皇子の兄弟の名が、それだったからだ。
それでも、急に態度を改めて、恭しく礼をとるようなことはしない。かえって、それは礼を失する行為にあたると、彼女なりに思ったのだろう。
「鏡王は、よい娘をもたれたものだな」
「お姉さまに、お会いいたしましたの?」
「いや。だが、美しく才のある方とうかがっている」
「その通りですわ。お姉さまはお美しくて、そしてとても優しい方です」
むきになって、額田は言う。物怖じせず、挑むような口ぶりでありながら、心根の優しさを感じさせる。
幼い頃のまま、この少女は変わらないのだな。
皇子の口元に笑みが浮かぶ。
皇子は目についた花を手折り、それを額田に差し出した。いつかもそうしたように。
それもまた、白い花だった。だが、白菊ではない。皇子は、その花の名を知らなかった。
夏の野に咲く、小さな白い花。
「いつか、また会おう。その時はそなたの名を教えてくれ。きっと」
「・・・・・・」
額田は頷いて、そして花を受け取った。
紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも 大海人皇子 巻一 二一
時代は、奔流に流され始めていた。
有間皇子が紀温湯で非業の死を遂げた。・・・抹殺されたのだということは、誰の目にも明らかだった。
この事件は、額田の心をひどく傷ませた。才知ある皇子と親しく言葉を交わしていた額田にとっては、友人を亡くしたと同然の思いだったのだ。そして、主犯格に姉の夫が関わっているのだ・・・・・・
そして、幾つかの血腥い事件を経て、さらに額田を悩ませる事が、身の上に降りかかってきたのだ。
「どうして、どうしてこのような心無いことをお上はなさるのでしょう!」
悲憤に、額田は激しく身を震わせた。
姉が突然、臣下である鎌足のもとへ下賜された。それでも納得がいかないというのに、それには自分を天皇の室に入れるためという理由があったなどとは。
しかし拒みきれるものではなかった。
「額田の君。お辛い目に、あわせてしまいますね」
「お姉さま! お姉さまの方が、ずっとお辛いのに」
「・・・・・・」
鏡王女は笑った。悲しげに、そしてその思いを隠そうとして。聡い妹にごまかしはきかないと知っていても、もう彼女には泣く涙すらなかった。
正室ではなかったとはいえ、天皇の後宮に入り、それなりの愛を受けた身だった。しかし結局は「道具」でしかなかったのだ。血族という繋がりと、巫女という繋がりが、ただほしかったのだ。
だが、自分よりもきっと妹の方が辛いのだ。
愛する人がいるというのに。その人の許へゆかなかったことが、このような形で利用されるなど、思いもしなかった。
姫を一人もうけたばかりの額田の髪を、姉は優しく撫でつけた。
「私のことは、よいのです。額田の君、あなたこそ、十分お気をつけて」
「お姉さま」
「私達はこのように使われるさだめなのかもしれませんわね。それは望ましいことではないけれど」
「お姉さま! 私は・・・嫌です! そのように、他人に使われるままの一生だなんて!」
「・・・・・・」
「私の心は、あの方のものです。それも決して縛られたりはしない。あの方だけを愛しています。今さら心を変えることはできません」
情熱的な妹は、必死に時代の流れに逆らおうとしている。
けれど、抗えないことも、二人の姉妹は、とうに知っていた。
時代という大きな流れに逆らうには、二人の乗る舟はあまりに小さい。
「額田の君。せめて、そのお心だけはいつまでも忘れないで。あなたの言うように、心だけは、私もあなたも自由よ」
「お姉さま・・・」
鏡王女は、優しく妹を諭す。それは、自分をも慰め、いい聞かせるものだった。
「私達はきっと流れに呑まれてしまうでしょう。けれど、きっと残るものもあるわ。私達は、それを信じていましょう」
信じられるものなどないこの時代に、何を真実だといって信じたらよいのか。
その答はない。けれど、鏡王女は遥を見つめるようにして、言った。
「あなたの歌は人を惹きつけます。その歌にこめられた想いを、いつかきっと見知らぬ誰かも、解かってくれるでしょう。私はその日を、そしてあなたの歌を、信じていますわ」
秋山の
もう二度と、逢瀬は叶わない。
それを知ってもなお、想いは薄れることがない。いや増すばかりだ。
大海人皇子は、抱きしめた額田の温もりをその腕に閉じ込めて、離さなかった。今は、天皇の室に入った彼女を。
「・・・すまない」
切なげな皇子の声だった。雄々しい皇子は、吉野へ隠棲するという。
吉野へ、ともに連れて行けいないことを謝罪しているのではない。
「皇子様」
額田はそっと腕を大海人王子の背に回した。優しく、包むように。
「皇子様、どうかそのように仰らないで」
「額田」
「もしかしてご迷惑かもしれませんけど」
少しおどけた口調を、額田は作ってみせた。
「額田の心は、いつでも大海人皇子様と、ご一緒ですわ」
額田は顔を上げ、笑顔を浮かべた。
「皇子様には、成すべきことがおありのはずです」
「・・・額田、そなたにはそれが見えるのか? その先も?」
「皇子様、私は三輪の巫女です。望むと望むところに関わらず、時には先を見ることもあります」
「・・・そう、だな。そうだったな。そなたの歌は、いつも神の御声のようだった」
苦味の混じった大海人皇子の微笑は、額田の眉目を曇らせてしまう。せっかく、笑んでみせたというのに。
「先を、お知りになりたいのですか?」
不安げに額田は尋ねた。このような質問を、今までただの一度もしたことがなかった。額田の心の惑いが、そうさせた。
「・・・いや、その必要はない」
「・・・・・・」
知りたくない。と言わないのが、大海人皇子という人物だった。ましてや、知りたいなどとは言うはずもない。
秘密の逢瀬、それはほんの僅かの時間しかない。こうして逢っていることすら罪なのだ。
「私は、私の前に敷かれた道を、進んでいこうと決めた。この道から逃げることも考えてはいたのだが、その道はどうやら絶たれたようだ。ならば、振り返らずこの道を歩んでいくと、私自身で決めたのだ」
毅然と、大海人皇子は語った。
「私は謀反人となるだろう。大友と争うことは本意ではないのだが、それも、今は甘んじて受けよう」
愚痴もある。後悔もある。だが、それすら享受して、茨の道を選んだ。
この人を愛せてよかったと、心から思う。
いっぺんの悔いなく、愛しきれたことが、額田には嬉しかった。
「やはり皇子様は、三輪の神様の化身だったのですわ」
額田は大海人皇子の両手を取った。
「私は三輪の神に捧げられた、姫巫女。どこにいても、いつでも祈っています。いつも、貴方のことを」
大海人皇子は、もう一度だけ額田を抱き寄せた。
今生の別れを、惜しんで。
神無備の
後に「壬申の乱」として知られる事件は、大海人皇子側の勝利として「終わった」。
皇位についた大海人皇子と、額田の逢瀬は、これより可能になるかと思われた。だが、そうはならなかった。
皇后の影響が、あまりに強すぎた。
だが、それも額田は初めから知っていたいたことだった。
いずれは、かの皇后・・・中大兄皇子の娘であった皇女・・・が天の下を治めるということをも、額田は予見している。それが、苛烈を極める治世となりうることも。
・・・わかっていた。
初めから、わかっていたのだ。自身の恋の行方を。
それでも、そこから逃げ出しはしなかった。だから悔いてはいない。
額田は、今はもう、独りきり。
独りきり、夜空を見上げ、嘆息した。横にいるのは、冷たい秋風だけ。
姉にも、娘にすら、もう会うことは叶わないのだろう。
隠遁生活を強いられ、そうすることで生を永らえている。それを望んでいたわけではないが、せめて与えられた命が神に召されるその日までは、こうして想いを紡いでいこう。
煌めく星々を眺め、額田はいくつかの歌を、詠んだ。
それは、何にも記録されない、額田の想いの欠片だった。
だが、ふと口をついて、出た歌があった。
「あかねさす・・・・・・」
今はもう、秋。
白いあかねの花はない。
応えてくれた、その人も。
三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなむ隠さふべしや 額田王 巻一 一八
- 了 -