きらきら、若葉が光る。
重なり合う葉の隙間から覗く青色がまぶしくて、静は目を細めた。
バスを降りて、山道へ続く細道を行く。コンクリート舗装された道とは違う、柔らかな感触が足の疲れを和らげる。
日陰に入ると、風はまだ少し冷たい。
五月は、春でもなく、夏でもない。不思議な季節だ。
静は、大きく深呼吸をする。
清涼な空気が肺を満たす。鼻がツンとして、眉をしかめた。
「・・・さあ、行こう」
帽子を目深にかぶって、止めた足を再び動かし、緩やかな坂道を登り始めた。
初めて言葉を交わした日。
「シズカっていうのか、名前」
彼に名を訊かれ、俯きかげんになって、答えた。
「いい名前だな」
静は、一度上げた顔を、また下げた。
内気で大人しい性格に似合った名前だ。そう言われるとばかり思っていた。
「ヒトリシズカっていう花、知ってる? 白い穂状の花で、木陰に咲く山野草なんだ」
知らない花の名前だった。静御前という、歴史上の人物なら知っていると答えると、
「その静御前の舞う姿のようだということでつけられた名前なんだよ」
彼はそう言ってから、どんな花なのか説明してくれた。
「木の陰でも凛とした花を咲かせるヒトリシズカみたいだね、君は」
そして彼は、静をその花にたとえた。
初めて、ここへ連れてきてもらったのは、いつだったかな。
一人で歩いていると、つい物思いに耽ってしまう。
けれど、長く続く坂道に、しばらくは体が慣れず息が上がって、想い出に浸りかけた思考は、一旦停止した。
ごつごつした大きな岩に苔が生していて、うっかりすると足を滑らせてしまう。
「だからちゃんとトレッキング用の靴がいいんだよ」
彼の言葉を、思いだした。
普通のスニーカーを履いてきて、滑って転びそうになったことがあった。大丈夫か、と心配して、手を貸してくれた彼。小言付きだったけれど、差し出された手は静をしっかりと支えてくれていた。
結局買ったトレッキング用の靴。彼に付き合ってもらって、オススメの靴を選んでもらった。
その靴を履いているから、あの時みたいには、滑ったりはしない。
支えてくれる手も、今はないから―――
岐路には、看板が立っている。
目的地は、ここから一番近い「頂上」だ。そこまでの距離と時間が、記されている。あと二時間もあれば、着く。
腰かけるのにちょうどいい岩が目に付いて、そこで小休止をとった。
そういえば以前も、ここで休んだんだっけ。やっぱり、あの岩に座って。
「ふぅ・・・――」
若い女の一人歩き――しかも山中の――というのは、珍しいようだ。
土曜日ということもあって、何人かとすれ違ったり、あるいは追い越されたりした。大抵はにこやかに挨拶をかわし、何事もなく過ぎて行ったのだが、中には不審顔をする人もいた。
汗を拭い、水分補給をすませて、静は再び歩き出した。
「あんまり無理するなよ? 自分のペースで歩けばいいんだから」
彼の言葉を反芻し、頷いた。
綿シャツの胸ポケットに、手をあてて。
上り坂が続いた後に、急な下り坂が待っていることがある。上り坂に慣れた後だと、大きさのまちまちな岩が連なった下り道は、かえって体力を消耗させる。足をとられないよう、慎重に下ってゆく。
晴天なのはありがたいが、風が止むと暑いくらいで、顔といわず、全身から汗が噴き出してくる。陽射しも、体力を消耗させる要因の一つだ。
静は長袖の綿シャツの袖をまくった。タオルで顔の汗を拭う。
以前来たのは・・・二年前だった。
やはり五月で、雲の多い日だった。でも、時折は日が射して、彼が言うには「絶好のハイキング日和」だった。
「今日は、ほどほどのハイキング日和――ってとこかな?」
静は独語し、笑った。
一人で山を歩くなんて、初めてだ。一人で行くことなんて、思いついたこともなかった。
彼は、一人でもよく歩いていたみたいだけれど。カメラを片手に。
静は、花屋に売っているような花はわりと知っていたし、自分でも何種類か育てていたから、花には詳しい方だと思っていた。
けれど、彼はもっと詳しかった。とくに山野草に関してだったから、静とは「畑」が少々違っていた。
そうした山野草の写真を撮るのが、趣味だった彼。
「フキノトウは知ってるだろ?」
「うん。料理に使うよね?」
「そう、それ。ほら、「トウが立つ」っていうだろ? それの花だ」
花に関しての雑学も、教えてくれた。
「トウが立つともう料理しても美味くない。だから「盛りを過ぎた」って意味なワケだ」
「トウって、何?」
「花の軸のことだ。フキノトウだけじゃなくて、菜の花にもつかう」
「そっか、菜の花も調理するよね」
「山野草は料理に使えるものが多いぞ。ただし、有毒性のものもあるから、気をつけないといけないけどな」
彼となら、もしかして山で遭難しても大丈夫かもしれない。
静がそう言うと、彼は明るく笑って、
「縁起でもないこと言うなって」
そう言ったけれど、まんざらでもないようだった。
彼にとって、きっとそれは褒め言葉だったから。
彼は、引っ越した先の真向かいにあるアパートの住人で、何とはなしに話すようになり、親しくなった。
当時、専門学生だった彼と、中学生だった静。
人懐こい笑顔を向け、気軽に声をかけてくる彼と意気投合したきっかけは、「花」だった。
青紫のハルリンドウ、紅紫のカタクリ、黄金色のフクジュソウ、薄緑の花弁のシュンラン、可憐な純白のイチリンソウ―――
春の山野草。静が知っていたのはカタクリとフクジュソウ。他にも色々と教えてくれ、そして写真も沢山見せてくれた。
花盛りになる春、彼は休みの度にいそいそと山へ出かけていた。
薄紫のホタルカズラ、群生する赤紫のオドリコソウ、釣鐘の形をした紅色のヤマホタルブクロ、そして山中だけではなくごく普通に「雑草」として時折公園や道端に見つけることができる、ピンク色のモジズリ。らせん状に小花をつけるその花を、彼は特に好んでいた。別名をネジバナという。
これは静も好きで、花屋で苗を見つけたことを彼に教えて、驚かせたこともあった。
男の人なのに花に詳しいなんて。そう言うと、彼は差別だと苦笑まじりではあったけれど、反論してきたものだ。
「好きになるのに、男も女も関係ないだろ?」
ちょっとずれた彼の言葉に、静はどきりとした。たぶん彼は、それに気がつかなかったろう。
「好きになるのに・・・・・・」
そう。好きになるのに、理由も制約も、ない。
だって、「好き」なのだから――
流れる汗を拭い、歩みを止めた。
木陰で見つけた山野草。白い花弁の小さな花。黄緑色の葉に添えられているような、その白い花の名を、彼なら知っているだろう。傍に、別の花がある。緋色のショウジョウバカマだ。彼に教えてもらった花だ。
「・・・カメラ、持ってくればよかったかな?」
でも、彼のようには撮れない。
電源を切っていた携帯電話を取り出した。
帰ってから、本で調べてみよう。
そう思って、電源を入れ、白い小花を撮った。
木立に挟まれた狭い山道は、風が通り抜け、心地いい。
ふと脇を見ると、山の稜線が見える。
鮮やかな濃緑の山容と、清澄な青空。そして、爽快な森林の匂い。
涼やかな体感を思いだした。心が風に乗って無限に拡がっていくような、こんな感じを、ずっと、忘れてしまっていた。
もうこんな気持ちにはなれないと、思っていたのに。
静は両足に力を入れ、もう間近い「頂上」へと向かった。
休憩所が設置されたそこが、静の目的地の「頂上」だ。
登ってきた山のてっぺんという意味の「頂上」ではないが、ここが一番見晴らしいがいい。
「ほら、あの辺りが、俺たちの住んでる町だ」
彼が指さして示してくれた方角に、町並みが見える。箱庭みたいな、小さな集落。
――もう、そこに彼はいない。
静は胸のポケットから、四枚の紙を取り出した。
それは、新幹線の往復チケット。
「まだ、一応、日帰りだからな」
そう言って手渡してくれたチケットだった。
四年間の片想いの末、晴れて「恋人同士」に昇格したのは、二年前。
チケットの日付は、一年前のものだ。
果たされなかった約束が、静の手の中にいつまでも残っていた。
「一人で、先に、いっちゃうなんて」
どんなに嘆き責めても、彼は、もう、―――いなくて・・・・・・
風が、吹きつけた。強い風に帽子を取られそうになり、慌てて両手で押さえる。
梢を揺らす風の音は、彼のささやきのようだ。
「ごめんな、静」
先に逝ってしまったことを、きっと彼は謝っている。そして心配してくれているかもしれない。
「静はちょっと内気すぎるぞ? ほら、しゃんとして。自信持て」
そう言って背中を軽く叩かれたり、押されたりした。俯いてばかりの静を、慰めるより、窘める事の方が多かった彼。
―――心配ばかりかけてたね。
いつも、ずっと。
「・・・あ」
指先に挟んで持っていたチケットが、風に飛ばされてしまった。吹き上げられ、やがて谷間へと落ちていく。
「・・・・・・」
静は、微笑った。瞳は潤んでいた。けれど、頬に伝うものはない。
凛と顔を上げ、空を見る。
「・・・もう、大丈夫だから」
心配性の彼は、「本当か?」と訊き返してくるかもしれない。けれど、風のささやきに、もう彼の声は聞こえない。
かつて彼と共に眺めた、山頂からの景色。共に歩いてきた道。それらを今は一人、望んでいる。
とりどりの色を重ねた緑の山の美しさ、果てなくひろがる蒼穹の雄大さ、吹きぬける風の爽快さも、・・・思いだした。
彼を失った日、全てを失ったと思っていた。
けれど、山も空も風も、変わらずにここにあって、そしてその豊かさを示してくれる。
小さなわたしを、こうして包んでくれる。そして、一人じゃないと、教えてくれる。
心の奥深く、命を灯すように、わたしの全てで、彼を想っていた。
だから、不意に訪れた別れが悲しすぎて、消された心の灯火はもう点かないと思っていた。
けれど、彼が灯した明かりは消えてはいなくて―――
だから・・・―――
彼と出逢えて、よかった。輝くように、幸せだった。
彼と過ごした日々の何もかもが、これからもわたしを支えていくだろう。
優しさと強さを与えてくれた彼に応えるよう、生きていきたい。
一滴だけ、涙が頬を伝った。
彼は大きく背伸びをしながら、
「こうして山を歩くのも、いいもんだろ?」
座り込んでしまっていた静に、そう言った。
初めて山歩きに誘い出した時のことだ。
大抵は一人で出かけていたのに、半ば強引に静を連れ出した。
「木々の中を一人で歩くのは寂しいけど、実際は独りきりなんかじゃないんだ」
彼の双眸は、いつも遥を見据えている。それなのに、足元の小さな草花にも気がつくのだ。
照れくさそうに笑って、そして彼は手を差し伸べた。静は、ためらいがちにその手をとった。
「・・・でもやっぱり、一人じゃ、寂しいな」
「静は寂しがりだな。・・・ほら、行こう」
一緒に。
それを口にはしなかったけれど、ずっと一緒にいるからと、彼の目は語っていた。
さらさらと、風に揺れて流れる若葉色の木漏れ日が、まぶしい。
振り返らずに、静は歩みだした。
ここから始まる新たな道。
今はまだ、一人は寂しいと思ってしまうけれど、きっといつか、独りきりではないと、気づくだろう。
さようならは、言わない。
道は、まだ続いているから。