日曜の午後、喫茶店の窓から桜の並木道が見える。
先週まではまだかたかったつぼみも、ようやくふくらみはじめている。
わたしは小さくため息をこぼした。
待ち合わせている時間を、とうに回っている。いつものことだ。彼が時間通りにやってきたことはない。
コーヒーカップを指先ではじいた。
持ってきておいた雑誌をめくることもなく、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「・・・・・・」
そういえば。
以前読んだ雑誌のアンケートだったか心理ゲームだったかに、こんな質問があった。
『以下の中からあなたの好きな童話を選んでください』
十近くの童話のタイトルがずらりと並んでいて、知っているものもあったし、知らないものもあった。
悩んだ末、わたしが選んだのは一つだけ。
アンデルセンの人魚姫―――
童話に詳しいわけではないから、選んだものの、人魚姫の話も実際ちゃんと読んだことはなかった。
たしか、主人公の人魚姫が人間の王子に恋をしたものの、結局恋は実らず、泡になってしまった、というような内容だったと思う。
友人には「この悲恋好きめ〜!」と笑われた。
あながち間違いではない・・・かも。
けれど、人魚姫を選んだ理由は他のところにあった。
他の童話のヒロインと違って、人魚姫は自分の意志で道を選んでいる。そこに、ひかれた。
わたしが知る童話のヒロイン・・・シンデレラや白雪姫、眠りの森の美女など、どれもヒロインは自らの運命を自分で選ばず、訪れる不運や幸運をそのままに受け入れている。流されるままに。
でも、人魚姫は違う。
いつでも自分自身で選んでいた。
人間の王子に恋をし、その恋を成就させるために美声を代価に払って「足」を得た。しかも激痛を伴うことを覚悟の上で。そして、たった一人、何も持たず、陸に上がった。
王子の愛を得ることができなかった人魚姫は、最後の決断の時も、仲間の人魚の言葉に、耳を貸さなかった。
「このナイフで王子を刺しなさい。そうすればあなたは人魚に戻ることができるわ」
そして、人魚姫は・・・泡になり、海に還った。
悲恋の末の死に、美しさを感じたわけではない。
全てを覚悟の上で、自ら望む道を採った人魚姫。
それにこそ、憧れた。
自ら選んで歩いてゆける、その勇気に。
歩む先にあるものが幸福だけではないと知りながら、それでも前へ進んでいける、その潔く毅然とした足取りに。
風が、窓をたたく。
雲間から射し込む陽は弱々しく、地表の温度を上げることできない。
冷めたコーヒーよりも、梢を揺さぶる風は冷たい。
二年・・・。
二年続けてきた。今になってと、彼は言うかもしれない。
出逢ったのも、春先だった。
幾度か顔を合わせているうちに、お互い、どうしようもなく惹かれて、気がつけば、恋に落ちていた。
ありふれた恋の始まりは、けれど、わたしには束の間の「幸福」だけでしかなかった。
恋人同士だなんて言えない関係だと気がついたのは、二ヶ月が経った頃。
別れようと、何度も思った。
でも、「それでも彼が好きだ」という恋情が、理性を押し込めた。
・・・彼も、わたしを愛してくれている。・・・誰よりも、一番に・・・・・・
そう・・・思っていた。思っていたかった。
でも結局、わたしも「人魚姫」だった。
人魚姫が恋した王子には、妻となるべき女性がいたのだ。
人魚姫と出逢って、もしかして王子も、心が傾いていたかもしれない。それでも、王子は人魚姫の愛を受け容れなかった。婚約者に対して誠実であり続けた。
それゆえに、人魚姫は王子を愛し、そして諦められた。
だからこそ・・・・・・
「さようなら」 ―――その一言で、傾きかけていた王子の気持ちを、断ち切った。
―――そうだ。
いつだって決断を迫られ、そして告げるのは、女のほうからだ。
待ち合わせていた時間から三十分以上経って、ようやく彼は姿を現した。
住んでいる町から離れた場所でしか会えない、彼。
日曜の午後、彼はなんと言って家をでてきているのだろう。
「待たせたね」
すまなそうに言う彼に、わたしはかすかな笑みで応えた。
もう、そんな顔をさせたくないから・・・・・・
それでもやはり、すぐに言葉は出てこない。
二年という月日が長かったのか短かったのかは、もう今となってはわからない。
お互い深く惹かれあい、止めようもなく愛し合った。
彼がたとえ、わたしだけのものではなくても、かまわなかった。
心だけは、わたしだけのものだと思っていたから。
「―え? 何だって?」
彼が、険しい顔をして聞き返してきた。
ようやく告げた「さようなら」を。
「もう終わりにしましょう」
思ってもみなかった言葉がわたしの口から出て、彼はしばし押し黙ってしまった。
「ごめんなさい。急に聞こえるかもしれないわね?」
「いったい、何故」
「何故? 理由はありすぎるほどだと思うけれど・・・」
でも、それは本当の理由じゃない。
彼は怒りに顔色を変えた。俺に飽きたのかと責め、他に男ができたのかと詰問してくる。
わたしは静かに首を横に振る。
今でもあなたのことは・・・好きよ。けれど、それは言わない。
「もう、自由になりたいの。それだけよ。わたしはわたしの足で、選んだ道を歩いていきたい」
「わからない、君の言うことは」
「わからなくてもいいわ。でも、あなたも、あなたとともに歩んでいる家族のことを、振り返ってみて」
「・・・恨んでいるのか、俺のことを」
「今のままでいたら、きっと恨んでしまったでしょうね」
「・・・・・・」
しかし、承知の上でつきあっていたのではないか。彼の目がそれを語る。
「あなたは結局わたしのことを選んではくれなかった。そしてきっとこの先も。でもそれで、よかった」
彼が家族を捨ててわたしのもとにきてくれることを望んでいた頃も、たしかにあった。
「あなたと出逢って、一緒にいられた。それを後悔したりはしない。でもこのまま続けたら、きっと後悔ばかりが募る。もうお互いのエゴから手を放すべきなんだわ」
彼はわたしのもとではない別のところに、帰るべき場所を持っていた。でもその場所以外に都合のいい場所がほしかった。
わたしは、わたしこそが彼にとってかけがえのない存在だと思い込むことで、他の何もかもを否定していた。
自己満足とでも言うべき、それは、エゴだ。
そこに愛がなかったとは、いわない。
わたしは立ち上がり、そして手を差し出した。握手を求めたのだが、彼はもちろん応じない。
苦々しい顔を、わたしから背ける。
「・・・もう、何を言ってもだめなんだな」
わたしの頑なな性格を、彼は知っていてそう言う。
正直、もっと食い下がってくるかと思っていた。残念なのか、ほっとしたのか、どちらともに心が揺れている。
不思議ね。涙も出ない。
切なさに、こんなにも胸が痛むのに。
「あなたと一緒には、歩いていけない。でも、わたし達はもう、一人で歩き出せるはずだわ」
「・・・・・・」
空を掴んだだけの手は、冷たい。
「さようなら」
身を翻し、肩越しに別れを告げた。
彼は無言だった。
わたしがもう立ち止まらないことを、知って。
ふと立ち止まり、足元を見る。
人魚姫が、得た足。
痛みに叫ぶ声も、愛を告げる声も、失った。
あるのは選んだ道を、痛みとともに歩んでゆける、この足だけ。
桜の並木道を、一人、歩み始める。
今は、泣いてもいい。どんなに嘆いたって、かまわない。
時には、歩んできたその跡を、切なく見ることだってきっとある。
これから歩む道の先には、出逢うための道があり、別れ道もあるかもしれない。
それでも・・・・・・
いつかまた、わたしはきっと誰かを愛することができる。
―――「さようなら」
もう、振り返りはしない。
――今度こそ、わたし自身をも愛せる恋を、見つけられるだろう・・・。