静かすぎる午後、男はベランダに出、空を仰いだ。
「冥府の門、か」
自嘲するように吐き出したそれは、今の状況を示す言葉だった。
これが笑わずにいられるか。
自分自身をせせら笑い、侮蔑せずにはいられなかった。
男は大きく息を吸い込み、そして改めて辺りを見回してみる。
――あまりに、静かだ。
車の往来もなく、行き交う人々の姿もない。灰色の靄のかかった空には、飛び交う鳥の姿も見当たらない。
マンションのベランダから見えるのは、立ち並ぶビルと住宅だけだ。
海は近いが、ここから見えるほど近距離にあるわけではない。
もうあの海へ行くことはないだろう。
男は踵を返し、部屋に戻った。その足でキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中には、もう調理されることのない食材が、まだいくつか残っている。電力が途絶えていないことこそが、奇跡的なほどだ。
男が手に取ったのは、ミネラルウォーターだった。
ペットボトルを掴もうとして、失敗した。
蓋の閉まりきっていなかったペットボトルが床に落ち、水がこぼれた。
「チッ、くそっ」
忌々しげに、男はこぶしを握り、震える手を抑えた。
濡れた床を拭きもせずペットボトルを拾い上げた男は、居間のソファーに深く腰を沈め、僅かに残った水を飲み干した。
ふと、テーブルの上の雑誌に目が留まった。
何度も読み返された跡のある、古い雑誌だった。
「―――っ!」
怒りにまかせ、雑誌をテーブルから払い落とした。
わなわなと全身が震える。
抑えきれない感情が、男の心身を侵していく。
悲憤と絶望に、男は顔をうずめた。
床に落ちた雑誌。その雑誌社に入社して、五年が経った。
小規模経営の雑誌社だったが、それなりに多忙な仕事はやりがいがあり、三年目には記事の執筆を任されるようにもなった。
そして、去年のことだ。見開き二頁分の記事を執筆することになった。
社員数が少ないとはいえ、大抜擢には違いなかった。
新しい特集のページだっただけに、下調べも綿密にし、できうる限りの力をつくして起稿した。息巻きすぎていたかもしれないが、自賛してもよい出来だった。
「冥府の門」
それが、記事のタイトルだった。
窓の外に目を向け、そこに見える灰色の空を心無く見つめた。
「何、見てるの? ヨシキ?」
かすれた声が背後でし、はじかれたように振り返った。やせ衰えた女が、和室から顔を覗かせていた。
ヨシキと呼ばれた男は、腰を浮かせた。
「起きたりして、大丈夫なのか」
「・・・うん」
おぼつかない足取りで、女はヨシキの傍へ寄る。差し出された手を取ると、そのままソファーに倒れこんだ。
かつての彼女の面影を何一つ残していない、青白く血の気のない顔。長かった髪は惨めなほど抜け落ち、やせ細った肩にかかる。
「何か、見てたの?」
彼女は、ソファーにもたれかかり、呼吸を整えてからもう一度尋ねた。
「いや、別に」
答えてから、ヨシキは彼女の肩を抱き寄せた。
彼女は、枕もあがらないほどの状態だったのだ、つい先刻まで。
悲憤にざわめき立っていたヨシキの心が、次第に静まっていく。
快活だった彼女を思わせるのは、僅かに残った瞳の光だけだ。その瞳に、自分が映っている。何か言いたげに、じっと、こちらを見つめている。
なんだ? と問うと、彼女は笑んだ。気恥ずかしそうに瞼をしばたかせる。
「・・・あのね、わたしね、嬉しいなって」
「嬉しい?」
こんな状況にあってか? ヨシキは怪訝そうに訊く。
「うん。言ったでしょう? 一緒にいたいって」
「・・・・・・」
「ヨシキと、一緒にいられて、嬉しい」
途切れ途切れに言葉を繋げる。一言喋るのも、辛いのだろう。
その一言を伝えたかったために起き上がってきたのだろう彼女が、切ないほどに愛しかった。
「・・・そうだな、俺もだ」
一緒にいたい。
その言葉は、一年前に、もう告げられていた。
完成した記事を、彼女は盗み読んでいた。
雑誌に掲載されてから読ませようと思っていたヨシキだったが、所詮彼女に隠し事の類はできない。
「これって、ヨシキの初記事?」
「大きいのはな。コラム程度のものは今までも書いてきてる。お前も読んだろ?」
「あ、そっか。でも、これはまた大作で、しかも何やらお堅い内容ねぇ」
「そういう特集なんだから、当然だろう」
「ふぅん。まじめな社会派雑誌だもんね、意外に」
「意外は余計だ」
返せ、といっても彼女は原稿を手放さなかった。そして、いろいろと質問を浴びせてきた。
「詳しく知りたかったら、本棚にあるあの辺りの本読めばわかる。俺らの住んでる町も、無関係じゃないぞ?」
「えー? まぁ、そういえば近くにあるもんね」
彼女の反応は、ごく当たり前のものだった。その程度の認識しかないのは、むろん彼女のせいではない。
誰だって、知ろうとしなければ、目前の脅威を脅威とも思わないだろう。
「でも・・・」
彼女は小さく笑った。
笑いながら、少しだけ神妙な顔して、言ったのだ。
「でももし、こういう状況になっちゃったら、わたしは、ヨシキの傍にいたいな」
「は?」
「ヨシキと一緒にいたい」
「何言ってんの。こういう状況に、本当になったら、それどころじゃないだろ」
「だからこそじゃない。それともヨシキは嫌なわけ?」
「嫌とは言ってないだろ」
彼女は満面の笑みで答えた。
「素直じゃないなぁ、ヨシキは。一緒にいたいって、最初から言えばいいのに」
「勝手に言ってろ」
冷たくあしらい、ようやく彼女の手から原稿を取り上げた。
そして、それは起こった。
×月××日、午前×時×分。
数ある原子力発電所の一つが、異常を知らせる警告音のその五秒後、大爆発を起こした。
かつてのチェルノブイリでの惨事が、よもや日本で繰り返されるとは。
誰もがそう思ったその出来事は、事故後一時間たって、ようやくテレビ放映された。避難勧告という形で。
避難など、もう、しようがなかった。
事故が起きた原発周辺住民は、放射能にさらされ、間もなく全滅した。一瞬のうちに廃墟と化した町を報道する無謀な人間はいなかった。たとえ事故現場を報道しようとしても、カメラは放射能のために使い物にならないだろう。
放射能は、見えざる火となって人体を焼き尽くしてしまう。
致死の放射能は、600レントゲン(放射線の照射線量の単位)だといわれる。
かのチェルノブイリでは、一時間当たり、150レントゲンが周辺を侵していた。四時間もいれば、間違いなく死に至る。
前代未聞の大事故が、この日本でもついに起こったのだ。天災ではなく、紛れもない人災として。
原発の脅威を知りながら、知らぬふりを決め込んでいた罰のように。
原発工場周辺約十キロ四方は、風向きにもよるが、わずか一時間で500から1000レム(放射線から人体や生物に与える影響を表す単位)の汚染地域に入る。この数値は、汚染地域の死滅を示す。
現場から離れれば、汚染の度合いは200レム、100レムと下がるが、それで死に至る可能性が低くなるわけではない。遅かれ早かれ、放射能は風に乗り、日本中を汚染する。三日もあれば、日本はやすやすと放射能に汚染されてしまうのだ。
これは、想像に易い人的災害だった。
「冥府の門」
そうタイトルをうった記事の中で、ヨシキは「いずれその時がくる」と予言していた。
しかし、こうも早く「その時」が訪れるとは、思わなかった。
ヨシキにとっても、原発の事故は「未来の災害」でしかなかったのだ。
異常な爆音を聞いた直後、慌ててテレビをつけたヨシキだったが、状況を知りえるまでに一時間という時間を要した。
訪れていた彼女も不安げな様子でテレビ画像を見、そして事実の報道がなされた後、青ざめ、ヨシキの腕を引っ張り、「逃げよう」と叫んだ。
ヨシキは愕然とテレビを見ていた。事故現場は映らない。キャスターの、動揺を隠しきれない表情だけが、事故の事実を知らしめていた。
「逃げようよ、ヨシキ! どこか、早く!」
逃げる?
皮肉な笑いが、ヨシキの口元を歪ませた。
去年書いた記事が、克明に脳裏に浮かぶ。
「ヨシキ、ねぇったら!」
彼女は半狂乱だった。とにかくヨシキを連れ、ここから逃げ出そうと必死だった。
そのうちに、気が付いた。そして恐怖に震える声を抑えもせず、ヨシキに尋ねた。
もう手遅れなのか、と。
ヨシキは頷かず、ただ彼女を見つめ返した。
彼女の中の何かが、ぷつりと音をたててこと切れた。
彼女は失神し、その場に倒れた。
数時間後、彼女は狂気を抱え込んだまま、目を覚ました。
事実を受け入れはしたが、笑いだしたかと思うと、怒りだし、泣きだして、喚きちらした。
息が切れ、再び昏倒した彼女を、ヨシキはただ見守るだけだった。
次に彼女が目を覚ましたのは、翌日になってからだった。
――生きているのが、不思議ね。
そう言って、彼女は力なく笑った。
落ち着きを取り戻したものの、全身を病魔が侵しはじめ、起き上がることすらままならなくなっていた。
「ヨシキは、大丈夫?」
目を合わせられず、ヨシキは顔を背けた。
人の心配をしている場合か。
そう言いかけた言葉が、喉につまる。
「ね、ヨシキ?」
彼女は、上半身を起こした。
咳き込むと、手のひらに血が飛び散る。吐血で、布団はとうに汚れていた。
「あと、どれくらい・・・かな?」
ヨシキの手を掴もうとし、やめた。血で汚れていることを、気にしたのだ。
「あとどれくらい、・・・ヨシキと、いられる、かな」
「・・・っ!」
堪らなくなって、ヨシキは彼女を強く抱きしめた。
全身が、戦慄く。
恐ろしくて、気が狂いそうだった。
死ぬ? 彼女が?
そのことが、恐ろしかった。
「・・・ご・・・めん・・・っ」
言葉が、他に出なかった。ただ、「ごめん」と繰り返した。
とめどなく涙が流れ、嗚咽を堪えるのが、精一杯だった。
「ヨシ・・・キ・・・?」
彼女は戸惑いがちに、ヨシキの背に腕を回した。
「ヨシキ、どうして謝るの? ヨシキのせいじゃ、ないのに」
そう、だ。
自分のせいではない、この事故は。
しかし、責任を負わずにいられるものではない。
今さらどうしようもないこの現実を、ヨシキは心底慄き、そして自身を激しく呪わずにはいられなかった。
彼女が、ふと、呟いた。
虚ろな目は、窓の外に向けられている。
「夕焼け・・・・・・キレイ、ね」
彼女が見ているそれが本物の夕日ではなく、記憶の中にある夕日であることを察し、ヨシキは「そうだな」と答えた。
「また、見たい・・・な」
二人でよく行った海岸通。そこから見る夕焼けが、彼女は好きだった。
今あの海岸は、どのような惨状を晒しているのだろう。
原子力発電所が数キロ離れた先にあり、そこが爆発を起こしたのだ。
事故から、数日が経った今も、あの海岸は地獄の様相をとどめていることだろう。
だが、思い出の中の景色は、美しいままだ。
二人で歩いた砂浜も、気に入りのレストランも、立ち寄った雑貨店も、変わらずそこにある。
「また行こう、一緒に」
ヨシキは、彼女を抱き寄せた。
「うん」
彼女は笑った。
それはヨシキが知る、屈託のない、無邪気な彼女の笑みだった。
「うん、・・・一緒・・・に」
安らかに笑んで、そして彼女は目を閉じた。
もう二度と開かれることのない瞼を指先で軽く触れ、ヨシキは息絶えた彼女の唇に、そっと口づけた。
灰色の空の向こう、開かれた冥府の門を先にくぐり、彼女は待っている。
やがて、ヨシキもその門をくぐり、彼女と歩んでいく。
冥府の王が待つ国へ。