あの雨の日と、・・・あの雨の港で出逢った時と同じだ。
明け方だったか、日暮れ時だったか、季節も何も憶えていない。
ただ――、雨の冷たさだけは、記憶に留まっている。
今、あの雨の日と同じように、ユエル様は意識を失い、倒れている。
柳眉をしかめ、長い睫が僅かに震えている。血の気を失った唇の隙間から零れ出る吐息は、弱々しくか細いものだった。
救いを求めているかのように、あるいは拒んでいるかのように握られたこぶしに力はなく、けれど、青い血管が手の甲に濃く浮き上がっていた。
わたしの声は、悲鳴に近かった。
「ユエル様! ユエル様っ!!」
ユエル様の下でもがきつつ、ユエル様の肩や背を叩いた。
苦しげに寄せられた柳眉は時折動くのに、目が開く気配は一向に見られない。美しい湖水色をした緑の眸を、わたしに向けてはくれない。
白皙、と称されるほどの美貌は、薄氷が張ったように、蒼い。
「ユエル様、お願い、目を・・・目を開けてくださいっ!」
わたしの手が、空しくユエル様の肩を掴む。震えだして、力が入らない。背筋が冷たくなっていくのは、床が冷たいからだけじゃない。
どうしよう・・・! いったいどうしたらいいの・・・っ!?
成す術もなく床に倒れこんで、わたしは、ユエル様を助け起こすことすらできない。
あの遠い日・・・ユエル様と出逢ったあの雨の日のことはよく憶えてない。だけど、港を行き交っていた見知らぬ人達に助けを求めたことは、なんとなく憶えている。そうして、奉公先の屋敷まで運んでもらった。
・・・わたし一人では、ユエル様を助けられなかった。他人の手を借りねば、屋敷に運ぶこともできなかった。
今もまた、わたしはユエル様を助けられないでいる。ユエル様に何が起こったのか、それすら知らずにいる。
なんて・・・なんて無力なんだろう、わたしは・・・!
昔も、今も・・・!
「・・・・・・っ」
己の非力さが空しくて、泣きそうになった。けれど口の端をきゅっと結んで、堪えた。
泣いている場合じゃないよ、わたし!
己の非力さを嘆くより先に、今はユエル様を、なんとかしなくちゃ・・・!
でも、どうしよう!? ユエル様の下敷きになったままじゃ、「なんとか」しようにも、「なにも」できない。
ユエル様は、わたしの左肩に額を乗せている。
やわらかな銀の髪が、わたしの頬に、鼻先に、唇に触れている。
さっきまでドライヤーの熱を残して温かかった銀の髪は、霧雨のように冷たくなってる。
「んっ、ん・・・っ、くぅぅっ」
ユエル様の身体をどかすだけなら、きっと、できる。手足に力をこめて思いきり伸ばせば、ユエル様の下から這い出ることはできるだろう。
だけどそんなことをしてしまったら、ユエル様は床に叩きつけられてしまう。冷たい床にうつ伏せになってしまう。・・・そんなこと、できるはずがない。
せめて仰向けにできれば、介抱のしようがあるのに。
・・・ああでも、「介抱」って、いったい何をどうすればいいの?
生気を飲ませればいいのかもしれないけど、昏倒しているユエル様に、どう飲ませればいい? わたしの生気なんていくらでも飲んでもらって構わないのに。
・・・だけど。
苦しげに眉をしかめているユエル様の横顔を見、不意に気がついた。
ユエル様はわたしの生気を一度たりとも飲んだことがない。その必要がなかったからとはいえ・・・・・・もしかして、主たるユエル様は、「眷族」であるわたしの生気は飲めないの?
だとしたら・・・だとしたら、わたしはいったい何のための「眷族」なの?
こんなにも役に立たないのに・・・! 今もこうして、ユエル様を助け起こすことすらできないでいるのに・・・!
「ユエル様っ」
半泣きになりながら、わたしはユエル様の身体を起そうと、再び全身に力を込めた。
肘や肩甲骨や腰骨が硬い床にあたって、痛かった。けど、そんな痛みより、ユエル様を助け起せないもどかしさのほうが、辛かった。
――そうだ、イレクくん! アリアさんとイスラさんは出かけてしまったけれど、イレクくんは今この屋敷にいる。大声を出せば、二階の北端の部屋にいるイレクくんの耳に届くかもしれない。
そんなことを頭の片隅で思いついた、その時だった。
「あ〜ぁ、やれやれだぜ〜」
洗面所の戸の向こうから気の抜けた声が聞こえ、直後、引き戸が勢いよく開けられた。
「たいして美味くもない生気ばっか・・・・・・って、・・・あ」
洗面所の戸を開けたのは、イスラさんだった。
イスラさんは重なり合って床に倒れているわたしとユエル様を見つけ、一瞬、硬直した。かと思うと、バツの悪そうな顔をし、そのまま後退って、そぅっと、戸を閉めようとする。
「イッ、イスラさんっ! 待ってっ!!」
わたしは声を絞り出し、イスラさんを呼び止めた。
「イスラさんっ、行かないでっ! 助けてくださいっ! ユエル様が・・・ユエル様が・・・っ!!」
わたしの必死の叫びに、イスラさんは非常事態であることを察してくれたようだ。
「ああ、ごめん。つい、勘違いしちゃって」
「い、え、・・・あの、か、勘違いって・・・どんな勘違いを・・・っ」
ユエル様の身体の下でもがきつつ、イスラさんに訊き返した。悠長なことを言ってる場合じゃないのに、暢気顔のイスラさんにつられてしまった。
「こんなところで大胆な、というか、せっかちなとか、まぁ、そんな具合に」
眉尻をさげて笑いながら、イスラさんはユエル様の様子を覗き見る。そして、おそらくはユエル様に、「それどころじゃないらしいな?」と声をかけた。
「なっ、何のことですか・・・? いえ、それより、ユエル様を・・・っ」
「あ、そうだね。・・・はいよっと。ミズカちゃん、ほら」
イスラさんはわたしの訴えを聞き入れ、面倒くさげに、ユエル様の襟首を掴んで持ち上げた。
「苦しかったでしょ? 大丈夫、ミズカちゃん?」
「わたしは大丈夫です。それよりユエル様が・・・っ」
イスラさんに掴み上げられ、そのまま床に転がされても、ユエル様は意識を取り戻さない。低い呻き声が漏れ、蒼ざめた顔が僅かに歪んだ。
「ユエル様、突然倒れて・・・っ、呼んでも返事をしてくれなくて、目を覚ましてくれなくて、わたし・・・わたしっ、どうしたらいいか・・・っ」
ユエル様の腕を掴む手が、わなわなと震える。
「う〜ん、まぁ、渇いてはいるみたいだけど。・・・そんな心配そうな顔しないで、ミズカちゃん」
イスラさんはユエル様の額に手をあて、それから、軽くペチペチと叩く。そうしてからわたしの方に再び顔を向け、笑った。
「でもっ」
「たぶんまだ大丈夫だよ。あんまり頻繁にあることじゃないけど、『生殖者』にはつきものの発作だからね、これ」
「え・・・」
「まぁ、こんなところに放っておくのもなんだし。仕方ないから寝室まで運んでやっか」
やれやれと呟いてからイスラさんは腰を伸ばし、立ち上がった。
イスラさんは指を鳴らし、風を起こしてユエル様の身体を浮き上がらせた。
風が、ユエル様の身体を冷やしてしまわないか心配だったけれど、それは口にしなかった。
「お願いします、イスラさん」
ともかく、ユエル様を床に横たわらせたままでいられずにすんだことに、安堵した。
「どういたしまして。ミズカちゃんのお願いとあらば、なんだって聞くよ?」
「・・・・・・・・・」
どう返答してよいものやら分からず、口ごもってしまった。
イスラさんはユエル様の容態を案ずる様子もなく(もちろん、内心では心配してくれてるのかもしれないけど)、にこやかな顔を崩さない。そうやって、わたしを不安がらせないよう気遣ってくれているのかもしれない。
「それに、こいつに貸しを作っておくのも、悪くない」
冗談めかして、イスラさんはにやりと笑った。
イスラさんの力を借りて、二階の寝室にユエル様を運び、どうにか人心地はついた。といったって、不安が拭いきれたわけじゃない。
ユエル様は一向に目覚める気配を見せない。息遣いは多少落ち着いたように思えるけど、顔色は蒼いというよりもはや白く、唇も血の気がない。
「そんなに心配しなくても、一晩寝てれば回復するって」
イスラさんはわたしのために白湯を持ってきてくれた。「まぁ、ちょっと落ち着いて」と言うけれど、とても落ち着いてはいられない。
耐熱性のグラスからほのかに立ちのぼる白い湯気の向こう、ユエル様は尋常ならざる様子で横たわっている。
「こんな風に昏倒するなんて、今までなかったんです。渇ききってる様子だってなくて!」
「・・・今まで、一度も?」
イスラさんはわたしを椅子に座らせ、それから念を押すかのように、訊き返してきた。
「今まで一度もこんな風に倒れることはなかった?」
「・・・あ、いえ、初めて出逢った時には、こんな風に気を失っていて・・・」
「ああ、そうだってね。聞いたよ、それ、ユエルから」
「でもそれ以後はこんなこと一度だってありませんでした。渇ききってふらつくのはいつだってわたしの方で!」
「そうかぁ。そんな風にミズカちゃんにしわ寄せがいっちゃったんだね。いや、ユエルのことだから、まぁ、それは関係ないかもしれないけど」
「・・・しわ寄せって・・・」
イスラさんは軽く息をついて、そしてわたしの頭に手をおいた。わたしを宥めるように優しく笑って。
「さっきも言ったけどね、『生殖者』に限定された発作みたいなもんなんだよ、この症状は」
「・・・・・・発作?」
「そ。軽重はあるけど、急にくるんだよ、こういう発作的なもんが」
イスラさんは顎に手を当て、顔をしかめる。どう言えばいいかなぁと思案に暮れつつも、わたしに解かりやすいよう、説明してくれた。
「『生殖者』はね、生殖するための『生命』を溜め込んでるんだよ、体内に。その過分な『生命』が時々・・・う〜ん、なんて言ったらいいのかなぁ、暴れる? っていうのかな? 制御できなくなるんだよね」
「・・・・・・」
「あ〜、そうだなぁ。例えるなら、人間の妊婦における『つわり』みたいなもんかな」
わたしは目を瞬かせ、イスラさんを見つめた。
「つわり、・・・ですか?」
「うん、まぁ、そんなようなもん。実際に吐き気がおこるわけじゃないけど、急激に渇きが襲ったり、発熱したり、脱力して立っていられなくなったりするわけ。一種の警告みたいなもんだね」
「そ、んな・・・。初耳です、そんなの・・・」
「そう度々あることじゃないからね。だからユエルも言わなかったんじゃない? 無用な心配をかけることないだろうってさ」
「・・・・・・」
胸に、重い痛みが走った。
――そうなのだろう。ユエル様はわたしを気遣って、隠していたのに違いない。
わたしには何もできないから。わたしには・・・どうすることもできないから。
「それに、一時的なもんだからね。手っ取り早く生気を飲んで渇きを癒しちまえばすぐ回復するし。っていうか、そもそも『生命』を解放しちまえばそれで済むんだけどなぁ。長く溜め込みすぎなんだよ、ユエルは」
呆れた風に、イスラさんはため息をついた。
やれやれと肩を落とすのはこれで何度目だと、ユエル様に文句をつけんばかりに。
「・・・・・・生気を飲んだら、治るんですね?」
胸の痛みを押しやり、イスラさんに尋ねた。
「ん? ああ、ま、そうだな」
「わたしのでも、構わないんですか?」
「・・・・・・いや、それは」
イスラさんは言いよどんだ。
やっぱり、「主」は「眷族」の生気を飲めないんだ。そう思ったのに、それはあっさり、否定された。
「そりゃまぁ、ミズカちゃんの生気でもいいとは思うけど・・・」
イスラさんは顎を掻き、ユエル様に目をやった。
「ユエルがそれを望むとは思えないね。そういうとこ、ユエルは潔癖だからなぁ」
「でもっ」
「・・・いいよ、俺のをやるから。後で知ったらめちゃ嫌な顔するだろうけど」
「イスラさん、でも、そんな・・・っ」
わたしが遠慮すべきことではないはずなのに、一瞬ためらって、申し出を断ってしまいそうになった。
イスラさんはニカッと歯を見せて、明るく笑った。
「いいっていいって。俺今飲んできたばっかりだし。それにユエルの嫌がる顔見るのはけっこう愉しいし」
わたしを気遣ってそう言ってくれたのだとは思う。・・・本音も、半分くらいはあったろうけど。
あ、でも意識を失ってるのに、どうやって生気を飲ませるのだろう。
「ん〜、ユエルも黙って寝てりゃ、可愛いんだけどね。眠れる森の美女ならぬ美男だよね。・・・あ、今のユエルには内緒ね、ミズカちゃん。俺、まだ命は惜しいし」
イスラさんはユエル様の手を取り、軽いジョークを口にした。
本当にイスラさんは、場の空気を和らげるのが巧みだ。
思わず、口元がほころぶ。
「はい、黙ってます。わたしもイスラさんには消えてほしくないですから」
そう言って、笑って返すこともできた。
イスラさんは、ユエル様の手を自分のうなじにあてた。ぐっと力をこめる。
イスラさんは僅かに眉をしかめ、しばらくそのままじっとしていた。
生気をユエル様に流し込んでいるのだろう。その間は、一言も発せず、イスラさんの眉間に僅かな力みが見られた。
たぶん、時間にしてほんの一分か二分、その程度だったろう。
ひどく長く感じたけれど、次第にユエル様の唇に紅の色が戻りはじめ、息も静かで安らいだものになっていった。
「もう、大丈夫」
と、イスラさんが言い、わたしは安堵のため息をこぼした。
「ありがとうございます。イスラさん、・・・わたし・・・」
「不安だったよね、ミズカちゃん。・・・もう大丈夫だから」
そう言って、イスラさんはわたしの髪をくしゃくしゃと掻きやる。
大丈夫、大丈夫と、繰り返して。
「・・・・・・は、い・・・」
俯いて、涙を堪えた。
幼い子供に戻った気分だった。
こんな風に優しく慰められて、ほろりとこないほうが不自然だ。それくらい自然に、イスラさんは優しい気持ちでわたしに接してくれる。
イスラさんだけじゃない。アリアさんもイレクくんも、出逢って間もないわたしに対し、とても親身で、何気ない顔をして、労わってくれる。
かつて「人間」だった頃、そんな風に接せられたことのなかったわたしは、そうした優しさに慣れなくて、どうしていいのか、つい戸惑ってしまう。
「まったく、ユエルのやつも不甲斐ない。ミズカちゃんに心配ばっかかけて」
イスラさんは、「ねぇ?」と同意を求めてくる。わたしは曖昧に笑ってから、すっかり冷めてしまった白湯を飲んで返答をぼかした。
そんなことはないです。ユエル様は・・・そりゃぁ時々はからかって、冗談半分に意地悪を言うこともあるけれど、本当はとても優しいんです。と、返したかったのだけど、気恥ずかしくなってしまった。
それに、心配をかけるのはいつだってわたしの方だ。
「だいたいもうちょっと焦るべきなんだよ、ユエルは。まぁまだ期間は残ってそうだけど、ギリギリには違いないんだし」
――あ、また『期間』、だ。
なんだろう・・・。聞き流せない。
「・・・あ、の、それって、眷族を持てる期間・・・ということなんですよね?」
「そうそう。ユエルの生殖期間、あとどんくらい猶予あるか知らねーけど、期限差し迫ってんだよな? だからこんな風に倒れもするんだし。とっとと解放してやんないと」
「・・・・・・」
何故か、胸が騒いだ。
だって、「差し迫ってる」、だなんて? 生殖の期間を過ぎてしまったら、何か、良くないことが起こるの?
イスラさんは腕を組み、気難しげな顔をして、今は穏やかな寝息をたてて眠っているユエル様を睨みつけた。
「期限切れになって消えちまうなんて、赦されねーぞ、おい、ユエル?」
「――・・・え・・・?」
今、イスラさん、なんて・・・?
身体が、凍結したように、固まった。
「種を残さず・・・っていうか、溜まった『生命』を解放しないまま期限切れになったら、それで終わり、だろ? そうなったらミズカちゃんも一蓮托生なわけで」
な、に・・・? イスラさん、何を言ってるの・・・?
「イスラさん・・・・・・期限って・・・・・・期限が切れたら終わりって・・・、それって・・・・・・死ぬってこと、ですか?」
わたしの声が、遠い。
わたし自身が喋っているはずなのに、まるで他人の声を聞いているみたいに、遠い。
「ユエルだってそれは承知してるだろうに・・・って、え? ・・・ミズカちゃんっ!?」
「――・・・っ」
わたしの手の中にあったグラスが床に落ち、砕け、派手な音を響かせた。
膝は濡れ、生温かい白湯がぽたぽたと滴り落ちる。
イスラさんは片手で口を塞いだ。けれど、すでに遅しと、後悔に顔を歪めた。
わたしは鈍器で殴られたかのような衝撃に打たれ、愕然とした。
「ユエ・・・ル様が、消えて・・・死・・・・・・で、しまうんです、か・・・?」
「・・・ミズカちゃん・・・」
「嘘、でしょう? 死んでしまうなんて、そんな、・・・そんなっ!」
「・・・・・・」
俺が言うべきことじゃなかった。イスラさんはそう言って、謝った。まさか聞かされていなかったとは、と、低く唸るように呟いた。
「う、そ・・・・・・そんな、そんな・・・っ」
イスラさんは否定しない。苦しげに眉をひそめ、わたしから顔を背ける。
「・・・そ・・・んな・・・っ」
顔を俯かせ、震える手で自分自身を抱きしめた。
全身が戦慄き、悲鳴を上げている。
嘘だと言ってと、わたしの心は血飛沫を上げ、不乱に叫んでいる。
ユエル様・・・! ユエル様、ユエル様・・・っ!!
ガラス窓の向こう、闇は深く、冷酷な夜風が梢を切りつけるようにして渡り、針葉樹の森をひしめかせている。
昏々と眠り続けているユエル様のように、月のない幽寂な夜は、まだ明けそうもなかった。