心が、重い。
ユエル様の、優美で憂いのある微笑にいつも胸が高鳴っていた。
だけど今胸にかかっている靄のように暗く重たい影は、いったい何なのだろう・・・?
――わたしは、その感情の名を知らなかった。
知るべきではないと、思っていた。
夜闇の中、聴こえてくるのは森を渡る風の音。
日付が変わる時刻まではまだ猶予があるけれど、ひんやりとした空気は夜の深さをいやおうなしに体感させる。
聴こえてくる葉擦れの音が心をざわつかせ、落ち着かせない。
いつもは気にしない些細な物音までが、ひどく耳に障る。
なんとはなしに、窓に目をやった。夜の闇を背面にした窓ガラスに、わたしが映る。
やや疲れ気味のわたしの顔にかわり映えはないのだけど、何か奇妙な違和感を覚えた。
なんだろう。何か忘れているような・・・?
「・・・・・・・・・?」
首を捻り、見たところでなんら嬉しくもないわたし自身の顔を、改めて注視した。
「・・・あっ」
瞠目し、右の耳たぶを掴んだ。
――アリアさんからいただいたイヤリングが無くなってる!
左耳にはある。
細い銀の鎖の先で、水色のビーズが照明の光をうけて揺れる。白やピンク、緑から紫へと、光の当たり具合によって、くすんだ水色のビーズは様々な色をみせる、ハートの形をしたクリスタル・ガラスのイヤリング。
買っていただいたばかりなのに、もう失くしてしまったなんて、・・・どうしよう!
体中をはたいて、衣服のどこかに引っかかってないかを確認したみた。着替えはまだ済ませてなかったからワンピースのままで、そこに薄手のカーディガンを羽織っている。どこにも、イヤリングはひっかかってなかった。
いつどこで落としたんだろう・・・!
まず、今現在自分が居る寝室をくまなく探した。ベッド周りを這いつくばって探し、掛け布団もひっぺがした。箪笥や机や椅子、それらの周りを徹底的に探してみたのだけど、見つからない。
普段イヤリングなんてつけないから、落としてしまったことに、全然気づかなかった。
帰宅したときには間違いなく、両耳にイヤリングが下がっている感触はあった。重たいってすら思っていたのに・・・!
寝室を飛び出した。
ともかく、廊下、階段、玄関からエントランスホール、居間、キッチンと、今日歩いた場所を探そう。
廊下と階段の床を端々まで確認しながら、その足で居間へと向かった。
無駄に広い、二十畳はゆうにあるだろう居間での探索は酷く骨折りだった。
入り口付近から座ったソファーの周りを念入りに探したのだけど、見つからない。
スワロ・・・ええっと、なんといったかな・・・たしか、スワロフスキーだったかな? いただいたイヤリングはガラス製品だったから、落とした拍子に割れてしまってるかもしれない。
「・・・ど、どうしよう〜っ」
うっかりにも程があるよ、わたし!
いただいたその日のうちに失くしてしまうなんて、最低だ。
せっかくアリアさんが選んで、買ってくれたのに!
「・・・っ」
締めつけられるような痛みに耐えかねて、わたしは胸元を掴んだ。それで痛みが治まるわけもないのに、こぶしに力が入る。
やっぱり、わたしには不相応な品だったんだ。
探しても探しても見つからない焦燥感も手伝って、気分は沈下していくばかりだった。
あんまりにも情けなくて、泣けそう・・・。
「だめだめっ! 泣いてる場合じゃない!」
ひとりごちて、わたしは頭を振った。
たとえ、わたしには不似合いで不釣合いな品だったにしろ、失くしてしまったいい訳にはならない。
何が何でも見つけなくちゃ!
勢いづけて、居間を出る。とりあえずエントランスホールを一通り見て、今度はキッチンへと向かった。
キッチンの照明を全部点け、足元に用心しつつ、床を見回した。
「・・・ないなぁ・・・」
水周りを一通り確認してから、次はテーブルの上を探った。
テーブルの上には銀製のトレイと、洗って布のカバーを被せられたポット、それから紅茶の缶が三つとお菓子受けの陶器の皿と、畳まれたランチョンマットがあるだけ。それらを全部どかしてみたところで、イヤリングは見つからなかった。
それからテーブルの下にもぐりこんだ。
けれど、やっぱりイヤリングは見つからない。
這いつくばった姿勢のまま、わたしはがっくりとうな垂れた。
頭の中で、いろんなことが渦巻き、わたし自身を責め立てる。
引っ込めた涙が出かかって、目は熱いし、喉まで痛い。
見つからないままだったら、どうしよう。
もし見つかったとして、壊れていたら、割れてしまっていたら、どうしよう。
黙っているわけにもいかないから、アリアさんに、素直に謝罪するつもりはある。
それが嫌なんじゃ・・・怖いんじゃない。
――だって・・・。
アリアさんは怒らないだろう。きっと、「気にしないで」と笑ってくれる。
それが分かるから、なおさらに困ってしまう。悲しくなる。辛くなる。
泣きそうになり、涙を堪えようと、ぎゅっと目を閉じた。――それと、同時だった。
「――ミズカ?」
聞きなじみのある、だけど何度聞いても耳慣れない、艶っぽく甘い声音。それがいきなり、降ってきた。背後の、高いところから。
「ミズカ、いったいこんなところで何を?」
わたしは条件反射的に、その声に応えようと―――
「・・・っ!」
立ち上がろうと手を床から離し、腰を伸ばした。そして思いきり、ぶつけてしまったのだ。それはもう勢いよく。
「・・・っぁ、たぁ」
激しい音をたてたわたしの頭に、当然の如く、激痛が走る。
「〜〜っ」
頭を抱え、うずくまった。
後頭部、直撃。テーブルが一瞬浮き上がったくらいの衝撃だった。
あまりに痛くて、声も出ない。
「・・・大丈夫、ミズカ?」
後頭部直撃の原因をつくった声の主が、テーブルの下を覗き込み、わたしの様子を窺ってくる。
「・・・ぅ、・・・っ」
顔を上げたと同時に、ユエル様ともろに目が合ってしまった。
新緑を映した湖水のような双眸が、チカチカしてるわたしの目を、さらに眩ませる。
頭だけじゃなく心臓まで痛くなって、収拾がつかない。
「すごい音がしたけど」
ユエル様は笑いを含んだ顔をしながら、わたしに手を差し伸べてくれた。その手を取らず、わたしは片手で頭をさすりつつ、テーブルの下から這って出、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。
白いワンピースのところどころに汚れがついてしまったことに気づき、軽く埃を払った。
「も、もう、驚かさないでくださいよ、ユエル様っ」
照れ隠しとか、動揺とか、出かかっていた涙を(痛みのあまりちょっと目頭に浮かんでしまったけど)ごまかすため、可愛げななく、文句をつけてしまった。
「脳天、割れるところでしたよ、ほんとにもうっ」
「それは悪かったけど」
ユエル様はため息をつきつつ、差し出した手を引っ込めた。ユエル様の寂しげな翳のある深い緑の瞳が、わたしを見つめている。
「頭、割れてはいなさそうだ。とりあえずは無事で何より」
「・・・・・・」
無事じゃないですよ、ユエル様っ。
と、言い返しそうになった。寸前で堪えられたけど、出かかった声が喉に詰まり、息苦しい。
優艶な微笑を向けられて、頭だけじゃなく、全身が熱く痺れる。
――それはまるで、軋むかのような痛みだった。
不老で長寿なわたし達だけど、怪我をすれば当然痛いし、血も出れば、たんこぶだってできる。ただ人間に比べれば治りが早く、めったなことでは死に至らない。
以前、ユエル様に訊いた事があった。
「わたし達の致命傷って、なんでしょう?」、と。
ユエル様は僅かの間を置いてから、教えてくれた。
「そうだね・・・、例えば首を斬られれば『死ぬ』。確実にね。それと、銃で脳や心臓を撃ち抜かれたり、大量に出血したままの状態を放置しておけば、さすがに『生きて』はいられない」
まるで他人事のように、ユエル様は語る。
「だが、『死ぬ』時の様子が人間とは違う。私達は、存在そのものが消えてしまう。異界に吸い込まれるようにして、『消える』。あとかたもなく、ね」
ユエル様の口調は淡々としていた。表情は少し険しかった。
「み、見たこと、あるんですか、ユエル様?」
恐々ながらも、尋ねてみた。それは確認に近かった。
答えは予想通り、「ある」だった。
塵となって消える、その例えの通りだったという。
言ってから、ユエル様は少しばかり後悔したような顔をしていた。
「別に、人間に狩られたわけではないよ、ミズカ」
わたしはきっと、不安に蒼ざめた顔をしていたんだろう。わたしの心緒を気遣って、ユエル様は言葉を足した。怖がらせてしまったかな、と、おどけた仕草をして。
ユエル様は、気まぐれなところも多分にあるけれど、そうした気遣いをさりげなくできる人だ。
話を強引にそらしたりごまかしたりするのが上手なのと同じくらいに。
出逢った頃から、そうだった。
ユエル様はわたしに保護と安全を与えてくれ、不安を拭ってくれた。そして、待っていてくれた。
いつもわたしの傍で、微笑んで―――
そして今も、ユエル様はわたしの目の前にいる。
「ところでミズカ?」
ユエル様はしごく当然に、訊いてきた。
「今時分、こんなところで何を?」
「・・・あ」
失せ物を探しているのだと即答できず、言いよどんでしまった。
「え、と・・・、実は」
けれど、黙ってままごまかしたり隠したりするのは、良くない。というより、すべきじゃない。
そう思い至って、顔を上げた。
ユエル様が思いのほか長身であることや、わたしの背が低いということも手伝って、ユエル様の顔を見るためには顎を上げ、仰ぎ見るような姿勢になる。そのせいで、上目遣いになってしまう。
この時になって、わたしはようやく、白緑色の夜着の上に黒サテンのガウンを羽織っているユエル様の姿を見、そして銀の髪がしっとりと濡れていることに気がついた。
「ユエル様、また!」
「ん?」
「また髪を乾かさないままで!」
「・・・ああ」
ユエル様は髪をつまみ、「そのうち乾くさ」と、面倒くさがりらしいことを言う。
髪はちゃんと乾かしてから
「せっかくのキレイな髪が傷んだらどうするんですか」
と、容姿端麗を誇るユエル様の心理をついて窘めてみたのだけど、ユエル様は「大丈夫」と笑って応え、そして本当に「大丈夫」なのだ。
特別な手入れをしている風でもないのに、いつでもツヤツヤでピカピカで、美しい。
たまにはわたしが、美髪を保たせるオイル等を用いてブラッシングをするのだけど、そんな必要を感じないくらいに、ユエル様の銀髪はつややかで、滑らかだ。
・・・謎だ。というか、なにやら口惜しくすらあるのだけど。
ユエル様の髪は、形状記憶の機能が備わっているに違いない。髪にまで、「人外的要素」が含まれてるんだ、きっと!
しかし、わたしはめげずに訴えた。
「それに、シーツや枕も濡れてしまいます。風邪をひくかもしれないじゃないですか」
ユエル様は、またも返してきた。ため息まじりに、
「風邪などひかないよ」、と。
・・・それも、事実だった。
いわゆる人外的存在のわたし達は、病気に罹ることはないらしい。
ただし、「具合が悪くなる」感覚に陥る事はあるし、稀には発熱することもある。この発熱のおもな原因は、精神的な疲労であるらしい。
「存外デリケートなんだよ、私達の精神構造は。肉体が頑健なだけに、そうなるのかもしれないね」
と、ユエル様は皮肉げに笑って、言った。
「だからね、ありがたいことに風邪もひかなければ、インフルエンザにも罹らない」
「でもですね!」
ちょっと強気な態度に出て、言い返してみた。
「もしかしたら、ユエル様が初の『風邪っぴき吸血鬼』になるかもしれないじゃないですか! 第一号っていうのは、聞こえはいいかもしれませんけど、風邪っぴきっていうのはいただけないですよ!」
ユエル様は小さく笑ってわたしの小言を聞いている。・・・なにやら、とてもくすぐったそうな表情をして。
「いざ風邪をひいてしまったら、どう治せばいいのかわかりませんし。お薬も飲めませんよね、丸薬とか粉薬とかは・・・。あ、シロップ状のものなら大丈夫かな・・・? でも、肉体の構造が人間と違うなら、薬もやっぱり効かないのかな・・・」
最後のあたりはもう、わたしの独り言になっていた。
足を挫いたときは、湿布をはった。切り傷にはオキシフルを塗った。このあたりの対処は人間と同じだ。
けど、もしも風邪をひいたら? 発熱した時はどうすればいいんだろう。額を冷やすとか、とにかく身体を温めるとか、そんな程度の処置しかできない。
「風邪はひかないから、それらは無用の心配だよ、ミズカ」
ユエル様はさも可笑しそうに笑って、ぐるぐる巡ってるわたしの思考を止めてくれた。
「それに、具合が悪い時はおおよそ渇いている時だからね。飲めば、すぐにとはいかなくとも、治るよ」
「・・・・・・・・・」
人間の生気を飲めば、治る。
そのことについても、ユエル様は語ってくれた。
「生きる力、とでも言うのかな? それ自体を、私達は私達自身の体内では作れない。・・・人間の生気を飲むということは、つまり『生きようとする力』、それを奪うということだよ」
ユエル様は、自分達『吸血鬼』の存在に対して、嘲笑的だ。わたしを気遣ってだと思うけれど、めったにそれを口に出したりしない。
でも時々こんな風に、自嘲めいたことを言う。
こんな時わたしは押し黙ってしまうか、あるいはためらいつつも、反駁する。
「でも、ユエル様。人間だって動植物を食べて、その命を繋いでます。・・・奪っているのではなく、分けてもらってるって言ってはいけませんか?」
存在のありようは違っても、やっぱりわたし達だって、今こうして「生きて」いるのだもの。人間とは別種の「存在」だからといって、存在そのものを否定してしまうなんて、悲しすぎる。
そんな思いは、もう、したくなかったし、ユエル様にそんな思いを抱えたままでいて欲しくなかった。
ユエル様には、倣岸に、不遜に、艶やかに、たおやかに、笑っていて欲しい。
わたしは、ユエル様の微笑を見ていられれば、それでいい。
「・・・なるほど」
ユエル様は表情をやわらげ、笑いかけてくれた。
「ミズカらしい考えだね」
わたしの拙い意見を、ユエル様は「そうだね」と笑って、認めてくれる。時には、「なかなか穿った意見だ。ミズカは聡いね」と、褒めてくれ、そうして優しく頭を撫でつけてくれることもある。
照れくさくもなるけれど、わたしは、この瞬間がとても好きだった。
失いたくないと願う、瞬間だった。
ユエル様が初の『風邪っぴき吸血鬼』になる心配はないとしても、濡れ髪のユエル様をそのまま放っておくわけにもいかない。
「やっぱりそのままじゃだめですよ、ユエル様」
わたしはユエル様のガウンの袖口を掴み、歩き出した。
「ミズカ、どこへ?」
ユエル様は無抵抗だ。やれやれと嘆息しつつ、訊いてくる。
「洗面所へ! わたしが乾かして差し上げますから」
「ワインを取りに来たのだけどね、ミズカ」
「わたしが後で寝室にお届けします。髪を乾かす方が先です」
「・・・はいはい」
わたしの「ご主人様」はこういう時、妙に聞き訳がいい。なすがままに、洗面所に連れて行かれ、竹材の椅子に座らされている。
わたしは、少しだけ俯きかげんになっているユエル様の背後に立ち、肩に流れる銀髪を掬い取る。
緩やかなウェーブのある銀髪は、ふんわりやわらかくて、触り心地がいい。ずっと触れていたいと思ってしまうくらいに。
椿とバラのオイルを少量手にとり、ユエル様の髪にしみ込ませてから、ドライヤーをあてる。
普段、これといって特別な手入れをすることなく、ほったらかしているにも関わらず、さすが形状記憶美髪。肩先にかかる銀髪に、枝毛一つ、見つけたことがない。
手入れの必要はあまりないのだけど、きれいだから、手入れのし甲斐もある。ブラシでとけばとくほど、銀の髪はつやを増し、しなやかになる。
ユエル様の髪を乾かすのは、・・・実は、昔からひそかな楽しみだった。
でもそんなことを口にしたら、ユエル様はにっこり笑って、
「それじゃぁ、これからは毎晩、ミズカに髪を乾かしてもらおうかな」
と言うに違いない。
だけど・・・――
イヤというわけじゃなく、やっぱり遠慮したかった。
だって、こんな風に密着時間が長いと、・・・気持ちが・・・透けて見られてしまう気がして。
・・・それがどんな気持ちか、わたし自身よく分からないから、・・・だから、知られたくなかった。
手を止め、顔を上げた。髪もちょうどいい具合に乾いてきたから、ドライヤーのスイッチも切った。
ユエル様は鏡越しにわたしの顔を窺っていた。
鏡越しに、目が合ってしまった。
「ミズカ」
「ユエル様」
声まで、重なった。
わたしは肩を竦ませ、ユエル様は眉を下げた。
「す、すみません。なんでしょう、ユエル様」
「いや。ミズカ・・・、何?」
「いえ、あの、ユエル様からどうぞ」
「・・・そう?」
ユエル様は嘆息し、それから肩越しに振り返り、わたしを仰ぎ見た。
「ミズカ、さっきはキッチンで何を?」
テーブルの下にもぐりこんで、まさか地震でもあったわけでもなかろうに、と、ユエル様はからかう風に笑って、言った。
その笑顔のおかげで、少しだけ、気が楽になった。
だけど、なんだろう。心にひっかかるものがあった。
・・・ユエル様の様子が、いつもと同じようでいて、違う気がした。
照明のせいだろうか・・・? 高原地特有の低温が原因なのかもしれない。
――ひんやりと、蒼い・・・。
「ミズカ?」
ユエル様は小首をかしげ、わたしの顔を覗き込んでくる。
「あ、えぇっと、実は、ですね」
ほとんど無意識に、わたしの左手は、左の耳たぶにあるイヤリングを確認していた。
よかった。まだ、こっちのはある。
「失せ物を、探していて」
「失せ物?」
「はい」
わたしは持っていたドライヤーとタオル、ブラシを棚に戻した。ユエル様は立ち上がり、わたしの方に身体を向けていた。・・・一瞬ためらってしまうほど、ユエル様との距離が近い。
「失せ物って、もしかしてこれかな、ミズカ?」
「え?」
ユエル様のてのひらに、水色のそれが乗っていた。
ハートの形をした、けれどまるでため息を模ったかのような、ガラスのイヤリング。
光を受けて、ちらちらと色を変えていた。
ユエル様はそれを、居間のソファーで拾ったらしい。
「すぐに返そうと思っていたのだが、すっかり忘れていた。不安にさせて、すまなかったね」
殊勝にも、ユエル様はわたしに詫びてきた。
火を噴きそうなくらい、顔が赤くなる。
な、なんですか、ユエル様!? そんな風に優しいのは、ちょっと、ズルイですっ!
赤ら顔を隠したいということもあって、わたしは身をすぼませて、頭を下げて礼を言った。
「とっ、とんでもないです! 助かりました、ありがとうございます、ユエル様」
身体を起しても真正面からユエル様の顔を見られず、ユエル様の手の上にあるイヤリングに視線を固定した。
「割れてなくてよかった。―-あ、もうこっちの方もはずしておこうかな。また落としたりしちゃったらタイヘンだし」
左の耳に、再び手をかけようとしたその時だった。
「これは、アリアが選んだのかな?」
ユエル様に尋ねられ、わたしは顔を上げた。
鼓動が、跳ねた。
嫣然としながら、憂いを秘めたユエル様の微笑が見上げたそこにあり、そしてわたしを見つめている。
「は、はい、そうです。今日、服とか色々と買っていただいて・・・」
「そう。さすがアリアだね。いい見立てだ」
「・・・・・・えぇっと、その・・・」
なんと応じればいいのか。わたしは曖昧に相槌をうつしかない。
しかもユエル様は手を伸ばし、わたしの右耳に触れて、さらりと言ってのけたのだ。
「ミズカに、よく似合ってる」
「・・・っ」
ひゃっ、と、声が上がりそうになった。くすぐったくて、それ以上に居たたまれなくて、身体が震えだしそうだった。
ユ、ユエル様、艶っぽすぎますっ! 頭の芯が蕩けて、くらくらしますけどっ!
わたしの動揺を分かっているのかいないのか、ユエル様は優艶に微笑みながら、わたしの耳たぶを指先でつまむ。
「ただ、イヤリングは落としてしまいやすいからね。・・・いっそ、ピアスホールを開けてしまおうか、ミズカ?」
「は、・・・え、あの、ピ、ピア、ス、ですか?」
声が詰まり、裏返ってしまう。
耳から手を離してくださいと訴えることもできない。
「開ける時は、少し痛むけれどね。その方が楽でいい。このイヤリングも、ピアス用の金具に付け替えればいい」
「は、はぁ・・・」
もう・・・ユエル様が何を言ってるか、ちっとも頭に入ってこなかった。
だって、ユエル様の顔が近づいてきてて! ユエル様の深い緑の双眸がわたしを間近に映してて! ユエル様の両手が、いつの間にかわたしの頬を挟んでて! ユエル様の熱い息が、額にかかって・・・っ!
心臓を殴られているみたいだ。心拍数は上がる一方で、痛くて堪らない。
どうしたの? いったいどうしちゃったの、ユエル様?
この状況は、いったい何・・・っ?
「ユ、ユエ・・・ル、さ・・・っ」
わたしは一歩、ユエル様から退いた。
だけど、それ以上はもう、下がれない。壁が背後にあって、肩がぶつかった。
「ユ、ユエ・・・ッ」
「・・・・・・」
ユエル様の手は、まるで火、そのものだ。焦げつくほどに、熱い。
全身が、石になったみたいだ。まさに、焼け石。わたしは硬直し、ユエル様から目を逸らす事もできない。
ユエル様はじっと、わたしを見つめている。わずかにしかめられた眉の下、切なげな色をした緑の瞳がわたしを縛る。
「ユエル様・・・っ、あ、のっ」
震えだした手をどうにか上げて、ユエル様の腕を掴もうとした、その時だった。
「・・・ミ、ズカ・・・」
熱い息とくぐもった低い声が耳朶に、甘い香りを含んだ銀髪が頬に、わたしの戸惑いを煽るように落ちかかってくる。
「ミズ・・・・・・カ・・・」
かすれた声で、ユエル様はわたしの名を繰り返した。
「・・・ユエル様?」
ユエル様の上体がぐらつき、傾く。
「ユエル様・・・っ」
糸の切れたマリオネットのように、ユエル様の身体が崩れ落ちた。
倒れ掛かってきたユエル様の身体を支えきれず、わたしもその場に腰を落としてしまった。
ユエル様にのしかかられて、身動きがとれない。
「ユエル様・・・っ!?」
突然昏倒したユエル様は、苦しげに眉根を寄せていた。目はきつく閉じられ、息も荒い。
「ユエル様? ユエル様っ!?」
ユエル様は応えない。
血の気の引いた唇は動いてくれなかった。わたしの名を、呼んではくれなかった。
「ユエル様っ!」
わたしの左耳から落ちたそれと、ユエル様の手から転げ落ちたそれが、冷たい床の上で僅かに触れ合い、ほのくらい光を受けていた。
「ユエル様っ!!」
わたしの震える呼び声は、夜の帳に空しく閉ざされた。