まねごとみたいな恋でも  scene.9


 
 果たして。 
 ユエル様の「占い」は的中し、午後の空には太陽が姿を現し、燦々と輝いていた。

 真夏の避暑地は、大賑わいだ。
 避暑地というのは往々にして観光地なのだから、それはしかたない。
 メインストリートともいえるショッピング街は、人だかりのせいでまっすぐ歩けないどころか、人にぶつからずに歩くことすら、難しい。
 客引きの呼び声や、はしゃぐ子供たちの笑い声、観光バスの添乗員さんの人を探す慌てた声などがあちらこちらで飛びかって、ユエル様が好む静謐さは、ここには欠片も存在しない。
 それでもたぶん、今日はまだ観光客は少ない方だと思う。
 まだお盆前だし、平日だもの。
 今だって十分すぎるくらいに混雑してるけど、これはまだ前哨戦ってとこだろう。
 以前、別の避暑地でお盆の期間を過ごしたことがあったけれど、すし詰め状態だったもの。「避暑」なんてできないくらい暑くて、ユエル様も心底うんざりしてた。
「まあ、いたしかたないね。これでも街中に居るよりはずっと涼しい方なのだから」
 と、諦め口調でユエル様は言ってた。それに、
「地元民にとっては貴重な収入資源なのだからね。しゃかりきになって祭も開こうというものさ」
 と付け足した。
 日本人ではないユエル様に、わたしは日本の行事や社会構造、その他諸々の事を教わった。
 移り変わってゆく「現代」に戸惑うわたしを、決しては笑ったりせずに。
 ユエル様って飽き性なところがあるくせに、わたしに関しては・・・だと思うけれど・・・、とても辛抱強い。根気よく、様々な事象、色々な事柄を説明してくれる。
 わたしって本当に、ユエル様には面倒をかけてばっかりなんだな・・・・・・。
「ねえ、ミズカちゃん?」
 並んで歩くアリアさんのことを、一瞬忘れてしまってた。
 声をかけられて、わたしは慌てて我に返った。
「お盆って、お墓参りに行く時期だって聞いたんだけど、違うの?」
 アリアさんが、不思議そうに訊いてきた。
 日本へは度々訪れ、時には長く滞在したことのあるアリアさんは、ある程度日本の伝統的な習慣についての知識はあるらしい。だからこそ、「よくわからない」と思うことが多いみたい。
 わたしは少し考えてから、答えた。
「基本的には、ちゃんとお墓参りにも行くみたいです。帰省ラッシュなんて言葉もあるくらいですし。けど、家族サービスもしなくちゃいけないから、昨今ではお墓参りは事前に済ませて、海外に旅行に行くってことが多いみたいです」
「ふぅん。たいへんなのね。お墓参りにも行かなくちゃいけなくて、遊びにも出かけなくちゃいけないなんて」
 アリアさんは笑って皮肉った。
「それにしても、避暑に来ているのか、観光に来ているのか、買い物に来ているのか、よくわからないわね。日本人って、オミヤゲっていう買い物を義務に思ってる節があるんじゃない?」
 日本人のわたしは、苦笑でそれに応えた。
「だけど、買い物自体はやっぱり楽しいわよね? ミヤゲ屋さんを覗くのも」
 アリアさんは呆れ顔を屈託のないやんわりとした笑顔に変えた。
 もしかして、気を遣わせてしまったのかな、アリアさんに。
 ユエル様にしても、アリアさん、イスラさん、そしてイレクくんも、どうしてこう鋭いのかな? わたしの心を読み取って、優しい笑みを向けてくれたり、心配そうに声をかけてくれたりする。
 ・・・それとも、わたしが分かりやすすぎるのかな・・・? そんな気も、するけど。
 だから、アリアさんがわたしを誘い出してくれたのも、そうした気遣いだったのかなって、思ってしまう。
「一緒にショッピングしましょ」、というアリアさんのお誘いに応じたわたしは、めったに着ない白いワンピースを着ている。アリアさんがワードローブから探し出し、選んでくれた。裾にだけレースのあしらってあるシンプルなデザインのワンピース。リゾート地に来てますって感じがいかにもして、着るのはちょっとためらわれたけど、アリアさんに「とっても似合うわよ」と褒められては、脱ぐわけにもいかなかった。ワンピースだけでは心もとなくて、手編み風のボレロも羽織っている。これもアリアさんが選んでくれた。
「ミズカちゃんっていつも質素にしているけど、ユエルが用意してくれないの?」
 アリアさんは少しばかりユエル様を非難するように訊いてきた。
「そんなことはないです。このワンピースもユエル様が買ってくださったものですし。・・・ただ、仕事をするのにはやっぱり動きやすいものがいいですから」
「仕事? ああ、仕事、ね? ミズカちゃんらしいわね。ユエルが踏み出せないでいるのも、わかる気がするわ」
「え?」
「ミズカちゃんらしくて、それも悪くはないけれど、ちょっと困ったものね?」
 アリアさんはちょっとだけ小首を傾げ、艶やかに微笑んでみせる。そしてわたしの頭を撫でつけた。
 ・・・なんだろう。昨晩も、こうやってイスラさんに頭を撫でられた。
 子供を褒めるみたいな・・・ううん、慰めてるみたいな。
 そりゃぁ、お二人にしてみたら、わたしなんて子供みたいな年齢なんだろうけど。
 され慣れないことだから、こういう時、どう反応していいのかわからない。曖昧に相槌をうつくらいが、せいぜい。
 慣れないといえば、「ウィンドウショッピング」っていうのも、そうだったりする。
 ううん、そういえば、初めてかもしれない。「ウィンドウショッピング」って。
 ユエル様の買い物に付きあうことはあったけれど、要る物だけをさっさと買い込んで、用もない店舗を見て回るなんて事は、まずしないもの。
 アリアさんは講師として通っている乗馬クラブでの情報を元に、蝶々のように身軽に、あちらの店こちらの店と、渡り歩く。
 革製品の店や絹の店、輸入雑貨の店や貴金属店、それから衣料品店を何件か巡って、そして今はスワロなんとかいうクリスタル・ガラスのアクセサリー店にいる。
「あら、このネックレス、素敵ね? ね、どう、似合うかしら、ミズカちゃん?」
「はい、とても」
「ミズカちゃんにはこれが似合うわ。つけてみて。ね?」
「・・・は、はぁ・・・」
 アリアさんが手にとって自分に合わせたのは楕円形で深い紅色のペンダントトップのついたネックレス。照明の下、それは虹色にキラキラまばゆく光って、アリアさんの白い肌によく映える。
 そしてアリアさんがわたしのために選んでくれたネックレスは、ハート形のペンダントトップのついたものだった。色は、少しくすんだ感じの水色で、それでも照明の当たり具合によって、様々な色に変化して、とてもきれいだった。
 おそろいのイヤリングもございます、と店の人が勧めてくれたそれまでアリアさんにつけるよう言われて、不慣れな手つきで耳につけてみた。
「ミズカちゃん、とってもとっても似合うわ。それにしましょ。ね?」
「え、あの」
「他に何か気に入ったものがあったら言って。ね? さっきからあたしが選んでばっかりだもの」
 そうなのだ。
 さっきから、アリアさんはわたしに似合うからと、主に服飾品を買ってくださるのだ。
 冗談めかして、「イスラには負けてられないものね」なんて言う。
 もちろんご自分のものも買ってはいるのだけど。
 何度も断ったんだけど、「あたしが買いたいんだもの。ね、いいでしょ?」って、甘やかな顔と声でお願いされちゃ、断りきれない。
 ユエル様にしてもそうだけど、アリアさんも金額を見ないで、気に入ったら即買い。もちろんクレジットカードなんて持ってないから、現金払いだ。
 無駄遣いはやめてくださいと、ユエル様には口を酸っぱくして言ってるんだけど、
「老後のために貯蓄をしておく必要はないのだから、使いたい時に、使ってしまえばいいんだよ」
 という刹那的な返答が戻ってくる。
 そりゃぁ、たしかに「老後」なんてないんだから、「年金生活」することもない。というかそもそも年金を受け取ることすらないんだけど。
 だけど、目の前で湯水のようにお金を使われると、お金そのものに縁のなかったわたしとしては、とっても落ち着かない。貧乏性だってユエル様はからかって笑うけど、実際貧しい身分だったんだもの、当然だと思う。
 この後も、アリアさんはわたしに似合うからといって、いくつもネックレスやイヤリングを買ってくださった。
 購入したばかりのイヤリングを、白いワンピースに似合うからって、
「せっかくなんだし、このままつけてるといいわ、ね? きっとユエルも喜ぶわよ」
 アリアさんは屈託なく笑って、そう言う。
 わたしはまた曖昧な笑みを返す。
 ユエル様が喜んでくれるかどうかはわからない。似合うと思ってくれるかも、わからない。
 だけど、気に留めてはくれるかな? 
 ユエル様にどうしたのかと問われる場面を想像して、少々赤面してしまった。
 そしてアリアさんはそんなわたしを優しげな目をして見つめ、笑っていた。

 アクセサリー店のすぐ隣にオープンカフェがあって、わたしとアリアさんはそこで休憩をとった。
 昼食を摂る必要のないわたし達だけど、暑さに汗をかくことだってあるし、喉だって渇く。
 アリアさんは、
「喉が渇いちゃって、さっき店の若い女の子から、ちょっと飲ませてもらっちゃったわ」
 なんて言って、悪戯っぽく笑ってみせる。そんな屈託のない笑顔には、吸血鬼っぽさはちらりとも見えない。
 ・・・喉が渇くって、そっちの方向の意味じゃないんだけどな。
 でも実際疲労が溜まると、渇きは早くなる。人間でいうところの、お腹が空くという状態に、それは近い。
 それにしても、真昼間からウィンドウショッピングに興じる吸血鬼なんて、怪奇小説なり映画なり、そういった「物語」の主役級の「化け物」がすることじゃない気もする。
 しちゃいけないとは全然思わないし、したっていいと、わたしは思うのだけど。
 イメージが崩れるなぁって思う気持ちもちょっとはあって、複雑な気分。
「ね、ミズカちゃん」
 ふっと思いだしたかのように、アリアさんはぱんっと軽く手を叩いた。
「あのね、お願いがあるの」
「は、はい、何でしょう」
「ミズカちゃんのこと、友達だと思っていいかしら?」
 明るく笑って、アリアさんはそう言った。
「とっ、友達って、そんなっ!」
「あら、迷惑?」
「迷惑とかじゃなくて、ですね! 友達だなんて、そんなっ、とんでもないですっ」
 わたしは両手をぶんぶんと振る。
 暑さのせいではなく、汗が額から流れる。
 いきなりのアリアさんの「お願い」に、困り果てた。
 だって、友達だなんて!
「同性の友達って、もういないのよねぇ。同族で、同性って、なかなかいないの。だからちょっと淋しいなって思っていたのよ」
 ユエル様の母親が亡くなって、同族同性の友達はいなくなってしまったのだという。
 親しくなった人間の女友達はいたそうだけど、過ごす時の長さが、あまりに違う。
 どんなに心安く打ち解けた間柄になっても、ともには生きられない。一緒にはいられない。
「耐え難い、というほどでもないのよ? でも、ほんの少しだけ淋しくなる時があるのよね」
 アリアさんの気持ちは、とてもよくわかる。
 友達という存在自体、わたしにはなかったから。
 友達という存在に、憧れていた。本当に、ずっとずっと、夢見るみたいに、憧れてた。
「だからミズカちゃんと知り合えて、本当に嬉しいのよ」
「それは、わたしも嬉しく思っています、けど」
「そう思ってくれたのなら、もう、友達ね、あたし達?」
「そっ、そんな!」
「あら、それともこぉんな年上の友達はいやかしら?」
「や、そんなんじゃなくて!」
 お年のことも、それは、ちょっとはあるけど。でも、それ以前の問題っていうか!
「と、友達だなんて、そんな、滅相もないですっ!!」
 声が、裏返ってしまう。
「あのね、ミズカちゃん」
 アリアさんはアイスティーの氷をストローでかき混ぜる。苦笑し、ため息をついた。
 豊かで広い海の色をした瞳で、じっとわたしを見つめる。
「ミズカちゃんのことは、少し、ユエルから聞いたわ」
「え?」
 いささか唐突に、アリアさんは語りだした。
「ユエルと出会う前、どんな境遇にいたのか。どんな身分だったのか」
「・・・・・・・・・」
「でもね、ミズカちゃん。もう、今は違うのよ? ミズカちゃんがまだ眷族になる前だった頃は、たしかに身分階級にとらわれているご時世だったかもしれないけれど」
 アリアさんは、たぶん意識して「人間だった頃」という言い方を避けている。それは周りにいる人達を考慮してのことだろうけど、もしかしたらわたしを気遣ってのことかもしれない。
「だから、そんなことにいつまでもこだわらないで。ね?」
「・・・わたし、そんな、こだわっては・・・」
「しみついた習慣というのは拭いにくいものかもしれないけれど、時々、ミズカちゃんは意識してそれを口にしてるように思うわ? 違う?」
「・・・・・・・・・」
 わたしは俯いた。
 アリアさんの言うとおりだったから、今度は「そんなことはありません」って答えられなかったし、気まずかった。
 この時ほど自分が情けなく感じたことはなかった。
 なんと言葉を返せばいいのか、ただの一言すら思い浮かばない。
「もっと自由になっていいのよ、ミズカちゃん。ミズカちゃんのためにならないわ。ううん、ミズカちゃんのためだけじゃないわ。そんなミズカちゃんを見ているのはとても悲しいし、きっとユエルは、もっと辛いわ」
 わたしは顔を上げた。
 アリアさんは優婉とした笑みを浮かべて、わたしを見つめる。それから僅かに肩を竦めて、「ごめんなさいね」と続けたのだ。
「あたしったら、言い過ぎちゃったわね。・・・あらあら、ミズカちゃん、そんな泣きそうな顔しないで? あたし、思ったことは言っておきたい性質だから、無遠慮なこと言っちゃったわね?」
「そ、そんなこと・・・」
 泣くのは、寸前で堪えられた。
 けど、鼻が赤くなってるだろうことは容易に想像できた。だって、鼻先がツンとして、痛い。
 ・・・優しさって、涙腺を緩ませる。嬉しいのに、どうしていいのかわからなくなってしまう。
 アリアさんは何か言いかけたようだったけれど、軽く息をついて、立ち上がった。
「そろそろ帰りましょうか、ミズカちゃん。遅くなるとユエルも心配するでしょうし」
「は、はい」
 わたしは勢いづけて立ち上がったのだけど、その拍子に足首が痛んだ。ほんの少し、顔をしかめた。
「・・・疲れちゃったし、タクシーで帰りましょうか。荷物もあるし、ね?」
「・・・・・・あ、あの」
 会計を済ませるのと同時に、アリアさんは店員にタクシーを呼ぶよう、申し付ける。
 また気を遣わせてしまったと、「大丈夫です、歩いて帰れます」と言うわたしの頭を、アリアさんは軽く撫でつけた。
「あたしがそうしたいの。歩いて帰るの、もう面倒なんだもの。ね?」
「・・・・・・・・・」
 わたしはさらにへこんでしまった。
 アリアさんの好意を無碍に否定するようなこと言っちゃって。なのにアリアさんは笑ってくれて、わたしのことを赦してくれる。
 地面にめり込みそうなくらい落ち込んだけど、ここでしょんぼりした顔をあからさまにしたら、きっともっと心配させてしまうだろう。
 だから無理でも何でも、わたしは笑顔をつくって返した。
「ありがとうございます」
 わたしがそう言うと、アリアさんは少し困ったような顔をし、けれどやっぱり目を細めて微笑ってくれた。
 妖艶な微笑ではなく、それは吸血鬼のイメージからは離れた、ふわりと包み込むような優しく穏やかな微笑。
 胸がきゅうっと絞まるみたいに、痛む。
 アリアさんに、記憶にすらない人への思慕を重ねているのかもしれない。
 そう思うと切なくて、そしてやっぱり、「友達」って言葉に戸惑ってしまうのだ。

* * *

 西の空、たなびく雲の隙間から太陽は黄金色の光を幾筋も地上に落としている。
 日の入りの時刻まではまだ猶予があるのだけど、高原地の日暮れは早い。さっきまで熱気をはらんでいた風は次第に温度を下げ、落葉樹や針葉樹の梢を揺らすごとに涼しくなっていくようだった。
 メインストリートから離れた場所にある白い屋敷の玄関先には看板が下げられている。
 出かける時には『OPEN』というプレートがかかっていたけど、今それは裏向けられ『CLOSED』になっている。
 営業時間は店主の気まぐれで変わる。本日の閉店時間はどうやら四時だったようだ。人の往来はなく、通り過ぎるのは金色の光を帯びた夕風だけだった。
「買い過ぎちゃったかしら。・・・ミズカちゃん、大丈夫? 呼び鈴鳴らしてイレクか、ユエルを呼びましょうか」
「いえ、このくらい大丈夫です」
 買い込んだ物でぎゅうぎゅう詰めになった紙袋を抱えながら、わたしは腕と肩をつかって、重い玄関扉を開ける。・・・と、居間から話し声が聞こえてきた。ユエル様の声と、聞き慣れた女の声だった。
 アリアさんは小首をかしげ、「お客がまだいるのかしら?」と目で訊いてくる。
 別に足音をしのばせる必要もないのだけど、アリアさんは音を立てず、静かに居間へ近づいた。居間のドアは半開きになっていて、わたしとアリアさんはこっそり中の様子を窺った。
 居間にいたのは、ユエル様と常連客のアヤコさん。二人きりだった。
「・・・あまり、褒められた趣味じゃないね」
 ユエル様は腕を組み、厳しい顔をしている。アヤコさんに対して好感は持っていないユエル様だけど、あんな険しい顔を見せたことはなかった。慇懃に対応し、いつだって営業用の笑みを崩さずにいるのに、いったい、何事だろう。
「上流階級の愉しみというものですわ、これも」
 こちらに背を向けているから表情はわからないけれど、アヤコさんの口調は相変わらずに聞こえた。
 いつものアヤコさんなら、しなをつくってさらにユエル様に密着しようとするだろうに、それをしないどころか、アヤコさんの方から踏み込めない距離を置いている。
「下卑たことをすると軽蔑しておいでのようですけど、よくよくお調べにならなかったユエル様の落ち度ですわ」
「・・・・・・・・・」
 ユエル様は眉間を寄せただけで、言い返すこともしなかった。
 アヤコさんは、ユエル様の険しい表情に満足を得ている。足しげく通い、高価な物を贈ってまで媚を売っていたアヤコさんが、いったいどうしたことだろう。
「でもご安心なさって。今すぐどうこうなんて、考えてはいませんわ。ですから」
 アヤコさんは手に持っていた、銀色の四角い何かを手提げバッグにしまった。
 その「四角い何か」は、よくわからなかった。携帯電話よりは大きくて厚みもあったけれど、片手で持てるサイズのものだということはわかった。バッグに入れる前に折りたたんだようにも見えたけど、機械っぽいものだった気がする。
「明日の宵、お待ちしてますわね」
「受けるとは、言っていないが」
「いいえ。ユエル様は来て下さいますわ。お一人でいらっしゃらなくても、構いませんくてよ?」
 優位に立っていることを確認するよう、傲然とした口ぶりでそう言ってから、アヤコさんは踵を返した。僅かな隙をつくようにして、ユエル様は組んでいた腕をほどき、アヤコさんに伸ばしかけた。
「・・・ああ、それから」
 肩越しに振り返り、アヤコさんは牽制するかのように鋭く、ユエル様を見る。伸ばしかけた腕を戻したユエル様は、眉根を寄せただけで慌てたりはせず、泰然とした態度を崩さない。
「ホテルの警備は万全ですわ。招待客は他にも大勢おりますから、どうか、そのことはお心にお留めおきくださいませね?」
 アヤコさんのもったいぶった丁寧な言葉遣いはいかにも空々しく、強迫じみて聞こえる。
 何の話をしていたのか見当もつかないけど、緊迫した空気だけは読める。
 わたしはすっかり竦んでしまっていた。
 アヤコさんがこちらに来るというのに、逃げも隠れもできなかった。
「あら」
 立ち聞きをしていたわたしとアリアさんを見つけ、アヤコさんは鼻先で笑った。
 いつもなら、何か一言二言嫌味を言うのに。
 アヤコさんはにっこりと上機嫌に微笑み、わたしにではなくアリアさんに軽く会釈をしたのだ。
 わたしのことなど眼中にないらしい。
「アリア・・・さん、でしたわね?」
「・・・・・・・・・」
 アリアさんは当然ひるまない。笑顔も、返さない。
「明日の宵、またお会いできそうですわね? では、ごきげんよう」
 手の甲で肩にかかる髪を払うと、アヤコさんはそのまま振り返りもせず、屋敷を出て行った。
 その去り姿に浮かれた様子はなく、勝者然としていた。
 そして、背水の陣を敷いたらしいユエル様は、いつの間にかわたしのすぐ後ろに立っていた。
 端正な唇の端をきつく結び、艶めいた深緑の光を双眸に沈め、表情を消している。
 振り返り仰ぎ見るわたしを、瞳にとらえてはくれない。
「ユエル」
 アリアさんはしかめた顔をユエル様に向ける。
「何、あれは? どうしてあたしのこと・・・?」
「客だ。常連のね」
 ユエル様のその返答は、簡略しすぎだった。アリアさんは一瞬むっとしたけど、何か思うところがあったらしく、わたしには聞こえないよう、そっとユエル様に耳打ちをした。
 それからユエル様の肩を軽く叩き、笑って、言った。
「今日はミズカちゃんをありがとう、ユエル」
 でも口調は笑ってなくて、子供を窘めるかのようだった。
「ちゃんと返しましたからね。・・・ユエル、しっかりなさいよ。わかっているとは思うけれど」
 居間へ入っていくアリアさんの後姿を見、ユエル様は深いため息をついた。
「・・・・・・あの・・・」
 わたしは荷物を抱えたまま、どうしたらよいのやらわからず、なす術もなく立ち尽くしていた。
 何があったんですか。そう問いたかった。
 でも、ユエル様はわたしからの追求をはっきり拒んでいる。
 あからさまに不機嫌という風でもないし、苛立っている風にも見えない。だけどまとっている空気はひどく重い。
 イスラさんに対するそれとは、違う。
 こんなユエル様、初めてだ。
 心配で不安で、心が怯え、窮している。
 どうしよう。
 こういう時、どうしたらいいんだろう。わたしは、どうするべきなんだろう。
「あの、ユエル様」
「・・・ああ、おかえり、ミズカ。・・・疲れたろう。貸しなさい」
 ユエル様は微笑んでくれる。だけど、声はひどく無機質だ。
「え、あ、すみません、ユエル様、あの」
 ユエル様は身を翻し、居間へ戻っていく。さりげなく、というより半ば強引に、わたしが抱えている荷物を持ってくれたのだけど、軽口の一つも、言ってくれない。
「ミズカ、疲れているところを悪いが、お茶を淹れてきてくれないかな。それと、イレクを呼んできて。キッチンにいるだろうから」
 指示されたその通りにしか、わたしは動けなかった。
「・・・ミズカ」
 足早に立ち去るわたしのことを、ユエル様が小声で呼んだ気がした。だけど、どんな顔して振り返ったらいいのかわからなくて、聞こえなかったふりをしてしまった。
「・・・ばか」
 その単語は、わたし自身へ向けたもの。・・・そのはず・・・だったけれど。

 耳に下がっているイヤリングが、空しく揺れていた。

* 続 *