泣きだしたい衝動をどうにか抑えてはいたものの、背中の痛みは、自分では抑えようがなかった。
蘇ってしまった記憶を、もう、消してしまえないように。
―――雨が、降っていた。あの日、あの時も。
かつて、まだ「人間」だった頃、わたしはさる子爵家の使用人だった。
その頃のことは、あまり記憶にない。
あまりに遠い昔のことだから、というよりも、記憶に残るような事が少なかったからだ。
まるで機械人形のように黙々と働き、日を過ごしていた。
両親もなく、頼る身寄りもないわたしだったから、働く場所があり、食べることができるという現状に満足しなければならなかった。
身分の差というものが、まだ人の心に根付いていた時代。
わたしは「身分の卑しい下々のモノ」で、高貴な方々の目にとまるような「娘」じゃなかった。
ある日のこと。子爵家の跡取り息子の若様が、わたしを私室に呼びつけた。
何用だったのかなんて憶えてない。何故呼ばれたのかも、皆目検討がつかなかった。
「へえ、なるほど。これは迂闊だったな。・・・なかなかじゃないか」
わたしを舐めるように看視し、若様はにやにや笑っていた。
言葉の意味が解からず、返答に窮した。
「おまえ、名はなんという」
「・・・水果と、申します」
「ふん。ミズカ、ね。おまえのような者には過ぎた名だな」
「・・・・・・・・・」
「まあいい、名など必要ないしな」
では何故名を訊いたのですか。そう言い返すなんて、当時のわたしには思いつきもしないことだった。
「しばらくの間、退屈しのぎができそうだ」
そう言って笑った若様の目が狡猾に光ったのに、その時は気がつかなかった。ただ怖いとだけ、思った。
「着替えを手伝え」「酒を持って来い」「荷物を持て」「忘れ物をした、とってこい」―――
横柄な若様はわたし個人を指定して命令を下すようになっていた。
他にも使用人は大勢いるのに。徐々に不審に思いはじめていたわたしに、若様はきっと気づいていた。
だから、それを納得させようとしたのか。
その日も、いつものようにわたしを呼びつけた。私室にではなく、庭にある温室に、だった。
おそるおそる温室に入るや否や、わたしは若様に押し倒されたのだ。
「――・・・っ!?」
あの時若様の妹、お嬢様が偶然兄を探しに現れなければ、いったいどうなっていたか。
今思いだしても、ぞっとする。
でも若様は懲りなかった。
隙あるごとにわたしを「手篭め」にしようと、機会を狙っていた。
若様は傲然と言い放った。
「ありがたく思え。気に入りのひとつに加えてやる」
「・・・っ」
その言葉の意味がわかっても、わたしにどうすることなんてできなかった。
だって、わたしには他に行く所なんかなくて、今ある暮らしを受け入れざるを得なかったから。
みっちり仕込まれた「使用人気質」が、わたし自身を縛りつけていた。
「――お兄様!」
だけど恐れていた事態は、わたし自身の力などではなく、回避することができた。
「お兄様、いい加減なさって!」
乗馬用の鞭を持って現れたお嬢様は、怒りにわなわなと身体を震わせていた。
「そのように下賎な娘にうつつをぬかしているなど、子爵家の嫡男ともあろうものが、情けなくはございませんの?」
優位に立っていたのは、お嬢様の方だった。
忌々しげに舌打ちをしたものの、若様はあっさりわたしから手をひいてくれた。
けれど――
お嬢様の怒りの矛先は、わたしに向けられた。
「おまえのようなものが、よくもまあお兄様を誘惑できたものね! 薄汚い下女の分際で、なんと身の程知らずな!」
そして狂ったように、鞭を振るってきた。
「おいおい、見えるところに傷なんかつけるんじゃない」
若様が、わたしの背をはだけさせた。悦にいったような顔をしていた。
「おまえようなものが――――」
逃げ出せもせず、わたしは土下座の格好をしたまま、苦痛に耐えた。お嬢様の罵りの言葉を、受けていた。
泣きはしなかったけれど、赦しを何度も請うていた。
わたしが悪いのでは、ないのに。
なのに、赦しを請わなければならない立場にわたしはいて、そのことが辛いと、この時ようやく自覚したんだ。
――それは、雨の日。
衝動的に屋敷を出たわたしは、港で、まるでわたし自身がそこに倒れているかのような惨めな姿の、だけどとても美しい銀髪の青年を見つけたのだ・・・―――
雨はまだ、降り続けていた。
目覚めてもまだベッドから降りられず、わたしは上半身だけを起こし、小窓から見える外の景色に目を向けた。
どのあたりにあるのかはっきり見えない太陽の光は、雨雲を通過して、地上にわずかな明かりをもたらしている。
小降りになってきているから、午後には、雨も上がるかもしれない。
深々とため息をついたのと同時に、背中の傷が痛んだ。
・・・忘れていたことが不思議だった。
細い線状の傷が蚯蚓腫れになって背を這っている。普段は痛むこともなく、ただ雨の日に少しばかり疼くだけだった。
どうしてこんな傷が背中にあるんだろう。
疑問に思うこともあったけれど、短絡的に、子供の頃に何か不慮の事故があってついたものなんだろうと結論付けていた。
両手に顔をうずめた。
・・・忘れていたんじゃない。
忘れさせられていたんだ。・・・ユエル様によって。
眷族となった今、わたしはユエル様の幻術にはかからない。・・・だけど、ユエル様の眷族になるまでに、二年の猶予があった。
たぶんその間に、ユエル様はわたしの記憶を操作し、忌まわしい過去を「忘れさせて」くれたんだ。
感謝、しなきゃいけない。
そう思うのに。どうしてこんなに心が揺れるの?
・・・思いだした「過去」が辛いからじゃない。
嫌な過去には違いないし、できれば忘れたままでいたかった。
だけど・・・だけど思いだしてしまった。忘れてはいけないのだとでも言うように。
ユエル様のせいだなんて、思ってない。思っちゃいけない。
こんな風に思いだしてしまったのは、わたしの気持ちのせいなんだから。
ユエル様のせいだなんて、思い違いだよ、わたし!
うずめていた顔をあげ、わたしは両手に力をいれ、こぶしを握った。
思いだしてしまったことや、知らされた現状を忘れてしまうことは、もうできない。
できないけれど・・・せめて、ユエル様の前では「何事もなかった」ふりをすべきだ。
だってユエル様はわたしを救ってくれた。辛い過去を忘れさせてくれた。
わたしを、初めて「人」として扱ってくれた人だったのだもの。
この上なく人道的な・・・吸血鬼という人外の存在ではあるけど・・・主人に、わたしも誠意をもって応えなくちゃ。
そして、弁えなくちゃいけない。
心を揺らめかす「思い」は、隠しておかなくちゃいけない。悟られないよう、気を引き締めなくちゃいけない。
眷族の意味を聞かされたおかげで少し動揺したけれど、大丈夫、きっと自制心は保てる。
今までそうしてきたように。
・・・うん、よしっ!
わたしは両手で両頬を軽く叩いて、気合を入れた。
まずは、謝ろう!
昨夜は失礼なことばかりしてしまったもの。
記憶が戻ったせいも手伝って、取り乱して無様な態度をとっちゃったから、ユエル様に不快な思いをさせたに違いない。
身体はまだ少し重い。けれど急いでベッドから降り、身支度を整えた。
まだ早いからユエル様は起きてないかもしれない。
だとしたらちょっと無作法になってしまうけど、それでもやっぱり、今日は一番に、ユエル様の顔を見よう。
ユエル様に、会いに行こう。
いつもの三倍速で身なりを整えたわたしは、躊躇する気持ちを押しやって、ユエル様の寝室へと足を向けた。
寝室のドアの前、深呼吸をしてから、ノックをした。
返事はない。
やっぱりまだ寝てるんだろうな。
静かにドアを開け、そっと寝室を覗きこんでみた。ベッドは、ここからじゃ遠くて端っこしか見えない。
「――いつまでもそんなところで覗き見していないで、入りなさい、ミズカ」
「・・・っ!」
わたしが猫だったら、間違いなく尻尾の毛が逆立ったくらいに吃驚した。
「お、起きてたんですか、ユエル様っ?」
「・・・そんなに驚かなくてもいいと思うが」
「だって、ユエル様がわたしより先に起きてるなんて、数えるほどもないくらいですし」
「そういう時は「数えるほどしかない」という文法が正しいね」
わたしの軽口を、軽口で応えてくれ、そしてユエル様はドアを開け、わたしを寝室に招きいれてくれた。
ユエル様はすでに夜着ではなく、薄い浅黄色の綿シャツと着古した感のあるジーンズという、カジュアルな雰囲気の服装に、すでに着替えを済ませていた。・・・ううん、着替え途中、かな。シャツのボタンはどれひとつとして留められていなくて、胸元は全開にはだけてる。下着、というのか、タンクトップとかそういったものをシャツの下に着ていないものだから、「丸見え」な状態なんですけど・・・っ。
「えーっと・・・、改めて。おはようございます、ユエル様。珍しく、本当に「お早う」ございます」
「・・・・・・嫌味なら、もう少し遠まわしに言った方がいいね、ミズカ?」
呆れたようにユエル様は言う。けれど、ちょっと笑ってるみたいだった。
ユエル様は手櫛で髪を整えながら、窓辺へと歩む。その背を見つめ、わたしは安堵のため息をこぼした。
顔はちらっとしか見なかったけれど、そんなに不機嫌そうではなかったし、声にも重苦しさはない。
「あの、ユエル様」
「ん?」
ユエル様はカーテンを開け、それから窓辺に腰を据えた。
額にかかる髪をしなやかな指で梳きあげ、気だるそうな顔をわたしに向ける。
物憂げな表情が似合う美貌を向けられて、眩暈を起こしそうになった。
キレイな顔も三日続けて見れば慣れる、なんてよく言うけれど、並外れた美貌の場合、それは適用外だと思う。
心拍数は、ちっとも平常に戻らない。
「昨夜は、・・・すみませんでした。ご不快な思いをさせてしまったこと、お詫びします」
「・・・ミズカ」
言葉尻に、ため息が重なる。ユエル様は苦笑いを浮かべていた。
「律儀だね、ミズカは。それを言いに、わざわざこんな朝早くに、私のもとへ?」
「はい。すみません、朝はご迷惑かとも思ったんですけど」
わたしがそう言うと、またユエル様はため息をつく。けど、迷惑顔ではない。困った風ではあるけれど。
「起こすついでとも思って。まさか起きているとは思わなかったものですから」
「・・・まあ、いいけれどね」
ユエル様は苦虫を奥歯で噛んだような顔をする。
「寝ていたらいたで、早く起きろと文句を言うのに、起きていたらいたで、皮肉を連発されるとはね」
「すみません、いつも一言多くて」
「それがミズカだから、別段気にはしていないよ。・・・昨夜のこともね」
「・・・・・・・・・」
なんだか、先手を取られて、はぐらかされたような気分だ。けど、だからこそ、話は蒸し返さない方がいい。そう思って、口を閉ざした。
「ところでミズカ、今日の予定だが」
当たり障りのない会話の糸口を持ち出してくれたのは、ユエル様だった。
「店は開けるが、今日は、ミズカは休んでいなさい」
「え、でも」
さすがに、これには焦ってしまった。
やっぱり昨夜のこと、使用人にはあるまじき態度だと、不愉快に思っているのかもしれない。
「そんな不安そうな顔をしないで、ミズカ。本当にもう、気にしていないから」
「って、また、考え読まないでください」
わたしが情けない声を上げると、ユエル様は小さく笑ってみせる。
いつもの、ちょっとからかうみたいな、ユエル様らしい笑みだった。
「休みと言ったが、実はアリアから、午後になったら買い物につきあってほしいという伝言を頼まれてね」
「アリアさんのお供をすればいいんですね?」
「そういうことだ。色々と振り回されるだろうから、午前中はのんびりしておいた方がいい。・・・ミズカ、こちらへ来なさい」
「はい?」
一瞬ためらったけれど、ユエル様の言葉に従った。
「特別サービスだ。ミズカの今日の運勢を、占ってあげるよ」
「は?」
唐突に、何を言い出すのやら。
わたしは目を瞬かせ、とまどいがちにユエル様の顔を窺う。ユエル様が浮かべているそれは、「営業用スマイル」だ。
ユエル様はサイドボードに置かれていたタロットカードを片手に持ち、わたしに差し出した。
「一枚引いて。好きなところから」
「・・・・・・・・・」
当たるんですか、なんて訊いたりはせず、少しだけ考え込んだふりをしてから、一枚、カードを抜き取った。そして裏向きのままのカードを、ユエル様に手渡した。
「その顔は、信用してないって顔だね、ミズカ」
「や、えーっと」
「本当にミズカは、嘘をついたりごまかしたりするのが下手だね」
「スミマセン」
「それは美徳というものだよ、ミズカ。まあ、ミズカとしてはそれで困ることもあるだろうけどね?」
当たってます、その「占い」。と言いそうになったけれど、堪えた。「また皮肉かい?」と返されそうだし。
「大丈夫。当たるよ、私の占いは、大概ね」
「大概、ですか」
「六割弱くらいかな」
「微妙です、それ」
「それはともかく」
「はあ」
なんだかどっと疲れましたけど、ユエル様?
「占いの結果。カードは『太陽』だ」
「良いカードなんですか?」
占いの店の手伝いをしているくせに、その商売道具のタロットカードについて、わたしはあまり詳しくない。
見せてもらった『太陽』のカードの不可思議な絵は、悪い結果が出そうなデザインではなさそうだけど。
「良いカードだよ、とても。・・・そうだな」
意味ありげに、ユエル様は典雅に微笑む。そしてカードに再び目を向け、続けた。
「少しだけ、何かトラブルめいたことがあるかもしれないけれど、結果的には良い方向へと向かいそうだね。・・・それから」
「・・・はい」
神妙な面持ちで、わたしはユエル様の占い結果を聞いた。六割弱の当たり率なら、もしかしたら「当たる」かもしれないと思って。
「午後は晴れそうだ」
・・・はい?
ユエル様は窓の外に視線を流して、そう言った。
それからもう一度わたしの方に向き直り、
「天気が回復すれば、気分も良くなるだろう」
そう付け足した。
「・・・・・・ユエル様。それ、占いじゃなくて、天気予報です」
「天気予報も占いの一種さ」
ユエル様は笑顔で言ってのける。
屁理屈な気がするんですけど?
わたしは呆れた顔をユエル様に向けてしまっていた。
・・・でも、これって、ユエル様なりの気遣いなのかもしれない。そう思ったのは後になってからだった。
ユエル様はおもむろに、タロットカードを持っていない方の左手をわたしに差し出した。
「ミズカ、一応念のためだ。・・・飲んでおきなさい」
「え、いえ、いいです、あの」
断るのを、ユエル様は予想していたようだ。強引にわたしの手を掴み、繰り返して言った。「少しでもいい、飲んでおきなさい」と。
また、ユエル様に見透かされてしまった。
飲んだばかりだというのに、もう渇き始めている。
こんなこと、初めてだ。
渇ききっているわけではないけれど、物足りなさを感じて、気が落ち着かない。
「すみません、ユエル様」
渇きのせいでまた倒れるようなことがあっては、さらに迷惑がかかってしまう。
そう考え直して、生気を、飲ませていただくことにした。
ユエル様の手をとり、指先から、生気を吸い上げていく。
ほんの数秒間。すぐに、わたしは手を放した。それから、ほとんど無意識に、ユエル様から一歩退いてしまった。
「・・・ミズカ」
ユエル様の手が伸び、わたしの頬に触れかけた。けれどその手はわたしに触れることなく、空を掴んでおろされた。
「コーヒーを淹れてきてくれないかな。熱いのを、ね」
ユエル様の双眸が、艶をおびた濃緑に沈む。言いかけた言葉を無理に飲み下してしまった、そんな表情だ。
でも、わたしにそれを訊く勇気はなく、口にしたのは了解の返事。
そして、笑みをみせた。半ば作り笑いなのは、ユエル様にはわかってしまったかもしれないけれど。
「ありがとうございます、ユエル様」
顔を上げ、まっすぐにユエル様を見つめて言った。
「礼を言われるようなことは、してないと思うが? 生気のことなら」
「それだけじゃないです。・・・言っておきたかったんです」
「・・・・・・・・・」
ユエル様はわずかに眉間を寄せ、
「本当に律儀だね、ミズカは」
苦笑まじりにそう言った。
「じゃぁ、私も一応「どういたしまして」と言っておくべきかな」
笑ってくれたけど、どこか寂しげな風でもある。
だけど、そういった表情はユエル様らしいものだったから、あえて、気にはとめなかった。
「それじゃ、コーヒー、すぐにお持ちしますから!」
わたしは踵を返した。
もう一度、
「ありがとうございます」
それを告げて、ユエル様の寝室を出た。
そして、ドアを閉めてから、
「ごめんなさい、ユエル様」
俯いて、呟いた。