夜半に、雨は降り始めた。
湿気に弱いわたしは早めに床に就いたのだけど、深夜、目を覚ました。
窓ガラスをたたく雨音と、背中に走る痛み、そして遠い日の夢――・・・
安らかざる眠りから覚めて、わたしは安堵のため息をこぼした。
ベッドサイドの電気スタンドのスイッチを入れ、時間を確かめる。
深夜一時をまわったところだったから、およそ三時間の睡眠だった。
けど、ひどく長く感じた。
両手で顔を覆い、背中を丸めた。
・・・憶えてなくて、よかった。
一瞬過ぎった夢の「記憶」は、いつまでも脳裏に留まっていることはなかった。
憶えていないのに、どうして? ひどい悪夢だった気がする。背中が痛い。・・・胸が痛むよりもっと現実的に。
篠突く雨の音が、静まり返った室内に耳障りに響く。
もう一度ため息をついてから、ベッドから降りた。
何か、温かいものでも飲もう。
ユエル様から生気をもらったばかりだというのに、渇きは癒えない。
それはきっと、雨のせい。
そう思っていたかった。
わたしは「眷族」になってから、雨に弱くなってしまった。雨、というより湿気、かな。
そういえば、吸血鬼って「流れる水」が弱点だって本で読んだことがある。
わたしの場合でいえば、「流水」自体は平気だ。だから蛇口から流れ出る水に驚いて腰を抜かすなんてことはないし、小川の辺で日向ぼっこをするのは好きだったりする。
わたしの主人であるユエル様も、基本的には雨が苦手みたい。入梅するとすぐにこうして雨の少ない高原地に避難する程度には。
ユエル様は、
「私の力の属性と反するものだから、こればかりはいたしかたないね」
と言っていた。
苦手、というだけでわたしほどは弱くはないから、雨の日でも普通に過ごしている。
だけど。
ユエル様と出逢った・・・というより見つけた・・・あの日は、雨だった。あの雨の日、ユエル様は行き倒れていたのだ。
青ざめて、いかにも息も絶え絶えに、憔悴しきって。
どうしてだったのかしら?
これも、常々疑問に思っていて、そして訊けずにいたことだった。
だってあれ以降、ユエル様が具合悪そうにしているところを、見たことがない。
前後不覚になって道端で昏倒してしまうほど弱りきってしまうなんて、今じゃ想像もつかない。
今日みたいに、うっかり渇ききってしまって倒れこんでしまうのは、いつもわたしの方。
そうしていつも、ユエル様に手間をとらせてしまうのだ。
カーディガンを羽織りつつ寝室を出た。
廊下の小窓から見える外の景色は、濃紺の闇。周囲に人家がないせいで外灯もなく、森は深い夜闇に包まれている。
身を竦ませたのは、暗闇が怖いからではなく、気温の低さのせい。
夏とは思えないほど肌寒く、ストーブが恋しくなるほどだ。
わたしは小走りになって、台所を目指した。早いところ温まるものを体内にいれなくちゃ。
ふと、居間から明かりがもれているのと、話し声がするのに気づいて、足をとめた。
ユエル様と・・・・・・イスラさんの声・・・?
「どういう了見なんだかなぁ。おまえさんらしいっちゃらしいが、ちょっとひでー気もするけどな」
「余計なお世話だ」
「だってよー、おまえ、もう時期迫ってんじゃね? だから俺達を呼んだんだろ?」
「おまえを呼んだ覚えはない。勝手についてきたんだろう、アリアに」
「なんだよ、つれねーなぁ。心配してきてやったんじゃねーかよ」
「嘘をつくな、嘘を」
「まー、実はイレクが会いたがってたってだけなんだけどよ。イレクが言ってたぞ? 余裕なさそうだってさ」
「・・・・・・」
足を止めたまま、なんとなく、息をひそめてしまっていた。
でも、これって、「立ち聞き」じゃない?
だめだよ、わたし! 早く、ここから去らなくちゃ・・・・・・
と思うのに、立ち聞きなんて失礼だって思うのに・・・体が動かない。なんだか耳も、大きくなってる気がする。
「意外だな。おまえさん、昔はけっこう無節操な方だったのによ?」
「人聞きの悪い。第一、おまえほどではない」
「つか、おまえさ、もしかして別の相手探してんの? 占いとかなんとかいって、物色中かよ? 百年近く一緒にいるミズカちゃんは・・・――」
え? わたし? ・・・別の・・・相手・・・?
どきりと、鼓動が跳ねた。
そして、それとほぼ同時だった。
居間の扉が開いたのだ。
またしても鼓動が大きく跳ねた。
「・・・――っ」
とっさに逃げ出さなかったのは、足が竦んでしまっていたからだ。
顔だけじゃなく、全身が熱くなった。
そこに、ユエル様の姿を見つけて。
「ミズカ」
扉を開けたユエル様は、小さくため息をこぼした。どうやらわたしの立ち聞きに気がついて、席を立ったらしい。
「すっ、すみませんっ、あの・・・っ、わ、わ、わた・・・」
土下座をして謝罪したい気分だ。恥ずかしくて顔を上げられない。
「すっすみません、わたし、あの立ち聞きなんてするつもりは・・・っ」
嘘だ。
嘘だから、もっと顔をあげられなかった。
「ミズカ。顔を上げなさい」
「・・・・・・・・・」
ユエル様の声は、静かなものだった。怒っている様子はないけれど、少し、困惑している風にも聞こえた。
「ミズカ」
「はいっ」
また一つ、ユエル様はため息をついた。
「別に怒ってはいないよ。・・・だが、そうだな」
ユエル様は振り返り、わたしを見つけて、にこやかに手を振っているイスラさんを見やった。
今度こそ呆れたように、ユエル様は力なく肩を落とした。
「ミズカ、立ち聞きをしていた罰として、ブランデーと新しい氷、それからワイン・・・あのドイツワインがいいな。それとワイングラスを二つ、持ってきて」
「はっ、はいっ、すぐに!」
「ミズカ、急がずにね。また躓いたりすると、せっかく治った足首を痛めるよ?」
「・・・は、はいっ」
ユエル様のからかうような笑みに、ちょっと安心したわたしは、急がずに、と言われつつも大急ぎで台所へ向かった。
ふと肩越しに振り返ってみると、扉のノブを掴んだままユエル様はそこにいて、わたしのことを見ていた。
緑色の深いまなざしが、まじろぎもせずに、こちらに向けられている。
わたしを眷族にしたあの日の、あの時の・・・哀しげな色と同じだ。
わたしは胸を押さえた。
苦しくて、息がとまりそう・・・・・・
頭を降り、焼きついた瞳を消そうとするのに、どうしてもうまくいかない。
消さなくちゃいけないのに。
わたしなんかが「こんな想い」を抱いちゃいけないって、言われたのに。
・・・・・・――オマエノヨウナモノガ、・・・・・・サレル、ハズガナイ・・・ミノホドシラズナコト・・・・・・――
ずきんと、背が痛んだ。
記憶の底に沈んでいた「記憶」が、浮かび上がってくるかのように。
大急ぎで居間へ戻ったわたしを、イスラさんが笑顔で迎えてくれた。
竹製の小椅子に座っているイスラさんは、空になったブランデーの瓶を振っている。
「おかえり、ミズカちゃん〜」
ほんのりと頬が赤らいでいるけれど、泥酔している様子はない。けど、あのブランデーはたしかまだ半分以上残っていたはず。・・・全部、しかもロックで飲み干しちゃったのかな、イスラさん、一人で?
「お待たせしました。ワインは、ユエル様、ですよね?」
空いたワインの瓶がテーブルに置いてある。これも半分以上残っていたはずのロゼのワインなんだけど、ユエル様お一人で飲み干してしまったらしい。
下戸の吸血鬼なんて様にならないかもしれないけど、お二人とも・・・飲みすぎなんじゃぁ・・・・・・
「それほどでもないよ、ミズカ。このくらいはたしなむ程度というやつだ」
「・・・ユ、ユエル様、考え読まないでください」
ユエル様は一人用のソファーに深く腰かけ、ゆったりと足を組んでいる。黒絹のナイトウェアの上にさらに黒地のガウンを羽織っている。銀の髪が肩にかかり、小首を傾げるとさらりと揺れて、光るように流れる。
「私の顔と酒瓶とを見比べて、そうしかめっ面をされてはね」
「・・・え、と・・・・・・」
いつにもまして艶っぽい微笑を向けられて、とても平静ではいられなかった。
きゅぅ、と胸が痛む。
痛みに耐えきれなくて、わたしは慌てて話を転換させた。
「イスラさんは、ロックですよね? おつぎします」
「お、ありがと、ミズカちゃん」
今日イスラさんが贈ってくださった「メイド服」は着用していないけれど、メイドらしく給仕をしようと居ずまいを正した。けれどユエル様がぴしゃりと厳しく、口を挟んだ。
「自分で淹れろ、イスラ。ミズカ、イスラのことは放っておいてかまわないと言ったろう。まず、そこに座りなさい」
「え、えと」
不機嫌そうなユエル様の口調に、わたしはちょっと身をすぼませた。
「おいおい、冷たい言い方しなさんな。あ、いいよ、ミズカちゃん、セルフサービスらしいから、ここは」
「でも」
にこやかに笑って、イスラさんはわたしの手から新しいブランデーを受け取った。
黒一色の衣服をまとっているユエル様を、白いTシャツと綿パンツというラフな格好のイスラさんは軽く睨みつけて、声にはしなかったけど、「あほう」という形に唇を動かした。
わたしは忙しなくユエル様とイスラさんとを見やり、だけど、とにかくここはユエル様の言葉に従い、ユエル様の隣の椅子に、腰をおろした。
ユエル様はワインを手に取ると、手早くコルクを抜いた。
そして、
「ミズカ、グラスを持ちなさい」
とわたしを促した。断れる雰囲気でもなく、わたしはワイングラスを手に取った。
グラスに、ワインが注がれる。
甘いような、すっぱいような、ほのかに苦味のある香りがたつ。
「飲みなさい、ミズカ。喉が渇いていたのだろう? 身体も温まる」
そう言って、もう一つのワイングラスに、ユエル様は自分の分を注いだ。
「おっ、いいね! やっぱ晩酌の席に女の子がいると!」
陽気なイスラさんの声に、ユエル様は渋い顔を返す。わたしはというと、ちょっと困ってしまっていた。
だって、そういえば、ユエル様の「晩酌の相手」なんて、今までしたことがなかったもの。
第一、仕えている主人に給仕するのではなく、同席して、お酒を飲むなんて・・・・・・
「ミズカちゃんはいけるクチ?」
「え? いえ、それは、わかりませんけど」
飲んだことのあるお酒といったら、梅酒と蜂蜜入りのホットワインくらいだ。寒い日に身体を温める目的で飲んだもので、アルコール度数は低かったろう。
「そーかー。じゃ、まずはぐぐっと、飲んで飲んで」
なにやら嬉しそうにイスラさんは言う。そしてユエル様は眉間に深い溝をつくって、イスラさんを睨んでいる。
わたしはとまどいつつも、ワイングラスに口をつけた。
「それはドイツの貴腐ワインだ。普通のワインよりずっと飲みやすい。まあ、飲みすぎないにこしたことはないけどね」
ユエル様が言ったとおり、酸味も低く、かといって甘すぎもせず、ぶどうジュースを飲むように、するりと喉をくだっていった。芳醇な香りが口の中に残り、それがアルコールを感じさせる。
アヤコさんが持ってきたドイツの貴腐ワインは、とんでもなく高価なものらしかった。
貢がれたユエル様はというと、特別にありがたがるでもなく、かといっていかにも迷惑そうにすることもない。
「ワインに罪はないからね」なんて、笑って言ってのける。
わたしは知らず、ため息をついていた。
「ミズカちゃん、そういえば具合良くなかったんだっけ?」
お酒を勧めておいてから、はたと気がついた様子で、イスラさんが尋ねてきた。
「雨、弱いんだって? ユエルから、さっき聞いたけど」
「・・・雨というか、湿気に、なんですけど」
「ユエルもだもんな。力の種類からいって、やむをえないか。けど、ミズカちゃんの方に大分しわ寄せがいっちゃったんだな」
「でもわたし、もともと雨の日って・・・少し苦手でしたから、その影響かもって」
「へぇ? そうなんだ?」
イスラさんは、黄みをおびたこげ茶色の瞳を、まじまじとわたしに向ける。
わたしは曖昧な相槌をうって、答えた。背中が一瞬痛んで、顔をしかめてしまった。
雨の日は、こうして背の傷が疼くから苦手なんだ。
ふと視線に気がついて、わたしは再びユエル様に目を戻した。
黙したまま、ユエル様はわたしの様子を窺っている。何か言いたげに唇が動いたように見えたけれど、ワイングラスが傾けられ、同時に瞳も伏せられてしまった。
また、ちくりと胸が痛む。
顔が熱くなったような気がしたのは、きっとワインのせいだ。
「あ、あの! イスラさんの力は、なんなんですか?」
話の転換の仕方が下手なのは、我ながら、もうどうしようもない。
ユエル様から視線をそらし、唐突に切り出した。
「え? 俺?」
「はい。魔力っていうんでしょうか? そうした力を持ってらっしゃるんですよね?」
「ああ、うん。でも、俺ら吸血鬼全員ってわけじゃないんだぜ?」
「そうなんですか? それは、知らなかったです・・・けど」
「古い血脈の一族だけが力を保っているらしいね。ユエルとアリア、まあ、一応、俺もだけどね」
さりげなく・・・でもないように思えるけど、自慢しているようだ。
やっぱり、イスラさんって、こういうところなんか、ユエル様に似ている。・・・なんてことは、口にできないけど。
「俺とアリアは同じ属性の力だ。風使い」
そう言って、イスラさんは指を鳴らした。
するとユエル様のしなやかな銀の髪が、下からすくいあげられるように浮いた。
「やめろ、イスラ、うっとうしい」
ユエル様は髪を乱したつむじ風を、軽く手を振って、散らした。
イスラさんは右手の上に、風を乗せている。小さな風の渦が、うっすらと見える。
「こんな具合。風を使って身体を浮かせたりもできる。疲れるからあんまりやらねーけど」
「あ、それで」
納得がいった。
イスラさんもアリアさんも、来訪時、どうやって二階にあがったのだろうと思っていたけど、つまりそういうことだったんだ。
「じゃ、イレクくんも?」
「いや。あいつはつかえねーみたいだな。俺もよくわからねーけど、「生殖者」限定なのか?」
問われ、ユエル様はグラスをテーブルに戻した。
「違うな。生殖者ではない奴でも、力のある奴はいた」
ユエル様が、簡略して説明してくれた。
改めて、「吸血鬼」である自分達のことを。
吸血鬼がもともと持っている超常的な力は、「幻惑」の能力。
人の記憶を操作したり、意のままに操ったりできるのだけど、力の程度や種類も個人差があるとのこと。
他に「長寿」であったり、「不老」であったりするのは、
「種族的な特徴で、いわば体質のようなものだよ」
と、皮肉ったような口調で、ユエル様は述懐する。
体質、ねぇ? とわたしは首を傾げてしまう。
そして一部の吸血鬼だけが、「風」「火」「水」に限定した能力を有しているのだという。
「私が確認したのはその三種だけだが、他にもあるかもしれないね。古い血脈を持つ者にしか、力は顕現しないようだ」
「ほら、俺達、個人主義だろ? 横の繋がりなんてないも同然だから詳しいことはわかんねーんだよね。たぶんそうなんじゃねーかっていう適当な結論さ、あくまでね」
わたしは「はあ、そうですか」と間の抜けたような返事しかできない。
なんだかよくわからない、というのが正直な感想だ。
けれど、
「ちょっと意外です、「水」の能力って」
吸血鬼って、「水」に弱いと思ってた。ユエル様がそうだから、という固定観念がそう思わせていたのだけど。
「水は別に弱点ではないよ、ミズカ」
「そうなんですか?」
わたしは瞬いて、ユエル様を見やった。
「自然の法則に従うように、それぞれ、その力の属性と相反するものは苦手なんだよ。中国の思想だったかな? 陰陽五行、というのは?」
えーと、たしか、「火水木金土」だったかな? それぞれ相剋し、相生するとか、なんとか。
・・・以前ユエル様から教えてもらったことのある宗教的思想だけど、憶えてない。
わたしの名前が「水果」であることに、ユエル様は複雑そうな顔をしていた。困ったような顔をして、笑っていた。ユエル様のその表情だけは、憶えている。
「俺達はさ、見た目は人間の姿をしてるけど、やっぱり「魔物」の種族なんだろーね。人間のまねごとをして「生きて」てもさ」
イスラさんは、似つかわしくない自嘲的で寂しげな笑顔を向け、言った。
「超常的な能力を持っているのは、人間との区別をつけるためじゃね? とか、さ」
「で、でも!」
思わず、身を乗り出してしまった。
「人間の中にだって、超常的な能力を持っている人はいます! たとえば、すっごく足が速かったり力持ちだったり、記憶力が優れていたり、演算能力が高かったり、ええっと、いろんな発明をしたりとか! 普通じゃない「能力」は、普通を超えた能力なんだから、きっとそれだって「超常的な能力」なんだって、わたしは思います! 天賦の才能でも努力の賜物でも、そうした「普通」を越えた能力を人間は持ちえるんです。だから、吸血鬼だって、人間と変わらないって、わたしはそう・・・思ってます」
ずっと、そう思ってた。
わたし達は人間ではない別の存在かもしれないけど、こうして「存在」しているんだもの。
だから、生きるために人間の生気が必要だとしても、「生きて」いたって、いいはず。いてはいけない存在なんかじゃ、ないはずだわ。
わたしの気持ちを、曖昧な単語で繋げた言葉の羅列だけでも、ユエル様は察してくれた。
「ミズカらしいね」
そう言って、笑ってくれたのだ。穏やかな笑みを見せてくれるのは、なんだか久しい気がした。
安堵したし、嬉しかった。ユエル様にユエル様らしい微笑が戻って。
でも、それも束の間。
「ミズカちゃん! いい子だなぁ!!」
「――・・・っ!!」
イスラさんはいつでもいきなり、だ。
ついさっきまでテーブルの向こう側にいたはずなのに、いつの間にかわたしの目の前にやってきていて、抱きついてきたのだ。
「え、や、ちょっ」
「ん〜、ほんと、可愛いや」
そう言って、頭を撫でてくる。まるで子供を褒めるみたいに。
どういう反応を返したらいいのかわからず、ワイングラスを両手で抱えるようにして持ったまま、わたしは硬直してしまっていた。
「惜しいなぁ、ユエルの眷族でさえなきゃ俺が・・・」
耳ともで、イスラさんがささやいた。
そして、イスラさんの片手がわたしの背に回され、抱きしめる力が強まった。
「やっ・・・」
や、やだ・・・っ、痛い・・・! いた・・・い・・・っ!
背中が焼けるように熱い・・・!
いやだ、何? 何か、思いだしそうな痛みが、全身を走ってく。
い・・・やだ・・・! ・・・こわ・・・い・・・怖い・・・・・・っ!
「・・・イスラ」
低く、静かな声が、聞こえた。それと同時に、身体が解放された。
ユエル様がイスラさんを払いのけたらしかった。
ふと見ると、イスラさんは床に肘をついて倒れていた。
「わざとか、イスラ」
「・・・・・・・・・」
わたしに背を向けて立ちはだかっているユエル様は、右の手のひらをイスラさんに向けていた。
不敵な笑みを浮かべるだけで、イスラさんは何も答えない。
イスラさんは上半身を起こした。立ち上がることはせず、片膝をたて、その場に座している。
「さすが風使いだな、イスラ。炎を煽るのが巧い」
ユエル様の一言一句が、空気を張り詰めさせていく。表情は見えないけれど、こんなにも荒々しい気を全身にまとっているユエル様を見るのは、初めてだ。
「いいね、ユエル。おまえのそういう顔見るの、好きだぜ、俺」
「うるさい、イスラ」
刹那、青白い炎がイスラさんを襲った。イスラさんは間一髪で、その炎を止めた。空気という見えない壁が、炎を押しとどめている。けれど、炎の勢いのほうが強い。イスラさんは苦しげに顔をしかめている。
「風使い冥利に尽きるね、火の勢いを増させる要因になれたってのは」
「・・・ではそれを冥土の土産にでもするがいい」
「ユッ、ユエル様っ!!」
とめなくちゃ!
そう思って腰を浮かせたわたしを、ユエル様は振り返りもせず、片腕をのばし、とめた。
ユエル様の肘が、わたしの手に当たった。
――ワイングラスが、床に落ち、砕けた。
そしてわたしも、床に崩れ落ちた。
突然走った「痛み」と、それによって引き出された記憶の「痛み」のせいだった。
「ミズカちゃんっ?!」
わたしは震えていた。床に座り込んで、自分自身を抱きしめて。
イスラさんの声にユエル様は弾かれるようにして振り返り、そしてわけもわからず震えているわたしの肩を掴んだ。
「ミズカ? ミズカ、いったい・・・」
「あ、・・・やっ」
無意識に、そしてとっさに、わたしは身をちぢこませ、ユエル様を拒んでしまった。
けれどすぐに我に返り、ユエル様に謝罪した。顔は、向けずに。
「すみ・・・ません、わたし」
震えはとまらなかった。背中が、ずきずきと痛む。雨のせいだけじゃない。古い傷痕が疼くのは・・・――
「わたし、・・・すみません、あの、驚いてしまって・・・すみません、本当に」
その場を取り繕おうと、わたしは散らばったガラスの破片を集めようとした。けれど、ユエル様にとめられた。ユエル様の手は、炎を操った後だったからか、とても熱かった。
「・・・・・・酔ったのだろう、ミズカ。もう、寝たほうがいいね」
ユエル様は、どうしたのかと問い質すようなことはせず、わたしの手をとったまま、立ち上がった。
「部屋まで送ろうか、ミズカ」
ユエル様は小首を傾げ、わたしの顔を覗き込んでくる。深い湖のような緑色の双眸に、わたしが映る。
「・・・・・・・・・」
大丈夫です。そう応えようとして、失敗した。
喉がきりきりと痛む。背中が痛むのと同じくらいに。
「ミズカ」
ふいに、ユエル様の手が、そっと背に触れた。
「・・・――っ」
そしてわたしはまた反射的に身を捩って、ユエル様の手を拒んでしまった。
「すっ、すみませ・・・っ」
ユエル様は、わたしから手を離した。
ユエル様は物憂げな仕草で、銀の髪を指先で軽く梳く。長い前髪の奥、哀しげな瞳がわたしを見つめ続けていた。
「ミズカちゃんは俺が部屋まで連れてく」
見かねてのことだろう。
半ば強引に、イスラさんがわたしの手をとった。今度はもう、ユエル様は口出しをしなかった。
「悪かったな。酒の席でのことだ。ここはひとつ、さらっと流して忘れてくれよな」
居間を出る間際、イスラさんはそう言った。
再びソファーに腰を下ろし、ワイングラスを傾けているユエル様に。