針葉樹の緑が艶やかな、今は葉月。
わたしとわたしのご主人様は、避暑と商売を兼ねて、高原の別荘地に来ている。
木造総二階建て、銅板葺の白い洋館が、現在の住処。
もとはどこかの国の貴族だか富豪だかの別荘だったらしく、外装もさることながら、内装も美しい。百年近く前に造られたらしいけれど、古びた感はまったく感じられない。半円形に張り出されたベランダが目を惹く。
どういう経緯でこの屋敷を手に入れたのか、あえて訊かないけれど。
どうせ、「あまり大きな声では言えない」手を使ったに違いない。
正面入り口には、看板が立てられている。
『占いの門』
ネーミングセンスを疑う店名だけど、商売の名が記されているのは、わかりやすくていいのかな。
この看板を見るたび、毎度首を傾げてしまう。
こんな胡散臭そうな店にも来客はそこそこあって、このひと夏である程度は稼げそうだ。
・・・愉快なことじゃないけれど。
いかにも重々しいチーク製の建具枠の外側に、石製の太いアーチ状の額縁が廻らされている。
重い扉を開け、屋敷の中に入る。
朝の散歩から帰宅したわたしを出迎えてくれる人はなく、広い屋敷の中、おそらくは寝室か書斎のどちらかにいるだろうご主人様のもとへ、足を向けた。
わたしのご主人様は、書斎にいた。
ゆったりとくつろいだ姿勢で、寝椅子に横たわり、そして本を読んでいた。
「おや、おかえり、ミズカ」
「・・・何を読んでいるのかと思えば。いったいどこからそんなものを手に入れたんです」
サクラ材の丸卓子に山積みになっているのは、少女漫画と小説。小説は、「ライト」が上につく類のものだ。
「ミズカも読んでみる? なかなか興味深いよ?」
「けっこうです。それよりユエル様、せめてお召し替えなさってください」
夜着のままなのだ。シャツのボタンは上四つをはずしているせいで、胸元がはだけてしまっている。女ではないから見えても・・・まぁ、いいのだけど。
わたしが仕えているのは、貴公子然とした青年。年の頃は・・・二十代半ば・・・に見える。
緑色の瞳が白絹のような肌に映える。白髪ではないつややかなプラチナブロンドは長く、肩にかかっている。
手にしている少女漫画に登場してきそうな容姿で、「白皙の美青年」の見本みたいな美貌の持ち主だ。
わたしは日本の生まれだけど、ユエル様の生まれ故郷は、知らない。
日本語だけじゃなく、何ヶ国語かを自在に操れるのは羨ましいかぎりだけど、ここ数年は日本から出ていないから、日本語以外の言語を使う機会は、めったにない。
「もう日も高いです。お早く着替えて、開店準備をしてください」
「・・・ミズカ、これを下げてきて」
「なんです?」
手渡されたのは、木材の小さなプレート。そこには、『臨時休業』の文字が記されてある。
「お休みするなんて、聞いてないですけど」
「臨時の休業だからね」
「・・・ユエル様」
「そうしかめ面をしないで、ミズカ。実は今日、客が来るんだよ」
「お客様、ですか?」
「昨夜遅くに連絡が届いてね。それでミズカには知らせなかったが。たぶん、二人・・・だと思うが」
「ユエル様のご友人ですか?」
「・・・う〜ん、一人はたしかに友人だけどね」
苦笑して、ユエル様は答えた。何か意味ありげな笑みにも見えたけれど、ユエル様は不可思議な人だから、わたしにその心の機微を読み取るなんて、まだ、無理だ。
「わかりました。でも、その漫画は片付けてくださいよ」
「何故? 面白いのに」
どういう意味の「面白い」かはわからないけど、ユエル様のような美貌の青年が読み耽っていていいものじゃありません。・・・などとは、とても口にできない。ユエル様をやたらと持ち上げるのはいかがなものかとも思ったし。
「吸血鬼を題材に扱った漫画や小説というものは、少女向けに多いのだね。しかも偏っていて興味深い」
「吸血鬼って・・・ユエル様」
今度はわたしが複雑な表情をする番だった。
「吸血鬼とやらは切なく哀れで耽美な存在のようだな。そして、意外に一途、と」
それが今まで読了した漫画などから集積した「吸血鬼」の総イメージらしい。
「私に男色の趣味はないが、たしかにそうした趣味の奴もいたな」
くすっと、悪戯っぽく笑う。まさに、艶然と。イメージ通りに。
「的を射ていることもあるね。血を吸うのではなく、「生気」を吸うというのは、確かにその通りだ。不老で長寿なのも、たしかにそうだね」
かつての吸血鬼のイメージといえば、血に飢えた亡者、牙をむいて処女に襲い掛かる怪しい夜の魔物、といったところだ。ブラム・ストーカーが書いたような。
「にんにくや十字架、日の光が弱点じゃないことも、よくわかっているね。信仰心が弱点と描く者もいるようだが、これはどうだろうね?」
実のところ、日本にいると信仰心の篤さを畏怖するような場面には、出くわさない。
「ユエル様、吸血鬼という言い方は嫌ってらっしゃったのに」
「他にないからね、日本語では。妖怪、という言い方は広義すぎるしね」
つまり、「吸血鬼」なのだ。わたし達は。
厳密に言うなら、わたしは少し違うけれど。
ユエル様は生き物の生を吸って「生きる」、人外の存在。
占いなんてふざけた商売を、ひと夏限定で始めたのは、容易く人間の生気を得るためだ。
もちろんお金も要るので、
「一石二鳥のいいアイディアだろう?」
と、ユエル様は言うけれど。
もっと他に方法はなかったのかしら。
当たるのかどうか微妙な占いなのに、客の入りはいい。それも、女ばかり。
鑑賞に値する美青年を一目見ようとやってくるのだ。しかも、料金を払って。
「当然のことだね」
とユエル様は嘯く。
まったくもって、自意識過剰なご主人様だ。
もっとも、自惚れてもいいほどの美貌の持ち主には違いないのだけど。
謙遜という言葉と意味を、教えてさしあげたい・・・。
「自己を正しく評価することこそ、美徳だと思うが?」
「過大評価に陥りがちです、ユエル様は」
「相変わらず、歯に衣を着せない物言いだね。まあ、それがミズカらしさで、長所でもあるか」
「ユエル様こそ相変わらずの不遜っぷり。ある意味、安心します」
「それはどうも」
婉然と、ユエル様は笑った。
吸血鬼という言い方しかできないのは、わたしも不本意だ。
血を吸ってもいないし、ましてや鬼でもない。
でも、他に呼びようがないのだから、仕方がない。
仕方がないといえば、ユエル様の気まぐれもそうだ。
段ボールに漫画本を詰め込みながら、ため息をつく。
「ミズカ、それらをどうするつもり?」
「売ります。たいした金額にはならないでしょうけど、邪魔になりますから」
吸血鬼のわたし達の食料は、人間の生気だ。
だから食料を調達する費用は必要ないけれど、人間のフリをし、「生活」していくには何かとお金がかかる。
そのために働くこともある。
そうしなくても、なぜかユエル様は「財」を有していて、時々それを「換金しておいで」とわたしに託すことがある。そしてそれはかなりの金額になって、贅沢さえしなければ、それで三、四年は楽に暮らせる。
何もせず遊んで(というか、だらけて)暮らすこともあるけれど、何食わぬ顔で学校に通ったこともあった。
わたしは生徒、ユエル様は教師になりすまして。
「秋になったら、またどこかの学校にもぐりこもうか。一番生気が得やすい場所だしね」
「・・・ユエル様がそうなさりたいのなら」
「ミズカも、短い間だが、学生生活を楽しめるだろうしね?」
「・・・・・・」
優しい一面を、思いきり自慢げに出して、ユエル様はふんぞり返る。
かつて・・・ただの人間だったわたしは、学校などに通える身分ではなかったから。
「十七歳、になったのだったね? ミズカの年齢は」
「たぶんそうだと思いますけど」
もう何十年・・・いや、百何年か前の話だ。
わたしが、わたしのことで知っている事といえば、「水果」という名前と、孤児だということ、そしてたぶん十七歳くらいだということ。
十七歳というのにしたって、人間だった時の最後の年齢だ。
親なしだったわたしは施設を転々とし、読み書きを覚えた頃になって、とある子爵家のお屋敷に上がった。下働きとして雇われたわけだけど、待遇は「下の上」といったところだった。残り物の寄せ集めという内容の食事が二度と、蚤の涙ほどの給金。
「みすぼらしいという言葉がぴったりだったね、あの頃のミズカは」
あの頃、たしかに、みすぼらしいの一言に尽きる、わたしだった。
今では小奇麗な服を着られて、学校へも通わせてもらえた。
食事の心配は・・・ユエル様が傍にいる限り、保障されているわけだし。
「ミズカ、礼なら、いつでも受け取るよ?」
わたしの手を取り、ユエル様は匂いたつ薔薇のように笑う。
ユエル様の幻術に、わたしはかからない・・・はずなんだけど。
顔が赤くなっているような気がして、手を引いた。
「喉、渇きましたね。何か冷たいものでもお持ちします」
「・・・・・・」
何か言いたそうに、ユエル様は立ち上がったわたしを見上げる。
けれど結局口にしたのは、
「君が昨日買ってきたミントティーがいいな」
という、注文。きっと、言いたかった事ではないだろう。
「わかりました。じゃ、その間にこの本、段ボール箱に詰めておいてください」
「はいはい」
主人に対しての口利きは、かつて奉公に上がっていた家で身につけたはずだった。
ましてや主人に「命令」するなど、言語道断。
だけど、過去の思い出と一緒にそれらは忘れてしまった、現在のわたしだ。
ユエル様は、困ったような、呆れたような、そして安堵したようなため息をついて、笑う。
・・・お礼なんて、今さら気恥ずかしくて言えません、ユエル様。
臨時休業の看板を見て、残念そうに立ち去っていた女の子達を、窓越しに見送った。
絶世と称してもあながち言い過ぎともいいきれない美形の占い師を一目見ようとやってきた女の子達に、無駄足を踏ませてしまった。
申し訳ないような、ほっとしたような。
ユエル様の食事となる女の子達の大半は、学生のようだ。
「それで? お客様はいついらっしゃるのですか?」
二杯目のミントティーを用意し、テーブルに置いた。
「さあ。今日中には来ると思うが」
着替えを済ませたユエル様は、居間のソファーに腰かけ、くつろいでいる。やはりその手に、文庫本を持って。
臨時休業ということもあって、着替えてはきたものの、夜着よりはきちんとしているという程度の衣服だ。
長袖のシャツだから、露出は少ない・・・と言いたいところだけど、淡い浅黄色のシャツのボタンは下半分しかとめてない。
もうっ、目のやり場に困るんですけどっ!
ユエル様はグレンチェックのパンツをはいた長い足をゆったりと組み、くつろいでいる。
「・・・あの、ユエル様? 一応確認しておきますが、やはり、同族の方々でいらっしゃるんですよね?」
「ん、ああ、そうだよ。・・・そう、『同族』だ」
「?」
ユエル様は文庫本をテーブルに置き、代わりに冷えたミントティーを取った。
わたし達は、固形物は食べられない。けれど液体ならば、摂取できる。
どういう仕組みなのかは解からないけれど、なんでも液体は体内で蒸発するらしい。
だから「飲む」ことはできて、ゆえに味覚もちゃんとある。
付け加えると、わたし達は人間の生気を「吸う」わけだけど、それを「飲む」という言葉に置き換えている。誰が聞いても怪しまれないように、ということらしいけど。
ユエル様はミントティーで喉を潤し、一息ついてから話し出した。
「ミズカに、話しておかねばなるまいね。私達のことを」
「・・・はあ」
私達のこと?
吸血鬼だということ以外に、まだ何か説明が必要なことがあるの?
珍しく真面目な顔つきのユエル様だ。深刻な話なのだろうか。
ユエル様に座るよう促され、差し向かいのソファーに腰かけた。
「もっと早くに話しておくべきだったかもしれないと、今さらに思うが」
「・・・・・・」
もったいつけた話し方は、相変わらずだった。けれど、戸惑っているユエル様を見るのは、ずいぶんと久しい。
「長寿の代償として、子孫を残すことはできないと、これは以前話したね?」
「・・・はい」
「だが、私達は不死ではない。どんな形であれ、いずれ死は訪れる」
消滅する、らしい。人間の死とは違う。塵になり、肉塊は残らないと聞いた。
それを怖くないといえば嘘になるけれど、人間だって死んでしまえば骨が残るだけ。さほどの違いはない。自分に、そう言い聞かせていた頃もあった。
「さて、ミズカ。不思議に思わない?」
「は?」
「私達は長寿だが、いずれは消える。そして伝説の吸血鬼のように、血を吸う行為で仲間を増やすということは、しない。というか、できないのだけどね。とすれば、私達は全滅してしまってもおかしくないのでは、と思わない?」
「!」
その通りだ、言われてみれば。
わたしは目を瞬かせ、ユエル様を見つめた。
かつて、ただの人間だったわたしは、ユエル様によって、吸血鬼の「眷族」にされた。
血を吸われると吸血鬼になる、という伝説に多少は似ているけど、実際はそんなものではない。
わたしはユエル様によって、生気を分け与えられ、たしかに吸血鬼の仲間になった。
わたしのような存在を「眷族」というのだという。そして、「眷族」は「主」の生気のみを糧に生かされている。
だからわたしはユエル様の生気しか受けつけない。人間の生気を直接「飲む」ことができないから、ユエル様がいなくなってしまったら、わたしは飢えて消えてしまう。・・・それだけの存在だ。
「ミズカ、誤解をしないで。『眷族』はただ従属するだけの存在ではないのだよ。とても・・・大切な存在なのだから」
ユエル様が悲しそうに、そう言った。本当に、申し訳なさそうな顔をしたのだ、あの時。
わたしを「眷族」にし、吸血鬼たる自分の素性を明かした、あの時に。
遠い・・・遠い記憶。
不思議と、いつまでも色あせない思い出も、ある。
―――雨の港で行き倒れている銀髪の異人さんを見つけた。
それが、すべての始まり。
行き倒れていた異人さんをそのまま放ってはおけず屋敷に連れ帰ったのだけど、当然わたしの雇い主はいい顔をしなかった。部屋も貸してはくれず、寒い使用人用の宿舎で、意識の混濁している異人さんを介抱するしかなかった。
介抱の甲斐があったのかどうなのか、翌朝どうにか回復した異人さんは、わたしと、そして一応はわたしの雇い主に礼を述べ、屋敷を出て行った。
後日、異人さんが現れた。
身なりを整え、豪奢な格好し、最新式の車に乗って。
外国の貴族の子息で、相当な財産家。それを知ってあからさまに態度が変わったのは、わたしの雇い主のほうだった。
米搗きバッタもそこのけにぺこぺこし、両手をこすり合わせて言い訳と世辞とを繰り返した。
けれど、異人さんは表情一つ変えず、淡々とした口調で用件のみを述べた。
「その娘を買い受けたいのだが、幾らならば手放してくれようか」
その娘――
つまり、わたしのことだった。
来訪の理由に、わたしは仰天した。寝耳に水・・・どころじゃなく、氷水だ!
結局。
とにもかくにも、わたしは売られてしまった。
わたしは、たったの一面識しかない異人さんのお屋敷に上がることになった。
わたしが働いていた子爵家の屋敷の何倍もある立派な邸宅を唖然と眺め、・・・・・・絶望した。
手のあかぎれが消えないほどの掃除が、わたしを待っている。朝から晩までこき使われるに違いない。
そう思っていたのに。
わたしを買い取った新しいご主人様―ユエル様―は、わたしの手をとって、「すまない」と謝ったのだ。
買い取る、という行為に対して、ユエル様自身、気分を悪くしていたらしい。
「人身売買など、恥ずべきことだ」と。
ユエル様はわたしにキレイな服を着せてくれ、女学校で習うような勉強は一通り教えてくれた。
仕事も、させてもらった。これは、わたしの方から頼み込んで。ただ飯食いなんてイヤだったから。
でも使用人は他にも沢山いたから、残っている仕事は僅かしかなかったんだけど。
どんな目的でこんなに優しくしてくれるのかと、最初は気味が悪かった。
でも、いつしか、わたしは現状に慣らされた。不安感と疑問は僅かに残ったものの、暗い疑惑は薄れていった。
ユエル様の元に召されて、二年が経った。瞬く間に。
・・・そして・・・――
わたしはユエル様の「眷族」になったのだ。
忘れてしまったことも多いけれど、忘れられずにいる思い出も多い。その大半が、ユエル様のことだ。
わたしの嘆息をどう受け取ったのか、ユエル様は、深く息をついた。
わたしはじっと、ユエル様を見つめた。話の続きを、急かすように。
ふっと、わたしの視線を断ち切るように、ユエル様は目線を逸らした。
「眷族の意味についても、話しておかねばならないね」
「え?」
話が逸れた? 吸血鬼の絶滅危機についての話じゃなかった?
わたしが首を傾げ、ユエル様が再びわたしのほうに向き直った、その時。
ビーッという、味気ない電子音が鳴った。
玄関のドアの横に設置された呼び出しブザーの音だ。
わたしは腰を浮かせた。中座することに多少戸惑ったけど、行っておいでとユエル様の目に促され、急いで玄関へ向かった。その間にもブザーは三度ほど鳴った。
せっかちな人だな。
ユエル様のお客様なのは間違いないだろうけど。
ドアを開けると、そこにいたのは確かにユエル様目的の来訪客だった。けど・・・。
「あら、あなた」
反射的に、わたしは軽く会釈をした。
茶系のサマーニットと麻素材らしいドレープのきいた膝丈のスカートを召している、若い女性客。
日よけのためにではなく被っているつばの狭い帽子の下から、突き上げるようにしてわたしを見る。美人といえなくもないけど、赤く塗りたくった口紅と、鼻をふさぎたくなるような香水の匂いが、美しさを損なわせている。
「ユエル様はいらっしゃる?」
客には違いないが、ユエル様が待っているお客様ではない。
この女性は常連客だ。一週間、通い詰めの。
「あの、今日は臨時休業なのですが」
「でもユエル様はいらっしゃるのでしょう?」
言葉遣いは丁寧だ。だけどそれは礼儀正しいと同義語ではない、この客に限っては。
「あなたに用はないの。ユエル様を呼んでいただけないかしら」
「・・・・・・」
一歩、彼女は前に進んだ。わたしを押しのけて屋敷に入ろうとする。
「ちょっとあなた、邪魔。ユエル様にお会いしたいのよ。どいてくれないかしら」
「あの、ですね」
あまりに不躾ではないかと、非難しようとした。
どこかの財閥の令嬢だとかいうけど、あまりに礼儀を失している。
「お待ちください、今、わたしが」
「どいてったら。・・・あらっ」
屋敷内に侵入しようとする彼女の足を踏みとどまらせるのに成功したのは、結局、ユエル様だった。
「ユエル様っ」
声も顔も、さっきのそれとはまったくの別人に成り変り、彼女のわたしを押しのける手にさらに力が加わった。
ほんの少しわたしがふらついたのをユエル様は見過ごさず、とっさに手を差し伸べて、わたしを寄せた。というか、わたしを盾にしている。背後からわたしの肩に手をおいて、そして押しかけてきた来客と対面する。
「やあ、いらっしゃい。・・・アヤコさん」
名前を呼ぶ一瞬前の「・・・」は、記憶をたどるための「・・・」だ。思いだせたのは良かったけれど、その短い間と、わたしの肩に置かれている手が、「アヤコさん」はお気に召さなかったようだ。
紅く濡れたような唇が、歪む。そして鋭くわたしを睨みつけてきた。
「今日は、店は休みなのですが」
「看板を見ましたから、それは存じておりますわ」
それなら何用ですか。そうユエル様が問う前に、アヤコさんは片手に持っていた瓶を差し出した。
「こちらをお持ちいたしましたの。シュペートレーゼの白ワインですわ。それから」
ユエル様は瓶を受け取った。紙に包まれているから、ラベルは見えない。ドイツのワインらしい。
「こちら、招待状ですの」
つまり、こちらが本命ということだ。
ユエル様は、アヤコさんが差し出した封筒を、ワインの時とは違ってすぐには受け取らなかった。
「三日後、わたしのホテルでパーティーがありますの。ぜひ、ユエル様もいらしてくださいな」
「・・・・・・それは、ありがたいお申し出ですね」
ユエル様は返答を避けた。けれどアヤコさんは諾と取ったみたいだ。笑顔が崩れていない。
アヤコさんはたぶん、脳内でユエル様の了承を聞いたのかもしれない。あるいは、断られることは想像外なのかもしれない。それにしても「わたしのホテル」とは。ずいぶんと簡略したものだ。
「わたしの泊まっているホテル」という意味でないことはわかるけれど。
とりあえず招待状は受け取った。わたしが、代行で。
「それで、ユエル様? 今日はお暇ですの?」
せっかく訪ねてきたのだ。何の収穫もなく帰るつもりはないらしい。
「もしお時間がおありでしたら、わたしの別荘へ遊びにいらっしゃいません? ちょうど昨日・・・」
「アヤコさん」
ユエル様は優しげな、それでいてきっぱりとした声と態度で、アヤコさんのお誘いを断った。
「残念ですが、実は今、来客中なんです。とても大切な客なのですが、アヤコさんがいらしたようなので中座してきたのですよ。が、そろそろ戻らなくては。ミズカ」
ユエル様の手が、わたしの肩から離れた。
「ミズカ、そこまでアヤコさんを送ってさしあげなさい」
「あ、はい」
「いいえっ、結構ですわ」
この時のアヤコさんの表情は、とても複雑なものだった。
アヤコさんが来たから、わざわざ顔をだしたのだと言ってくれたそのことは特別扱いされているようで嬉しかったみたいだけど、反面、追い出されている気分にもなったらしく・・・実際、追い返そうとしているのだけど・・・ユエル様の申し出は即座に「遠慮」した。
もちろん、ユエル様は断るとわかっていて、わざとそう言ったのだけど。それまでは気がついてないかな。
「それではまた、ユエル様。ごきげんよう」
挨拶だけ聞いていると、育ちも品も良いお嬢様そのものなんだけどな。
小走りになって屋敷から遠ざかるアヤコさんの姿を、ユエル様はたったの一秒も見送らなかった。
ようやく帰ったかと、ほっと胸を撫で下ろしている。
「ユエル様、そのワイン、ワインセラーにしまっておきます」
「ああ、頼むよ」
「それにしても、とっさの機転でしたね、来客だなんて」
「いや」
「え?」
居間に戻ると、さっきまでユエル様が座っていたソファーに、見知らぬ美女が座っている。
「ええっ?」
わたしは思わず、素っ頓狂な声をあげてしまった。