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逡巡と衝動の交差点

 大雨の注意報が発令されたのを、さっき、ニュースで見た。
 注意報だけど、局地的には警報が発令されてるんじゃないかしら、というほどの雨量だ。
 ガラス窓を叩きつける雨はいよいよ勢いを増し、わたしの声をかき消してくれる。声だけではなく、羞恥を誘う熱い音も。

* * *

 今日は朝から降ったり止んだりのぐずついた空模様で、太陽の姿はほとんど見られなかった。
 定時に仕事を終え、帰宅の途についた頃は、少しだけ雲が切れて雨もしばしの間止んだのだけど、日が暮れると同時に……そして、わたしの一人住まいのアパートに高倉維月さんがやってきてすぐに、雨はまた降りだした。
「また、ずいぶん降ってきちゃいましたね」
 温度計と湿度計を確認しつつ、空調の温度を設定する。
「維月さん、暑くないですか?」
 体を熱くするだろうアルコールを摂取している人に訊くと、「ちょうどいいよ」と笑顔が返ってきた。
 七月も半ばを過ぎ、梅雨明け宣言をニュースで聞いたばかりだと言うのに、この雨だ。少し気分が滅入る。雨は嫌いじゃないけれど、蒸し暑くて重たい空気はやっぱりちょっと苦手で、テンションも下がり気味になってしまう。けれどわたしなんかより、維月さんの方がもっと疲れているはずなのだ。つきかけたため息をぐっと堪えた。
「維月さん、もしかして明日も出勤なんじゃないですか?」
「ん? ああ、いや、どうかな。もしかしたら呼び出しはかかるかもしれないけど、一応休みだよ」
「……そうですか」
 七月に入ってすぐ、顧客からのクレームが相次いでしまい、その対応と処理に奔走していることは聞いている。もちろん維月さんだけじゃなく、顧客の対応業務に就いている何人かの社員は維月さん同様、土日の休みを返上してるらしい。
 毎日の朝礼で経過報告だけは聞くけれど、わたしのような派遣社員は、休日出勤は基本的になく、依頼されるのはせいぜい残業くらい。先週までは、わたしもほんの二時間程だけど残業をしていた。今週に入ってからはどうにか通常業務に戻れて、週末の今日金曜日も、定時に上がれた。
 どうやらクレーム処理はスムーズに片付いてきているようだ。
 それでも維月さんの仕事量は減っていないようで、日々、忙しそうだった。
「あの、維月さん、あんまり無理しないでくださいね。あ、っていうか、いいんですか、うちに帰らなくて? 疲れてますよね、いつも帰るのが遅くなって日付変わっちゃうなんてこともけっこうあるって……。うちでゆっくり休んだ方がいいんじゃ……」
「うん、まぁ、そうだな……。無理をしてるつもりはないけど、さすがにちょっと疲れてるかな」
 維月さんはくすりと苦っぽく笑って、空になったグラスを振って見せた。
 本日の維月さんの飲み物は、アルコール度数の高い、ドイツの“キルシュヴァッサー”という無色透明のスピリッツ。サクランボを発酵させてつくった蒸留酒で、ドイツのシュヴァルツヴァルトの名産品らしい。甘いような酸っぱいようなフルーツブランデー、その香り自体は好きなんだけど、アルコール度数40なんて、わたしには高すぎて飲めそうもない。ってことで、わたしは梅のチューハイをちびちび飲んでいる。
 フルーツブランデーを氷でも水でも割らずにストレートでさらさらと飲みほし、それでも維月さんはいささかも顔色を変えない。ううん、変わっているかも。匂い立つような艶色に。
 維月さんはわたしを見つめ、
「いつもより酒量が増えるくらいにはね」
 と、艶笑して言った。
 そんなに飲んでいないはずのわたしなのに、途端に頬が熱りだす。それが恥ずかしいこともあって、わたしは維月さんから顔を背けてしまった。
「で、ですよねっ、疲れて当然ですよねっ」
 うっかりお酒を出してしまったから、このまますぐには帰せない。や、ごく当然と言った風に酒瓶を持ちだしてきたのは維月さんの方なんだけど。
 それに、ほんのさっき……小一時間前に来たばかりの維月さんに、「もう帰って」なんて言えないし、……言いたくなかった。
「でも、お酒飲んじゃってるから帰るにも、車はダメだし……」
 わたしはテーブルの上に並んでるグラスや酒瓶、おつまみなんかを片づけるでもないくせにちょっと動かしてみたり、汚れを拭いてみたりと、落ちつかなげに手を動かしている。
「美鈴」
「は、はいっ」
 名を呼ばれて、はっと顔を上げる。わたしの斜め向かいに座っている維月さんは、グラスをテーブルに戻すと、目を細めてわたしを見、静めた声で言った。
「ちょっと疲れてるから、今夜はここに来た。けど、そういってみれば、疲れてるのは美鈴も同じだね。……押しかけて来て、迷惑だった?」
「違います!」
 慌てるあまり、声が詰まりそうになった。
「そんなことは全然ないです! 来てくれて、驚いたけど嬉しかったです。って、いえ、わたしじゃなくて、維月さんの方です! わたしのことなんかより、自分のこと心配してください! やっぱりゆっくり休んで体の疲れをとったほうがいいんじゃないかと思うんですけど。わたしは、お酒を飲むくらいは一緒にできるけど、でもかえって気を遣わせちゃってるんじゃないかと思うとそれが心配で。それに迷惑なのはわたしの方こそじゃ……」
 誤解を解きたくて、早口になってしまう。もう自分で何を言ってるのか、わからない。
 疲れているだろう維月さんに心配をかけて、さらに疲れさせてしまうなんて!
 せっかく会いに来てくれたのにその気持ちを踏みにじるようなことを言っちゃって、自分の気の利かなさに泣きたくなった。思考はネガティブに偏っていくばかりだ。
「わたしばっかりが維月さんに癒されてますよね……。来てくれて、それだけで嬉しかったから、維月さんのこと後回しになってて。でもわたしにできることなんて全然なくて、力になりたくてもできなくて……」
 激しく窓を打つ雨の音にまぎれ、小さくなっていくわたしの声は、もしかしたら維月さんに届かなかったかもしれない。
「美鈴」
 しゅんと項垂れるわたしの傍にいつの間にか寄って来ていた維月さんが、鋭く名を呼んだ。わたしは再び維月さんの方に顔を向ける。……向けようと顔を上げたのと同時に、維月さんがわたしの後頭部に手をまわした。
 暑いからと、後頭部で一つにまとめ、バレッタで留めていたわたしの髪がぱらりと肩に落ちる。
 維月さんが、バレッタをはずした。
「さっきも言ったけど、今日は、疲れていたからこそ美鈴に会いに来た」
「…………」
「溜まった疲れをとるにはいろいろ方法があるんだよ。とくに、男は」
「……?」
 わたしは首を傾げ、維月さんを見つめ返した。維月さんは悪戯っぽく笑って、わたしの髪を撫ぜてくる。ひどく、くすぐったい。
「それには美鈴の協力がいる」
「……わたし、の?」
「美鈴を、もっと疲れさせることになるけど。そのつもりで来たって言ったら、怒る?」
「…………」
 色めいた表情、そして甘い声で囁かれて、言葉の意味が分からないととぼけることはできなかった。
 維月さんは、ズルイ。
 言葉巧みにわたしを誘導して、わたしを頷かせる。
 鬱に沈みそうだった気分も羞恥心も、維月さんは全部飲みこんで、そして笑ってねだってくるのだ。「欲しい」と、わたしを見据えて。

* * *


 大気を湿らせ、土を潤し、水を滴らせる、夜の雨。
 ――そしてわたしは、今夜の激しい風雨よりももっと強く、緩急をつけて揺さぶり、打ち付けてくる維月さんという集中豪雨に翻弄されている。
 激流に呑みこまれるのが怖くて、不安で、わたしは必死の思いで維月さんにしがみついていた。維月さんもまた、わたしを離さない。
 乱れる息の合間に、何度も維月さんの名を呼ぶ。維月さんもわたしの名を呼び返してくれる。頬にはりつく髪を指ではらい、泣き濡れている瞼にキスをしてくれた。
 甘い囁きと熱っぽいキス、そして怒涛のように押し寄せてくる維月さんの、全て。
 涙があふれて、とめどなく零れ落ちる。
 わたしはもう耐えきれず、叫び声をあげた。体が強張り、両の手にも力がこもる。
「――……ッ」
 その一瞬、維月さんの眉が苦しげに寄せられた。艶めいた翳りが(ひそみ)に落ちる。
 直後、身を引き裂かれるような甘美な衝撃が走り、わたしはあえなく意識を失った。

「あの……」
 意識を取り戻したのは、それからすぐのこと。体の火照りは残ったまま、汗もひいていない。呼吸だけがどうにか落ち着きを取り戻していた。
 まだ窓の外は暗く、雨は相変わらず激しく降り続いている。
「あの、維月さん、……ご、ごめんなさい」
「うん?」
 維月さんはわたしの汗に濡れた髪を撫ぜてくれている。子供をあやすように……しては、ひどく官能的な指の動きだけれども。
 くすぐったくて、わたしは顔を上げられずにいる。俯き加減のまま、言葉の先を続けた。
「あの、さっき……、背中に思いきり爪をたてちゃって、……痛そうだったし、その、痕が残っちゃってるんじゃないかなって」
「ああ」と、笑いを含んだ声が返ってきた。
 顎を上げると、悪戯っぽく笑っている維月さんと目が合った。維月さんはわたしの頬を親指の腹で撫ぜ、「いいよ」と微笑む。

 逡巡と衝動がクロスする交差点の真ん中で、どうしたらいいのか分からずうろたえているわたしの手を取り、維月さんはいろいろな路があることを教えてくれ、そして迷ってもいいのだと宥めてくれる。
 巡り巡ったその果ての衝動を、維月さんは受け容れてくれる。
 時には強引に抱き寄せて、温かな四肢で檻をつくり、わたしを閉じ込めてしまうこともあるけれど。

 わたしは維月さんの手に、自分の手をそっと重ねた。
「美鈴」
 維月さんがわたしの名を呼ぶ。
 その、少しためらいがちな声が好き。少し強引なキスも。熱い抱擁も。
 維月さんはおでこをくっつけてきて、ふっと笑い、わたしを誘惑する。
「いいよ、美鈴。もっとたくさん痕を残しても。――俺が美鈴にするように」

 雨はまだ止まない。

 そしてわたしは、雨月の夜に溺れ、酔い痴れる。

* 終 *

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