昼食時、社員食堂は大賑わいだ。
同じ部署の先輩と一緒にお昼ご飯を食べにきたのだけど、小洒落たカフェテリア風のわが社の社員食堂は、昼時になるといつも満席。見渡す限り、空席はない。
久しぶりに来たけれど、相変わらずの混雑ぶりだ。それに、同じ会社の人達とはいえ、知らない顔も多い。大企業というほどではないにしろ、それなりに大きな会社なんだなってことを改めて認識させられる。
「いつものことながら、混んでるねぇ」
九歳年上で、同じ派遣社員で勤労主婦の浅田さんは「どうしようか」と言いつつ、獲物を狙う猛禽類の鋭さで、食堂をくまなく眺めている。
わたしは「そうですねぇ」と相槌をうつ。
「ところでさぁ、木崎さん?」
浅田さんは体半分だけ振り返り、後ろにいたわたしの顔を窺ってきた。
「木崎さんって今、彼氏いる?」
「はぁ……って、はえぇっ?!」
いきなり投げかけられた質問に、わたしは頓狂な声をあげてしまった。
社員食堂の入り口付近にいる数人が、奇声を発したわたしの方に顔を向けてきた。刺さってくる視線が痛くて身を竦ませたわたしだけど、突飛なことを言い出した浅田さんを睨みつけた。
「ちょっ、なんっ、なんですか、浅田さん、突然っ」
「いや突然は認めるけど、訊きたかったのよねぇ」
浅田さんはからかうような笑みをわたしに向けて言う。
「ちょっと前はいないって言ってたけど、最近はどうなのかと思ってね」
「…………」
「その様子じゃ、いるんだ、彼氏」
「それは、えぇっと」
「そっかぁ。うんうん、やっぱそうかぁ」
笑うと八重歯がちらりと覗き、そのせいか年齢よりずっと若く見える浅田さんは、高倉主任より二つ年上。ベリーショートの髪型が似合うさっぱりとした性格で、高倉主任曰く、「うちの課で一番漢気がある」人。
勤続年数も、高倉主任とそんなに変わらないということもあって、高倉主任と浅田さんは仲がいい。仲がいいというより、信頼しあっている、という感じかな。会社の内でも外でも、それは変わらない。だけど「友達」なのかというと、それも微妙なところだと思う。
以前は、高倉主任と浅田さん、そしてわたしの三人で飲みに行っていた。浅田さんが結婚してからは、わたしと高倉主任の二人で飲みに行くようになった。だけど、それは浅田さんにはまだ言ってない。隠すのは気がひけたけど、言い出すタイミングが見つからなくて、未だに内緒にしている。
浅田さんは持っていた長財布を小脇にはさんで両腕を組み、一人「うんうん」と頷いて得心している。
「いやぁ、あたしの勘もまんざらじゃないね」
浅田さんは何やら嬉しげだ。
「木崎さんって、会社ではあまり感情ださないようにしてるけど、最近、すごく感情豊かよね? ちょっと雰囲気変わったっていうか」
「そ、そうですか?」
「うん。ぎゅっと握って転がしたいくらい」
「……なんですか、それ」
浅田さんはカラッと晴れた空みたいに笑って、続けた。
「木崎さんさぁ、春だからってこともあるかもしれないけど、落ち着かなげで、なんかこう……小動物みたいなのよね、最近。ハムスターとかそんな感じの」
「はぁ?」
浅田さんは可笑しそうに笑っている。なんだか楽しそうだ。
こういうところ、浅田さんって高倉主任と似てるかも。そういえば一緒に飲みに行ってた時も、二人に遊ばれていた……気がする。
「木崎さんって、反応が面白い」って、声を揃えて言われたこともあったし。
わたしは少しだけ口を尖らせて、浅田さんをじっとり見つめた。
浅田さんはにこにこ笑ったまま、今度はストレートに言った。
「木崎さん、可愛くなったよねってこと」
「……てっ、なっ、何を急にっ」
思わずのけぞってしまった。
顔が赤くなってるのが、自分でもわかる。
「う〜ん、その反応とか。オヤジに狙われちゃいそうで、危ないなぁ」
「……オ、オヤジ……?」
「セクハラ中年にご用心ってこと。『お嬢ちゃん可愛いねぇ。オジサンが何か買ってあげるよ? 欲しいものはないかい?』って具合に誘われて、拉致されかねないな。オヤジの甘い言葉に騙されちゃダメよ?」
浅田さんはふざけた調子で言うのだけど、どうやら本気でわたしのことを心配してくれているらしい。心配の方向性がたとえちょっとずれているにせよ。
もちろん、心配してくれてるのはありがたいことなんだけど、わたしは堪えきれず、
「ぷっ、く……っ!」
噴出してしまった。
浅田さんは怪訝そうな顔をして、細目でわたしを睨めつける。
「何でそこで笑うかなぁ?」
と訊かれても、頭に思い浮かんだ人の名を、口にはできない。
「オヤジ」なんかじゃ全然ないし、騙されてもいないから(からかわれてると思う時はあるけど)、思い浮かべること自体、失礼なんだけどっ!
浅田さんが知ったらなんて言うかな。
怒りはしないと思うけど、
「七つも年下の子に手を出すなんて!」
っていう小言はあるかもしれない。
わたしより七つ年上のその人は、きっと肩を竦めて苦笑するだろう。
想像すると、可笑しい。可笑しいけど、だからちょっと、浅田さんに内緒にしてることが、少し、後ろめたかった。
浅田さんの人となりを知っているから尚のこと、心苦しい。
高倉主任とのこと告白してしまうか否か、まだ決めかねている。高倉主任はきっと、「浅田さんになら話してもいいんじゃない?」と言うだろうけれど……。
わたしは笑いをおさめて、胸にたまっていた息を吐き出した。
それと、ほぼ同時だった。
「浅田さん、木崎さん」
少し離れた場所から、声が上がり、わたしと浅田さんは声のする方に目をやった。
そこに見つけた顔は、わたしの頭にさっきから浮かんでいた人。
「ここ空くから、おいで」
にこやかに笑って、高倉主任がわたしと浅田さんを手招いていた。
わたしは上げそうになった奇声を、前歯の裏っ側でなんとか押しとどめた。
心の準備を与えてくれないという点でも、高倉主任と浅田さんは、似てる。
二人はきっと声を揃えて言うだろう。
「驚かせるつもりはないんだけど。木崎さんが気づかなさすぎ」、と。
* * *
慌しく昼食を済ませ、仕事場へ戻る途中だった。
小休憩所でコーヒーを飲んでいた高倉主任に呼び止められた。
別段声をひそませるでもなく、高倉主任が尋ねてきた。
「浅田さんに、何を言われてたの、木崎さん?」
当の浅田さんは、いない。食堂を出たところで別れた。
浅田さんは事務長に用があるからと言って、総務部へ向かった。それを知ってか知らずか、高倉主任はわたしが一人で仕事場へ戻るところを、タイミングよく、つかまえた。
高倉主任は、もの言いたげな色を瞳に含ませている。
どうやら、わたしと浅田さんが食堂の出入り口で話していたところを見ていたらしい。気にかかるというほどでもないけれど、「やっぱり気になって」いたようだ。
「浅田さん、嬉しそうな顔をしてたけど?」
「はぁ、……その」
どう言えば、何から言えば……、と、戸惑って、口ごもってしまった。
「たいしたことじゃないんですけど……その、浅田さんに見抜かれてしまったというか……」
答えてから、わたしは周囲を見回した。
同じ部署の人はいないけど、見知った顔の人が廊下を通っていく。こちらに注意を払う人はいなかったけど、『壁に耳あり、障子に目あり』ということもあろうかと、高倉主任との間にもう僅か、距離を置いた。
「見抜かれた?」
「……か、彼氏がいるんだろうって」
う、わっ! 当人を前にして、何言っちゃったんだろう、わたし!?
まともに高倉主任の顔が見れず、慌てて両手で口を隠した。
高倉主任は目を瞬かせた。それから小さく笑った。
「さすがだね、浅田さんは」
「は、はぁ……」
間の抜けた声が、わたしの口からこぼれ出た。
「まぁ、でも最近の木崎さんは分かりやすいから」
ぽんっと、高倉主任はわたしの頭を軽く叩いた。
「そ、そうですか?」
我ながら頼りない声で、聞き返した。高倉主任はまだ「高倉主任」の顔をして、笑っている。
「うん。以前に比べたら、ずっと」
「…………」
困ったな、と呟いた。気をつけなきゃ、と肝に銘じた。
読心術を心得ているとしか思えない高倉主任は、一歩、わたしに歩み寄り、そして声をひそめて訊いてきた。
「可愛くなったとか、そんなようなこと言われたんでしょ、浅田さんに?」
「な……んっ!?」
ぎょっとし、高倉主任を凝視した。
「どうして分かるのかって? 簡単。僕もそう思ってたし、……なんというか、木崎さんの反応の仕方で」
「そんなぁ」
わたしは情けない声をあげ、肩を落とした。
高倉主任はそんなわたしを笑ってる。
砂糖を増量したコーヒーみたいに甘い瞳にわたしを映して。
わたしと浅田さんのやりとりを離れた場所で見ていた高倉主任は、ある程度話の内容を推察していたようだ。
なんていう超常的な洞察力の持ち主なんだろう、高倉主任って! ずるいよ、ほんとに!
「浅田さんも僕も、『当たり』だ」
「……うぅ」
高倉主任は、わたし以外の誰にも見られないよう、そっと微笑んだ。いたずらっぽく片目を瞑って。
もう! 敵わないよ、維月さんには!
だけどそれが嬉しいなんて、……言ってやらないんだから!
チリチリと胸が痛んだり、ドキドキと落ち着かなくて強張ったりするけれど、……もう少し今の状態のまま、内緒にしていたい。
息をひそめてささやく声と、わたしだけにこっそりと向ける微笑を、独り占めしていたいから。
* 終 *