それは夕食後の、ゆったりお茶タイムからそろそろアルコールへと移行しようかという頃のこと。
維月さんはノートパソコンを取り出して、何やら調べものをしている。時々キーボードの上で指を軽くタップさせている。「んー」小さく唸って、眉間に皺を寄せたり顎をかいたりしていた。
維月さんは昨日の昼に散髪に行ったばかりで、前髪も襟足もすっきりしている。ゆったりとした黒のTシャツとハーフパンツというラフなスタイルで、会社で見る「高倉主任」とはまた雰囲気が違ってて、なんだか新鮮だ。
七歳年上の維月さんだけど、ラフな格好をしている時は、ほんの少し年齢が近くなったように感じる。若やいで見える、といったら維月さんは苦笑するかもしれない。
昼間の蒸し暑さはやわらいで、今夜は思いの外過ごしやすい。クーラーは消し、窓を半分開けて、扇風機を回している。さっきまでつけていたテレビもスイッチオフにし、CDも流さずにいる。花火でもしているのか、はしゃぐ子供達の甲高い笑い声が遠くから風に乗って届き、パトカーのサイレンやそれにつられて吠えたてる犬の鳴き声も紛れ込んで、そろそろ十時だというのに、夏の終わりの宵はなかなか静まらず、少々騒がしい。
とはいっても、維月さんのマンションは、大きな通りから少し奥まった所にあるから、騒音と言う程の雑音はなく、ほどよい賑わいが耳に心地よいくらいだった。
食器類を一通り洗い終え、わたしはエプロンをはずして維月さんに声をかけた。
「維月さん、麦茶おかわりいりますか? それとも水割りつくりましょうか?」
「ん、……じゃぁ、水割りを。棚のブランデー、もう残り少ないと思うから」
「水割りより、ロックにしましょうか」
「うん」
返事はしてくれるけれど、維月さんはちょっと上の空だった。さっきからじっとパソコン画面を見ている。真剣な顔つきをしてるから、仕事関係の調べものなのかもしれない。
自分用の麦茶と維月さん用のブランデーを持って、維月さんの傍へ戻った。
――パソコンばかりじゃなく、わたしも構ってほしいな……と子供っぽいことを思いながら、維月さんの真横ではなくて左斜め前に腰かけた。夕食時と同じ、わたしの定位置だった。
「何か調べものですか?」
そう訊くと、維月さんは「いや」と言って、わずかに口角をあげた。
その艶っぽい微笑に、思わず身構えた。
維月さんの何か企んでいそうな悪戯っぽい微笑は……要注意だ。よからぬことを企んでて、それを実践しそうな雰囲気なのだ。それを期待してたりする自分もいるには……いるのだけど。
一瞬は身構えたものの、すぐに気を取り直して、「じゃぁなんですか?」と問い返した。
維月さんはわたしからブランデーグラスを受け取って、そのまますぐ口をつけた。それからテーブルに肘をつき、グラスを揺らして氷を鳴らした。
「昨日のアレ、ネットで見つけてね。ちょっと安くなってるから買っておこうかと」
維月さんは意外にもオンラインショップをよく利用する。本やCD、DVD、その他細々とした生活雑貨もネットで買ったりしているらしい。
――でも、昨日のアレって、なんのことだろう?
わたしが首を傾げると、維月さんはまた目を細めて、意味ありげに笑った。
「兄から、お勧めだからってもらった……昨日、使ったアレ。俺としてはなかなかよかったと思ったんだけど、美鈴的にはどうだった?」
「え? どうって……――あっ」
考えること、数秒――たぶん十秒もかからずに思いだした、「昨日使ったアレ」。
「二回目のだね。最初のはいつものゴムだったけど、違いというか、感触はどうだった?」
「……えっ、えっ、あの、えぇぇっと」
いきなり何を言いだすの、ほんとにもう維月さんは、突飛なんだから!
しかも何の照れもなく、なんでさらっとそういうことが言えちゃうの? 昨日の夕食も美味しかったね、みたいな口調で!
顔どころか耳まで真っ赤になってるのが鏡を見なくても分かる。
今夜はわりあい涼しくて過ごしやすい晩夏だなんて思ってたけど、とんでもない! 維月さんのせいで全身が熱くて堪らないんですけど!
「まぁ、付ける時にちょっと手間取って美鈴にはもどかし思いをさせたかな? 慣れればすぐ付けられるだろうからそれはいいとして」
「……っ」
わたしはもう、うんともすんとも言えず、赤面して硬直するばかりだ。
今さら照れるのもかえって恥ずかしいのだけど、それでもやっぱり、平常心で維月さんに応対なんてできなかった。
維月さんは時折グラスに口をつけながら、パソコンの画面とわたしを見ながら話し続ける。
「いつものと違って、かなり薄いし、ウレタン製なんだよ。ゴム特有のにおいがないのがウリのひとつみたいだ。薄さ自慢だけあって、美鈴の体温がよく伝わって、俺としてはよかった」
「……」
そうですかと相槌をうつこともできず、目を泳がせたりせわしなく瞬きをしたりしていた。
維月さんはからかう風でもなく、いたって真面目な様子だった。――時々目が、ちょっと含み笑いの形に細められたりはするけど。
維月さんのお兄さんの奥さんが、ゴムアレルギーの気があるらしく、数年前からゴム(ラテックス)製の物からポリウレタン製の物に切り替えたのだという。
薄いのに強度もあり、装着感、使用感も良いと勧められ、近頃一箱分けてもらったらしく、そして昨夜初めて使ってみたとのことだ。
そういえば、昨夜、そういうようなこと何か言ってたような気もするけれど……。
蕩心しきってて覚えてないよ、そんなの!
「できれば美鈴に負担かからないようにしたいから、こっちに切り替えようかなと思って。だから、美鈴の意見を聞きたい」
「えぇっと、そう言われてましても……」
避妊具ひとつにそんな風に気を回してくれて、正直、維月さんの気持ちはとてもうれしかった。
だから憶えてないとも言えず……。
憶えてないというか、もう余裕なんて欠片もなくていっぱいいっぱいで……胸が苦しくて頭がぼうっとなって、全身が蕩けるみたいに熱くなって…………あ、でもそういえば、維月さんが言うように、体温はじかに感じられたような、そんな感覚はあったかもしれない。挿入時に、たまにあった違和感が軽減されてた……かも。
「わたしは、その、今までも……痛みとかはそんなに……」
もごもごと不明瞭に言葉を紡ぎながら、ちらりとパソコンの画面を覗き込む。
ソレの値段は、セールで安くなっているようだったけれど、たぶん普段使用している物よりも……ちょっと高めの値段のようだった。いつも維月さんが用意してくれているから値段とかって詳しくないのだけど。
「わたしより、維月さんに負担がなければ……」
「痛みとか、あった?」
「え? いえ、その……」
維月さんは少し不安げな顔をしてわたしの答えを待っている。
痛み、というか……多少の違和感がある時も……。それを小声で伝えると、維月さんは「そっか」と呟き、嘆息した。
「あっ、でもアレルギーとかは全然ないし、ほんと、維月さんの好みというか、使いやすさで決めてくれれば!」
「うん。でも、できれば美鈴に負担かけたくないし、直に近い感覚で熱が伝わればいいと思ってるから」
「……っ」
伝わってますから、もう十分すぎるほどに!
甘やかなまなざしからも、唇からも、手も指も、全てで維月さんの熱は伝わってくる。激しい程の熱は、嵐のようにわたしを攪乱してくる。そうして伝わってくるのは体温だけじゃない。
けれど、維月さんはそれでも足りないと言わんばかりだ。
「美鈴、モニターになって」
「は、あ、……えっ?」
「美鈴にしか使わないから」
維月さんの腕が、いつの間にかわたしの腰に回っていた。グラスの中のブランデーはすでに空になってて、角の取れた氷だけが残っていた。カランと涼しげな音をたててグラスの中でたゆたっている。
「美鈴の感想を聞きたい」
「あ、あのっ」
慌てて身を引いたものの、手遅れだ。
「今からさっそく試してみよう。……俺も、付け慣れたいしね」
「…いっ、維月さっ、ちょっ、まっ……」
待って、の言葉は声にならなかった。
素早く口をふさがれて。
後日、維月さんのマンションにポリウレタン製のアレの箱が(しかもお徳用の三箱セットで!)届けられていたのは、言わでものこと。
* 終 *