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ときめきに策略

 今夜で何度目の“お泊り”だろう。
 ふと思って、今自分がいる部屋を改めて見回した。
 白、茶、グリーンといった優しい色合いの部屋。模様替えをして、家具の配置が時々変わっていたりもするけど、それでもすっかり見慣れた部屋だ。
 居間のソファーにゆったりと腰をおろしている人……高倉維月さんの、ブランデーを傾ける様子もまた、相変わらずのものだ。
 維月さんはごく自然な、寛ぎきった態度でわたしに話しかけてきたり、お酒をすすめてくれたりする。時には黙り込んで雑誌を見たり音楽を聴いていたりすることもある。わたしが傍にいるのが当たり前といった風で、わたしだけが維月さんのひとつひとつの些細な挙動にときめいたり、見惚れたり、落ち着かなくなったりしている。
 初めて維月さんのマンションに泊まった夜は緊張した……というよりも、「もう何が何だか分からないうちに」という感じだったっけ。
 二度目は緊張してた。三度目も四度目もまだどきどきしっぱなしで、余裕の欠片もなかった。寝ぼけて、おかしなことを言って、維月さんに笑われたこともあった。
 はじめ、維月さんもわたしの様子を窺って、
「今夜は泊っていって」
 と、懇願するような口調でわたしを引き止めた。そして少しずつ、言葉尻が変わっていった。
「今夜は泊っていくよね?」
 頼むようではなく、ほとんど確定事項のように聞いてくるようになり、近頃ではそれがさらに進化して、
「先にお風呂使って」
 と言うようになった。何気ない口調で、さらりと。
 今夜も維月さんは、それを言ってくれるのだろうか……?

* * *

「ああ、しまった」
 と、維月さんが髪をかきやり、うめいた。
 それは、洗濯物を衣装ケースに入れている時だ。わたしがたたみ、維月さんがケースに入れる、といった流れ作業の途中。
 維月さんはブルーグレイの綿シャツを見るなり、がくりと項垂れ、そしてちょっと情けない顔をして、うっかりしてたとボヤいた。わたしが首を傾げると、
「これ、袖口のところが破れていて、それで洗う前に捨てようと思ってたんだ」
 と、教えてくれた。
 捨てるつもりでいたのに、うっかり洗ってしまったことが口惜しいらしい。
 わたしはちょっと笑ってしまった。
 だって、そんなたわいもないことで、口惜しそうな顔をするなんて。
 でも、洗っちゃったから捨てるのが勿体ないって感覚、すごくよく分かる。わたしがそう言うと、維月さんは眉を下げて笑い、「美鈴も?」と聞き返してきた。賛同を得られたのが嬉しいらしい。
 わたしより七つ年上の維月さんは、年齢的なことだけじゃなくて、とても大人な男性だ。子供っぽい悪戯心を見せることもあるけれど、それだって、どちらかといえば「大人な」悪戯だ。そういう時の維月さんは、非常に色っぽくてなまめかしい。
 わたしの心緒を優しく気遣ってくれて、さりげなく包みこんで、寂しさを癒してくれる。
 いつだって余裕たっぷりという感じで(本人は否定するのだけど)、めったなことでは動揺せず、くだらないことで気分をへこませたり口惜しがったりしない人だと思ってた。
 だからこんな風に、ちょっとしたことでがっくり肩を落としたり、喜んでみたりする維月さんは、なんだか新鮮だ。
「維月さん、それ捨てちゃうなら、わたしにくれませんか?」
「いいけど、もらってどうするの?」
 わたしは維月さんからシャツを受け取り、たたんであるそれをひろげてみた。たしかに、左の袖口が破れてる。長袖のシャツなのだけど、ボタンのところから、肘のあたりまで破けてしまってる。裁縫は得意じゃないから、縫いなおすにしてもきっと元のようには直せない。
「実は、維月さんのシャツ、欲しかったんです。古いのでいいから何か要らないのがあったらいつかもらおうって」
 維月さんは「どうして」と訊いてくる。顔には嬉しげな微笑みが浮かんでいた。少しくすぐったそうな表情でもある。
 維月さんのシャツが欲しかった理由は、我ながらオトメちっくで気恥ずかしい。維月さんが着ていたものに身を包んで眠りたい、なんて。
 けど、理由も言わずにシャツをくださいっていうのは失礼な気がしたから、恥ずかしかったけれど、それを素直に伝えた。
「維月さんの着古したシャツをパジャマ代わりにしたいなって思ってたんです。この季節なら、一枚でちょうどいいパジャマ代わりになるし」
 晩夏とはいえ、まだ暑い日が続き、夜もまだ寝苦しい日が多い。だから寝る時は、ちょっとだらしないのだけど、すごくゆるい格好をしている。大抵は、着古したTシャツと短パン。ロングTシャツ一枚だけって時もある。
 維月さんは顎を撫で、何か考えている風にちょっと黙った後、「ああ、なるほどね」と相槌を打った。それからふっと、ブランデーの香りが漂ってきそうな官能的な微笑を浮かべ、わたしの頬に手を添えた。維月さんの指が、頬から耳へと這い、髪を梳く。
 ぞわりと、鳥肌が立った。維月さんのまなざしにとらえられ、金縛りにかかったように、体が動かない。心臓がうるさいくらいに鳴りだした。
 維月さんの甘い声が耳朶をうつ。からかうような、そんな声音だ。
「いっそ、俺をパジャマ代わりにしてくれてもいいんだけど?」
「……っ!」
 わたしは維月さんのシャツを抱きしめたまま、顔を真っ赤にして絶句した。


 今夜の維月さんはずいぶんと意地悪だ。しかもとても楽しそうだ。
 そしてわたしはというと、動揺させられっぱなしだ。
「いっ、維月さんっ!」
 わたしは脱衣所で立ち往生し、おもわず声を張り上げた。
「維月さんっ、わたしのパジャマと下着、返してくださいっ!」
 維月さんったら、ひどい。わたしがお風呂に入っている間に、着替え一式を脱衣所から持ち去ってしまったのだ。脱衣籠にはさっき脱いだ服と下着がある。だけどそれを着る気にはなれない。今日は残暑が厳しくて、けっこう汗をかいちゃったし。
 せっかくシャワーで汗を流し、さっぱりした気分でバスルームから出たっていうのに。
 汗がまた滲む。
 わたしはバスタオルを体に巻きつけた格好で少し脱衣所の引き戸を開け、そこから居間に居るであろう維月さんに訴えた。
「維月さん〜っ、もうお願いですから服返してください〜っ!」
「着る物ならあるだろう? それを着ればいい」
 その声とともに、維月さんがこちらにやってきた。
 それ、とはブルーグレイの綿シャツ。さっき維月さんに「くれませんか」とせがんでもらった、シャツだ。
 その洗いざらしのシャツが一枚、椅子にひっかけてある。シャツだけが、ある。
「今夜から早速、パジャマ代わりに着ればいいだろう?」
「……そ、そうですけどっ」
 かく言う維月さんは、すでにシャワーを浴び終えてパジャマ姿になっている。
「維月さんだけちゃっかりパジャマに着替えてて、不公平じゃないですかっ」
「ああ、それなら――」
 維月さんはニッと不敵に笑ったかと思うと、前に進み出て、脱衣所の戸をわたしが止める間もなく、すらりと全開させた。
 距離を詰められ、わたしはたじろぎ身をひいた。
 それでもまだ維月さんは脱衣所に踏み込んで来ない。けれどそれはわたしに逃げ場がないからだ。バスルームから、むっとした湿気と石鹸の香りが漂ってくる。さらには維月さんの艶帯びた熱視線にあてられて、わたしの心拍数は不健康な具合に上がってきている。
「それじゃぁ俺も脱ごうか? 美鈴がそう言うのなら、ここで――」
「言ってませんっ! 言ってませんから、そんなこと! もっ、もういいです、着ます、シャツ着させてもらいますから、向う行っててくださいっ!」
 わたしはいともたやすく白旗を上げ、完敗宣言をした。だけど、ちょっとだけあがいてみた。
「着替えますから、維月さん、せめて下着だけでも返してください」
 キャミソールはこの際なくてもいい。だけど、ショーツだけは返してほしいと訴えた。けれど意地悪な維月さんは、うんと言ってくれない。
 それどころか、維月さんはさらりと、とんでもないことを口にする。
「要らないだろう? どうせすぐに脱ぐんだから」
「のわぁぁっ!! 維月さんっ、ちょっ、もうっ、そういう露骨なこと言わないで!」
 頭に血が上り、わたしはもう卒倒寸前だ。顔どころか耳まで真っ赤になってるだろうわたしを、維月さんは愉しげに見つめている。そして、とんでもないことをしれっと言い放つ。
「美鈴の露骨な姿を見たいんだからしょうがない」
「もっ、もう勘弁してくださいっ!」
 情けなくも、声がひっくり返る。顔中熱くて、汗がじわりと浮き出てきた。
 維月さんは可笑しげに笑い、そしてわたしの訴えをあっさりと退けた。
「それじゃぁ美鈴、向うで待ってる」
 そう言うと、維月さんは踵を返し、悠々と居間へ戻っていった。肩越しに振り返り、「早くね」と笑う。
「……っ」
 もうっ、維月さんの意地悪っ!!
 維月さんの笑顔は官能的で、黒すぎる。敵いっこないよ。……ほんと、ずるいんだから……。
 ぶつぶつ文句を言いつつも、結局わたしはもらったばかりのシャツをはおり、足元を気にしながら、維月さんの元へと向かった。


 かくして。
 二人分の汗を吸いこんだブルーグレイのシャツは、翌朝再び洗濯機に放り込まれることになり、今度はわたしががくりと肩を落とし、ため息をつくはめになった。

* 終 *

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