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今だけでいい。 五感をすべて俺のために使ってくれないか

 五感のうち、おもに視覚と聴覚を、彼女は周囲に対して過敏なほどに使っている。
 他者の目と口、そこに見え隠れする他者からの自己評価というものに、彼女は無意識的に怯えている。
 下される評価のおおよそは、彼女自身が下したものだ。彼女が下す彼女自身の評価は、低い。それゆえに、他人の目を気にしないでいることは、難しいようだった。
 
 何故なのかと、それは問わない。
 傷を抉りたくはなかった。そうすることによって、彼女に拒まれるのを怖れているのも、本心だ。
 彼女の傷を完治させる力が俺にあるなどとは、驕っていない。
 だが、ひと時でも痛みを忘れさせることはできるだろう。
 俺なりの方法で、少しずつでも傷を癒していく。
 ただその方法は、彼女を困惑させ、恥ずかしがらせ、時には泣かせてしまう荒療治ではあるのだが。

 何気なく手に取った国内旅行のパンフレット。
 梅雨時は、シーズンオフ・プライスだ。
 パンフレットを熟読した後、行く先と泊まる旅館を決め、赤丸をつけていた。

「一泊で、温泉旅行に行こう」
 唐突に、誘った。
 俺の向かい側に座って、まったりと紅茶を飲んでいる彼女――美鈴は目を丸くし、「はぁ?」と間の抜けた返事を返してきた。
「ここ。近場だし。来週の土日、空いてるよね?」
「……空いては、いますけど……」
 美鈴は、了承しかねていた。とまどいがちな目を俺に向ける。
 人目を気にする美鈴は、大衆浴場が苦手らしい。
「温泉は嫌いじゃないんですけど、スーパー銭湯みたいなところはどうも苦手で……」
 例外は、友人らと行く旅行先での温泉くらいだという。
 あとは、のぼせやすい体質らしく、長湯ができないのも理由の一つらしい。
「だから、基本は露天です。露天風呂ならのぼせにくいし」
 なるほど、と、俺は笑う。
 たしかに美鈴はのぼせやすい。熱すると、すぐに茹だって赤くなる。
 俺がそう言うと、美鈴は目をぱちくりと瞬いて、首を傾げる。くせのある髪が揺れると、ほのかにフローラル系の甘い香りが漂ってくる。
「なんでわかるんですか、そんなこと……?」
 …………まったく、美鈴は無防備な上、天然だ。
 呆れて、苦笑とため息がこぼれ出る。
 今すぐのぼせさせてやろうかと悪戯心が湧いてくるが、とりあえずは、堪えることにした。


 温泉は好きだけど、銭湯は苦手。
 そんな美鈴のために、選んだ温泉旅館は部屋にも露天風呂のある処だ。むろん宿泊費は安くはない。だが、シーズンオフだ。通常の二割引きの料金というのは、格安だろうと思う。しかも、急遽決定したにも関わらず、部屋が空いていた。
「って、もしかしてもう予約しちゃったとか?」
「善は急げって言うでしょ?」
「ぜ、善て!」
 美鈴は頬を赤らめて、うろたえる。
「そういうの善って言わないと思いますけど!」
「そう? けど、もう予約しちゃったから。そのつもりでね」
「ちょっ、けど、あの、いっ、維月さんっ」
 美鈴が慌て、とまどう理由は、わかる。
 俺との、初めての一泊旅行だということも、その一つだろう。
「ボーナス前だけど、大丈夫。今回は俺の奢りだから」
「そんなっ! 悪いです! だって温泉つきの部屋、料金高いし! いくらシーズンオフだからって」
 遠慮しなくてもいいよ、と、俺は笑って返す。
 ――目的があるからね。
「奢らせてよ。混浴目当てなんだから」
「――……っ」
 予想通り、美鈴は絶句した。


 下心が八割を占めている俺の「好意」を、美鈴はその真面目さと優しさ、そして無防備さゆえに、戸惑いつつも、受け取った。
「キャンセル料払うのはもったいないし」
 と、美鈴は言い訳じみた事を、頬を赤らめて口にする。
「けど……旅行って久しぶりだから、……嬉しい、な」
 はにかんだ美鈴の笑顔に良心が僅かに咎めた。が、目的の一つが果たされ、安堵もした。
 心の枷をはずして笑う、素直な美鈴の笑顔を見たかった。
「たまには羽をのばして、ゆっくり寛ごう。羽目も、できればはずして、ね?」
 美鈴は照れくさそうに肩をすぼませ、頷いた。


 ――そうして、今。
 幾つかの目的を、ひとつひとつ、消化している。
 本当のところ、当初の目的なぞ、とうに失念している俺なのだが。


 予想通り、大仰に恥ずかしがって、なかなか露天風呂に近づこうとしなかった美鈴だが、お人好しの彼女にはつけこむ隙がありすぎる。
 わざとらしかろうが、しょんぼりと肩を落として背を向ければいい。
 それだけで美鈴は、容易く俺の術中に落ちる。分かっていて、落ちてくれる。
「維月さんっ、向こうを向いててください。目を瞑っててください。そんなに見つめないでください」
 恥じらって、可愛らしく文句をつけながら。
 無抵抗な美鈴に、俺も抗えない。とめどなく湧き上がってくる恋情を押しとどめられず、美鈴に負荷を与えてしまうと分かっていても、なお。

 美鈴を背後から抱きしめ、彼女のほっそりとした肩に額を乗せた。
「……美鈴」
 名をささやくと、美鈴は羞恥に身体を縮こまらせ、背後から回された俺の腕をきゅぅっと掴み、俯く。
 無色透明の温泉は、程よく熱い。さほど広くない湯船に、俺と美鈴は身体を寄せ合って浸かっている。
「今だけでいい――……」
 さらに美鈴の身体をきつく抱き、肩に口づけてから顔を上げた。
 美鈴は、とまどいながらも振り返り、上目遣いに俺を見つめる。
 俺の視線だけを感じていればいい。俺の声だけを聞いていればいい。俺の舌だけを味わっていればいい。俺の存在だけを嗅いでいればいい。……俺を受け入れ、過敏なほどに、感じていればいい。
 五感全てを、今は俺だけのために使えと、言えば美鈴はどんな反応を示すだろうか。
 嘆息し、眉根を寄せた。
「……維月さん?」
 眇めた目を、美鈴は不安げに、あるいは怯えたように覗き込んでくる。
 初めて俺のマンションに遊びに来た時は、警戒心の欠片もなく、まったり寛ぎきっていた、美鈴。
 あの時の美鈴とは別の彼女が、今、ここにいる。
 熱い湯気が立ち上る中、のぼせているのは、俺の方だった。
「維月さん、あの、もしかしてのぼせちゃった、とか?」
 そうっと、美鈴は手を差し伸べる。俺の頬に手を軽く添え、肩越しに振り返ったまま「大丈夫ですか?」と、繰り返し訊いてくる。
 大丈夫なわけないだろう、と零したくなる。
「……溺れて、のぼせあがってるよ、美鈴にね」
 俺の微苦笑に、美鈴は過敏に反応し、身体を捩らせた。
「いっ、維月さ……っ」
 こういう時だけ、美鈴は敏感だ。危険のシグナルが、おそらく美鈴の頭の中で点灯されているだろう。
 羽目をはずさせようと思っていたが、うっかり立場は逆転した。
 それには気づかない美鈴は、俺の腕の中で慌てふためいて、無駄な足掻きをしてみせる。
 ばしゃばしゃと飛沫が跳ね上がり、湯煙が揺らめいて、視界を白く濁らせる。
 熱にうかされ、箍の外れた俺は、当然美鈴を離さない。
「ちょっ、やっ、待っ、維……月さんっ」
 艶かしい美鈴の声をも、呑み込んで。

* * *

 湯煙の向こう、雲間から姿を現した上弦の月が、俺と美鈴を覗き見ていた。
 落ちかかってくる微かな月光を、晒され、熱った素肌に反射させる。
 だが美鈴の目には、月の光の欠片さえ、映させない。

 ――再び月は姿を隠す。
 唇の端をきつく結び、声をひそませようとする美鈴を、憐察したのかもしれない。

* 終 *

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