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金木犀

 秋の夜に漂う甘い花の香りは、好きな人を恋う想いに似てる気がする。
 傍にいたい。――それだけの気持ちじゃなくて。寄り添い合うだけじゃ物足りなくて。
 だから求めてしまう。花の香りのように、率直なほど、貪欲に。

* * *

 夜更け、窓を少し開けると、しっとりしたと甘い芳香が室内に忍び込んできた。鼻腔をかすめるそれは、黄金色した秋の花の香。金木犀だ。
「どこで咲いてるんだろう。すごくいい香り」
 花の姿は見なくとも、甘い香りを漂わせる金木犀はその香りだけでも存在感がある。金木犀の花の香りをもっと部屋に取りこみたくて、さらにひろく窓を開けた。風呂上がりで、酒気も帯びて温まってる体に、涼しい夜風は心地よかった。
「金木犀の香りって甘いですよね。昼よりも夜になると香りが濃厚になって、窓を閉めきっちゃうのがもったいないくらいで」
 窓際に立ったまま首をめぐらせ、ソファーベッドに背を預けている維月さんに話しかけた。
 維月さんは、わたしが食前酒として買ってきた梅酒を飲んでいる。小さなグラスに氷を一つ入れ、少しずつ飲んでいた。珍しく、飲むペースが遅い。まだやっと二杯目だ。それなのに、まるで酔っているみたいにぼんやりしている。
「維月さん?」
 酔っている風には見えない。けれど少し心配になって、顔色を窺った。
 維月さんはわたしの視線に気づき、取り繕ったような微笑を口元に浮かべた。
「……ああ、そうか、この香り、金木犀か。たしかに甘い、いい匂いだ」
「…………」
 今夜の維月さんはいつもと違う。らしくないというほどでもないけれど、いつものような泰然さがない。不機嫌そうというより物憂げで、ため息も多かった。
 それは、今夜だけのことじゃない。ここ最近、維月さんはずっとこんな調子だった。
 体調を大きく崩しているってことはなさそうで、休まず出社して、仕事もきちんとこなしていた。仕事後も、わたしを誘いだしたり会いにきてくれたりした。
 だけど、維月さんはどことなく上の空で、ぼんやりしてため息をつくことがしばしばあった。
 どうやら夏の疲れが涼しくなった今、どっと押し寄せてきたらしい。
 維月さんもそれを自覚しているようで、
「夏バテしてる暇がないくらい、夏場はいろいろと忙しかった。疲れを溜めこまないようにはしてたんだけど、一段落した今、ツケが回ってきたって感じだな」
 と言って、苦笑してた。
 維月さんが「いろいろ忙しかった」というその原因のほとんどは、会社で起ったトラブルだ。たとえば取引先への連絡ミスで起こったトラブルだったり、顧客からのクレームが相次いだりと、よくある系の(よくあっちゃいけないのだけど)トラブル。その後始末やら処理やらに、維月さんも奔走していた。
「維月さん、あの……無理しないで、休める時は休んだ方がいいです。季節の変わり目は風邪もひきやすいし」
「体の方はいたって元気だから、大丈夫」
 維月さんは自身の健康を過信するタイプじゃない。だから大丈夫というのなら、たしかに大丈夫なんだろうとは思う。
 だけど油断は大敵だと、わたしはちょっと厳しい面持ちになって注意を促してみた。
「最近は早く帰れるようになったからって、わたしを誘って出歩いてたんじゃ、体、休まらないんじゃ……。あ、いえそのっ、食事やドライブに誘ってくれるのは嬉しいんですけどもっ! でもっ、運転するのも疲れるだろうし、いいのかなって」
 維月さんはふとため息まじりに小さく笑った。
「外に出てる方が気も晴れて、休まるってこともあるから。一人でいたい気分でもないしね」
「…………」
 つまり、肉体的に疲れより、精神的な疲れの方が大きいってことなのかな?
 維月さんがそんなことを言うのは珍しい。少なくとも、「一人でいたくない」というようなことをあからさまに口にしたりはしない人だ。……それを行動で示すことは多々あるのだけど。
 こんな時、わたしは維月さんに何もしてあげられない。ただ、こうして傍にいるだけ。維月さんが望むように、ただ居るだけ。どんな形であれ、維月さんがわたしを必要としてくれるのは嬉しいけれど、かえって何もできないって思い知らされるようで、情けなかった。
 たとえば、わたしが元気のない時、維月さんはとても上手に励まして、癒してくれる。
 こまめにメールしてくれたり、美味しい洋菓子を買ってきてくれたり、ドライブに誘い、その車中でいろんな話をしてくれたり、わたしのつまらない愚痴にも耳を傾けてくれて、助言してくれたりもする。
 焦りや不安、怖れや戸惑いといったマイナスの感情に振り回されがちなわたしを、維月さんは時にはちょっと困ったような顔をしながらも、ありのまま受け止めて、支えてくれる。心ごと、包み込むように抱きしめて、維月さんのことしか考えられなくしてくれる。
 そんな風に、維月さんはさりげなく、場合によっては強引に、わたしに安心を与えてくれる。
 維月さんは本当に甘えさせ上手だ。
 わたしばかりが一方的に甘えて、頼りきってしまっている。
 維月さんは嬉しげに笑ってくれるのだけど、やっぱり負担をかけてばかりなのは心苦しい。
 一方的なのが辛いなんて、これもわたしの我がままなんだけど、せめてもう少し釣り合っていたい。
 対等な関係なんてとても望めないだろうけど、でもせめて、少しでもいいから維月さんの心を支えてあげられる存在でいたい。元気を分けてあげられるような、相互依存し合える関係でありたいと思う。
 今夜だって維月さんは、「美鈴に会いたい」と言って、車を飛ばしてきてくれた。勝手な憶測かもしれないけれど、わたしに何かを求めて会いにきてくれたのだと思う。……そうだと思いたい。
 だから、「何か」してあげられたらって思う。
 維月さんを元気づけられる、何か具体的なことってないかな?
 わたしにできることで、維月さんを励ませないかな?
 わたしは維月さんみたいにさりげなく慰めたり励ましたりできなくて、そのうえ維月さんが今欲しているものが何なのかも察せないから、真っ向から訊くしかなかった。
「あっ、あの維月さん! わたしに、してほしいことってありませんか?」
 いきなり問われ、維月さんは驚いたように目を瞠った。けれどすぐにふと力の抜けたように笑みをこぼし、グラスをテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がった。
 維月さんは額にかかる髪をかきあげ、わたしから視線をはずした。
「あの、……維月さん?」
「…………」
 維月さんは嘆息し、それからわたしとの距離を縮めた。
 二つの香りが、わたしの鼻腔をかすめる。
 窓から流れ込んでくる金木犀の甘い香り。そして、目の前に立つ維月さんの、まだ少し濡れた髪から漂ってくるシトラス系の香り。
 どちらともひどく官能的だ。身体が、火照りだす。
 維月さんは腕を伸ばし、窓に手をかけた。
「美鈴、窓、閉めるよ?」
 そう言うや、維月さんは窓を閉め、外気を遮断した。金木犀の僅かな余薫は、やがて維月さんの醸し出す甘く濃密な香りに消されてしまう。
 自分でも分かるほど、頬が熱い。さっきまで一緒に飲んでいた梅酒のせいじゃなく、視界をふさぐ維月さんの艶めいた目のせいだ。
 鼓動が高鳴りだして、声が震えそうになる。
「あ、あの、ごめんなさい、寒かったですか?」
「いや。涼しくてちょうどよかったけど、香りに、酔いそうでもあったかな」
「……え、金木犀の香りに? もしかして苦手でした? ごめんなさい、気付かなくって」
「違う。酔わせるのは、金木犀の香りじゃなくて、美鈴の方だから」
「え?」
 維月さんの熱いまなざしに射竦められ、わたし思わず息を飲む。
 緊張して身を固くするわたしの頬に、維月さんの手が添えられた。酒気帯びのためか体温が上がっているようで、維月さんの手のひらは僅かに汗ばんでいた。
 維月さんの微笑もまた、やわらかなものなのに、ひどく熱帯びている。
「それに窓を閉めたのは別の理由からだから」
「え?」
 わたしが首をひねると、維月さんは目を細め、からかうような口調で言葉を継いだ。
「窓、開けたままだと、声が漏れちゃうからね」
「――え、……っ!?」
 どういう意味ですかと問おうとしたわたしの声は、維月さんに呑み込まれてしまった。
「……んっ、ふ……っ」
 息継ぎもできないほど深い口づけに眉をしかめ、抗議すべく維月さんの胸元を軽く叩いた。維月さんはわたしの要求をきいて唇を離してくれたのだけど、今度は二の腕を背に回し、きつく抱きしめた。
「美鈴」
 維月さんのくぐもった声が、わたしの耳朶をくすぐった。乾ききっていない維月さんの髪が頬に当たって、それもくすぐったい。
「美鈴」
「……は、はいっ」
 とっさに返事をすると、維月さんは少し腕の力を緩めてくれた。
 一瞬どうしようかと迷ったけれど、わたしは遠慮がちに維月さんの背に腕を回した。
 きゅっとシャツを掴むと、維月さんがふっと小さく笑った……ような気がした。顔が見えなくて分からないのだけど、肩の力が抜けたようなやわらかいため息が聞こえた。
「癒して」
「え……?」
「美鈴に癒してほしくて今夜は会いに来た」
「はい。あの……、わたしにできることならなんでもします。維月さんがしてほしいって思うこと、言ってくれたら嬉しいです」
 わたしにできることは、少ししかない。癒してあげられる自信もない。けれど維月さんがわたし必要としてくれるのなら、その想いに応えたい。
 維月さんはわたしの顎を指先でつまみあげると、少し困ったように眉尻を下げてわたしを見つめて言った。
「今、もう十分に癒されてるんだけど」
「…………」
 わたしは黙したまま維月さんのまなざしを受け止めている。
 維月さんの双眸は、金木犀の匂い立つ秋宵の色だ。その匂いの強さに、酩酊しそう。
「今夜は、美鈴で満たしてほしい。何もかも忘れて、ただ美鈴だけを想っていたい」
「……維月さん……」
「酒に酔うより、美鈴に酔いたい。……って言ったら、引く?」
「……引きません。照れるし、よくそんな台詞が出るなぁって感心して、ちょっと呆れもしますけど」
 わたしが恥ずかしさを素直に口に出すと、維月さんはわたしの額に自分の額を当ててきた。
「よかった、拒まれなくて」
「引かないし、拒みません。維月さんが…………好きなんですから」
 意を決していたわたしは、顎を上げ、押し当てるようにして維月さんにキスをした。
「…………」
 維月さんは不意打ちを食らったとでも言わんばかりの驚き顔でわたしを見つめ返してきた。
「……っ」
 わたしはというと、キスをしちゃったのはいいけど、恥ずかしさのあまり二の句が出ず、進退窮まってしまっていた。けれど、わたしの腕は維月さんの背に回ったまま。離れようなんて気は微塵も起らなかった。
 このままこうして抱き合っていたい。そして先の展開をも、わたしは維月さんに求めてた。
「そっ、そのっ、わたし、もう酔ってるみたいな状態なんで、維月さんを酔わせられるのは難しいと思うんですけどっ。だから、そのっ」
 わたしが慌てふためき、言い訳じみたことを口にすると、維月さんはわたしを宥めるように髪を撫ぜてくれ、そして、
「それはお互いさまだ」
 そう言って、維月さんは眉を開き、甘やかに笑った。

 維月さんも、きっと同じ思いでいる。
 維月さんのまなざしの熱っぽさに、維月さんの思いを読みとれたような気がした。
 わたしは維月さんの胸に顔をうずめて、呟いた。
「維月さんと一緒に、酔いたいです」

* 終 *

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