不思議だなと思う人がいて。
不思議にその人ばかり目で追って。
不思議な気分に小首を傾げてる。
これっていったい、何の兆候……?
生ビールのジョッキ片手に頬杖ついて、わたしはぼそりと呟いた。
「社内レンアイって、わたし、きっと出来ないなぁ」
話の流れを唐突にぶった切ったにもかかわらず、向かい側に座って同じく生ビールのジョッキを傾けている人は、驚き顔も戸惑い顔もせず、「へぇ、どうして?」と返してきた。
「どうしてって……」
ジョッキに少し残っていたビールを飲み干して、わたしは息を吐く。
実のところ、どうして突然そんなこと言い出したのか、自分でもよく分からない。
先を続けられず、言葉を濁した。
そんなわたしを興味深げな顔をして見ているのは、職場の上司だ。
わたしより七つ年上で二十八歳の彼、高倉主任とはたまにこうして飲みに来る。以前はもう一人一緒に飲みに来ていた人もいたのだけど、この半年ほどは、二人きりで飲みに来てた。
だからといって、特別な関係……男女の関係ってわけじゃない。友達ってわけでも、もちろんないけど。
とはいえ、ただの上司と派遣社員っていうには、ちょっと微妙かもしれない、わたしと高倉主任だった。
今、わたしと高倉主任がいるのは、雑居ビルの一階にある狭い居酒屋。和洋入り乱れたアルコール臭と揚げ物系の臭いが充満し、古臭い歌謡曲とご機嫌なオヤジのだみ声が紫煙を揺らす雑然とした店内、ムードもへったくれもない居酒屋のテーブル席で、わたしと高倉主任は向かい合って座っている。
なんともいえない奇妙な距離を保ったままで。
高倉主任はジョッキをテーブルに戻し、わたしの顔を覗き込んできた。
じりっ、と、一歩距離を縮められる。
しまった。うっかりしてた。詰まらない事こぼしちゃった。そう思っても、後の祭りだ。
わたしはなんとなく気まずくて、首をすくませた。
高倉主任はそんなわたしの様子に気づいているのかいないのか、ちょっとからかうような口調で尋ねてきた。
「もしかして、社内の誰かに告られでもした?」
「えっ、いえそんなまさか! 入社してから二年、一度もそんな目には遭ってませんから! わたしなんかにそんなこと言う人いませんし!」
「そう?」
高倉主任は静かに笑っている。
なんですか、主任? にこにこ笑ってくれちゃって。いやに嬉しそうなんですけど? というかですね、今日はちょっとオカシイですよ? わたしが。わたしが、オカシイです。ヘンです。
目が眩んでます。顔が熱いです。
おかしいな。まだビール、ジョッキで二杯しか飲んでないのに。これくらいで酔ったりなんかしないのに。
「木崎さん、ビールのおかわり、いる?」
「はい?」
「ビール。空だし。ついでに何かつまみも頼もうか」
「はぁ、そうですね」
高倉主任に手渡されたメニュー表を開きつつ、わたしは主任の顔をちらりと見やった。
そこにあった主任の顔は、いつもと同じようでどこか違う、「男の人」の顔だった。
* * *
ずっと前から思ってた。
高倉主任はフシギな人だ。
と、同僚に言ったら、「どこが?」と聞き返された。
「おっとりした人だよね? 存在感があるのかないのかわからないって感じはするけど、不思議とかは思わないなぁ」
「まぁまぁかっこいい」だの「そこそこイケメン」だのと、中途半端な評価を下されることが多い。つまり、「可もなく不可もなく」といったところらしい。もっともこれは独身女性、主に派遣社員の間での評価だから、偏ってるとは思う。
上司としての評価は高い。目端が利くのに小うるさくなく、適材適所、わたし達派遣社員をうまく使っていると思う。
うちの会社には、わたし以外にも派遣社員が複数在籍している。同じ二十代の女の子もいれば、三十代、四十代の女性もいる。それぞれ派遣登録の際に提示したスキルに合わせた各課に配属され、その課の「上司」の指示のもと、働いている。
わたしは高倉主任が総括を任されている「サポート課」に配属された。
ちなみに、わたしが派遣された会社は、おもに輸入雑貨などの通信販売をしてる、通販会社。「サポート課」というのは、お客様の問い合わせやクレームに直接関わるのではなく、クレーム等の事務書類としてまとめたり、対応のために準備を整えたりする、「お手伝い」専門の課だ。営業課のサポートをすることもある。パソコンと向かい合ってるデスクワークで、ようは事務仕事。
サポート課の事務員の数はさほど多くなく、十人強。その半分が派遣社員で、その派遣社員を監督、総括してるのが高倉主任だ。だから高倉主任はわたしにとっては直の上司。
だから、興味はあった。高倉主任の仕事ぶりとか、人柄とか。
それで、訊いてみたんだっけ。仕事とはまったく関係のない事柄なんだけど、目に付いていたことがあったから。
「高倉主任て、ジャンケン強いですよね」
わたしが感嘆して言うと、主任は笑みを返してきた。「よく見てるね」と。
「何かコツとかあるんですか?」
だって、ズルとかはしてなかったし。それなのに、ああも強いって、まるで超能力だ。読心術とか予知とか!
「コツって程じゃないけど」
高倉主任は、目立つタイプではない。際立ってかっこいいってことはないんだけど、温和で穏やかな顔立ちや仕草には好感が持てる。だけどその一方で、安易に近寄れない雰囲気もあった。
気安いようでいて、腹を見せない。矛盾してるのに、それが「高倉主任」の中では相反することなく混在してる。
なんとも不思議な人だと思う。
「その人が何を出すか、なんとなく分かるってだけ。この人はグーを最初に出すタイプだとか、そういうのがなんとなく、ね」
「えぇ? でもその人がいつも必ずグー出すとは限らないじゃないですか」
「うん。でもそういう時って、顔に出るし」
「えぇぇ? 顔に、グー出そうと思ってたけど、パーにしようとか、出るってことですか?」
「う〜ん、そんなとこ」
高倉主任はちょっと困った風に笑って、曖昧に答えた。
「いや、出ませんて、ふつう」
「普通の状態ならね。でも気負ってると、出るよ」
「よくわかりませんけど」
「うん。僕にもよくわからないから、答えようがないな」
結局、いつもこんな具合にはぐらかされてしまう。
高倉主任はやっぱり不思議だ。
不思議だから、気にかかってしょうがない。
二人で飲みに行く間柄とはいえ、社内では、わたしと高倉主任はそう頻繁には話さない。話すといったら仕事のことくらいで、傍から見て親しい関係だとは思われないだろうくらいの距離はあると思う。
一緒に飲みに行ってることは、社内では秘密にしてる。
別に隠すようなことではないのかもしれないけれど、妙な邪推をされるのは高倉主任に迷惑がかかるだろうし、わたし自身、浮いた噂を立てられるのは嫌だった。
だから、
「木崎さんってさ、高倉主任に気があるの?」
と訊かれた時は、内心ひどく焦った。
表面上はしかめっ面をして、その焦りをありありと見せはしなかった。
けれど、同僚の彼女はわたしの感情を愉しげな様子であて推測しているようだった。
「木崎さんって、ああいうタイプが好みなんだぁ。ま、そこそこかっこいいもんね?」
まったく、どうして女ってのはそういう邪推をしたがるんだろう。
これで、月一の割合で二人して飲みに行ってるなんて知れたら、どんな噂を流されることやら。
「違う、そんなんじゃないよ。そりゃぁ嫌いではないけど、タイプだとかそんなの、考えたこともない。ただいい上司だな、とは思ってる」
「え〜、それだけぇ?」
彼女としては、わたしにもっと動揺してほしかったみたいだ。「ち、ちがうよ、そんなわけないでしょっ」って具合に慌てて否定すれば、「そんなに動揺するなんてアヤシイ」とつっこめるから。
わたしはため息をついて、言った。
「それに、わたし、会社内の人にそういう感情持てないから」
「えぇ〜、なんでぇ?」
「なんでって、面倒だから。仕事に来てるんだから、それ以外の事に関わりたいと思わない」
真面目くさった、嘘をついた。「面倒だから」っていうのは、本心だけど。
「木崎さんって、意外に堅いんだぁ」
「……放っておいてよ……」
彼女と離れてから、わたしは吐き捨てた。
チクチクと、彼女の目線がわたしの背に刺さってる。痛くてたまらない。
――放っておいてよ。わたしのことなんか、どうだっていいじゃない。
そう言い返そうとして言い返せなかった自分が、……不思議だった。
どうだって……いい?
――どうって、何が?
ふと浮かび上がったその感情は、一瞬で掻き消えた。
ただ、チリチリと痛むような、こそばゆいような、奇妙な感覚が胸に残っていた。
* * *
わたしが勤めている派遣先の会社は、一応というか基本的には週休二日で土日は休み。だから明日と明後日は仕事は休み。そして今日は金曜日。残業をすることもなく、定時に上がれた。
帰り支度を済ませ、一人、のろのろと廊下を歩いていたところを、高倉主任に呼び止められた。
珍しく、高倉主任も定時で上がれたらしい。
高倉主任は周りに誰もいないことを確認してから、「飲みに行かないか」と軽い口調で誘ってきた。
だけど、ワンクッションおいて、だった。
高倉主任は、悪戯っぽく笑って、こう言った。
「ジャンケンしよう。で、木崎さんが勝ったら、僕の奢り」
ジャンケン不敗の人が何言ってんですか! と言い返したかったけど、何故だか受けてたっちゃったんだ。
負けるとわかってる勝負なのに。
だけど奢ってもらうことが多かったから、たまにはいいかって考えた。
勝つ気はしなかったし、勝つ気もなかった。
だから……――だったのかもしれない。……後にして思えば。
冷えた生ビールが、喉を通っていく。一息に飲み干してやりたかったけど、さすがに息が続かない。
なんだか喉が異様に渇く。
高倉主任のせいだ。絶対に!
今夜のわたしはどうにもおかしい。ほんとにおかしい。
酔ってる感覚はないけど、「酔ってるヤツは大抵そう言う」というから、酔っているのかもしれない。
高倉主任がジョッキを傾ける。
……いつもなら気にも留めないのに。
勘弁してください、主任。動く喉仏が妙に色っぽいんですけど?
ネクタイ緩めないでくださいってば、それ以上っ! あ、腕もまくらないで欲しいんですけどっ。筋っぽい手首は、わたし的にはとってもマズいです! ごつい時計が似合う骨ばった手首は、かなりヤバいんですってば、わたしにはっ!
「今日の木崎さんは、なんだかおもしろい」
くすっと、主任が笑う。
「さっきから俺の事睨んでるけど、何?」
「…………」
わたしは押し黙る。「見惚れてたんです」なんて言えませんっ。
なんだろう、この……妙にふわふわした気分は!? 心が落ち着かない。
春って、妙な気分になる人が多くなるって、ほんとだと思う。
甘い蜜の香が、飛散する杉花粉と一緒に乗ってるせいだ。絶対そうだ。
脳内に、甘味成分が仕込まれるに違いない。
春って…………怖い。
「俺、木崎さんを怒らせるような事した?」
「してません」
「そう? なら、いいけど?」
「してませんけど、主任って意地悪ですね」
「面と向かって意地悪と言われるのは初めてだな」
そう言って高倉主任は、また笑う。食えない笑顔で。
ビールのつまみにするには、甘すぎる。だから「食えない」。食ってたまるかと、奥歯を噛み、しかめた顔で高倉主任をねめつけた。
高倉主任は器用だ。
会社にいる時と、飲みに来る時と、ちゃんと自分を使い分けてる。なのに、らしさを失わない。
本当に……本当に不思議な人だと思う。
「高倉主任って、会社では『僕』なんですね。それってやっぱり意識してそうしてるんですか?」
「まぁ、そうかな。さすがに上司に対して『俺』とは言えないしね。それに、上司以外にでも『俺』より『僕』の方があたりも柔らかいから、都合がいい」
「なるほど」
こういう時、高倉主任はオトナなんだなと思う。社会人として当たり前のことなんだろうけど、まだまだ若輩者のわたしとしては、ただただ感心するばかりだ。
自然に自分を使い分けて、相応に振舞えるって、すごいと思う。
わたしなんかには出来ない芸当だ。
「木崎さんはけっこう素のままだね」
「すみません、不器用なんで」
「素のままだけど、素直じゃないというか」
「は?」
「いや、素直には素直なんだけど」
高倉主任は、いきなりわたしの頭に手を置いた。大きくて、無骨な手。思わず、「ひょえっ」と声が漏れた。
普段なら、生ビール三杯くらいじゃ酔わないんだけど、なんですか今日は。酔いが早い。心臓がバクバク鳴って、痛いくらい。
「木崎さんて、ものすごく人目を気にするね」
「…………え?」
「自分のこと、すごく見られてるって思ってるでしょ?」
「……わたし、そんな自意識過剰じゃないと……思います、ケド」
断言できない自分が情けなくて、俯いた。たぶん、顔も赤くなってる。
「そういう意味じゃなくて。木崎さん、自分のこと、なんかってつけるでしょ? 自分なんかって。それって誰かと比較してるってことだよね」
「…………」
主任の手が、わたしの頭を撫ぜている。半端に長いわたしの髪をくしゃくしゃ掻いてる。
何をしてるんですか、この人は。
何を言い出すんですか、この人は。
わたしは顔を上げられないままでいる。
「木崎さん、そのままちょっと目、瞑って」
「は?」
「顔上げなくていいから、ちょっとの間」
「…………」
逆らえなくて、言われる通りにした。
主任の手が、わたしの頭から離れた。
わたしはぎゅぅっと目を閉じた。肩をすくませて、縮こまっている。店内の雑音が、ぐるぐる渦巻いて聞こえる。急速に世界が狭くなり、窮屈になる。
「誰かに見られてるような感じがする?」
ささやくように低い主任の声に、鳥肌がたつ。やや涸れた声は、妙に艶っぽい。
わたしはこくこく小さく頷いた。
「なんか……じろじろ見られてるみたいに、感じます……けど」
「うん、そうだね。……目、開けて、木崎さん」
「…………」
顔を上げたそこには、頬杖ついた主任の穏やかな笑顔がある。
「周り、見て。誰も木崎さんのこと見てなかったよ。それぞれがそれぞれ勝手にやってる。見てたのは、俺だけ」
「……はぁ」
わたしは身を竦ませる。上目遣いに高倉主任を見た。高倉主任は穏やかな微笑を湛えて、わたしをじっと見つめている。
なんだか、居たたまれない。
呼吸が苦しい。動悸までする。
「つまりね、木崎さんが日ごろ感じてるだろう人の目っていうのは、自分自身の目なんだよ、おおよそはね。自分で自分を見張ってる」
「…………」
「そうやって、他人と自分とを比較してる。なのに競争心はあまりないよね。どちらかといえば逃げ腰で。周りをよく観てるかと思えば、実はあんまり観てなかったり」
高倉主任はため息をついた。それから頬杖をといて、額に垂れ下がっていた前髪をもの憂げな仕草で掻きあげる。
その、骨ばった手首に、わたしの目は釘付けになっている。ちなみにいえば、主任の深いまなざしからも、目が放せない。……つまり、主任から顔を逸らせない。
「木崎さんて、不思議だ」
まさかの、その一言だ。
それ、わたしこそが言いたい台詞なんですけど。
「とらえどころのない子だなと、ずっと思ってた。消極的なところがたぶんにあるのに、時々行動的になるし。存在感がないようである、というか」
「…………」
わたしは、それはもうたいそう複雑な面持ちをしていたに違いない。
高倉主任はわたしを見て、くすっと笑う。
「だからずっと、気にかかってた。分からないから、つきとめてやりたくなるって言うのかな」
「……は、そ、そうですか」
わたしのこと、そんな風に見ていたなんて。全然気がつかなかった。
高倉主任のことずっと見てたのに、気づかなかった。
わたしなんかを、……見てくれてたなんて。
「それでね、今日は覚悟を決めたわけ」
「はぁ?」
高倉主任は悪戯っぽく笑う。
「ジャンケンして俺が負けたら、木崎さんのこと、ちゃんと口説こうってね」
「…………はぁっ?!」
素っ頓狂なわたしの声に、店内にいた何人かがこちらに顔を向けた。
けど、さすがに人目を気にしてる余裕なんてなかった。
「な、何言ってんですか、いきなり?」
「ああ、じゃ、単刀直入に言った方がいいかな? 俺、木崎さんのこと好きだから」
「って、ちょっと、わぁっ!」
狼狽しまくって、わたしの口から出るのは意味不明な声だけだ。
事もなげに「好きだ」と言った高倉主任は、余裕綽々といった風に微笑んでいる。
「いきなりなんで話がそこに発展するんですかっ」
わたしは声を荒げて詰問した。
だって唐突過ぎるし、俄かには信じられない。けど、からかってる風にも見えない。何がなんだか、さっぱり状況が把握できない。
高倉主任が、わたしを「好き」?
嘘でしょ? いきなりっ、そんなのっ、信じられるわけがないっ!!
「いきなりといえば、まぁ、いきなりだね。けど、自覚したから、そろそろちゃんと言わないとマズいかなと」
高倉主任は顎をかきながら、言葉を続けた。
「年の差もあるから、これでも悩んだんだよ。あと、やっぱり同じ課の部下だしね」
「…………うぅ」
「けど、さっき木崎さん、言ったろ? 社内恋愛はできないって。それで、覚悟完了した」
「いっ、意味不明ですけどっ!?」
なんですか、高倉主任? その勝利の祝杯を飲み干したような、ご満悦的笑顔はっ?
心臓が破裂寸前だ。飛び出してしまわないよう、こぶしを握り、胸を押さえた。
「木崎さん、真面目だし人目を気にするから、そう言うことで、自分をセーブしてるんだなと思ったら、……気がついた」
「な、なっ……」
何に気がついたんですか。……なんて、聞けやしない。
「木崎さん、よく俺のことを見てたろ? 観察してたってことなんだろうけど、そうやって探って俺のことを知ろうとしてたよね? それ、俺も同じだったから」
「…………」
「ずっと見てた……にもかかわらず、分からないところが多くて、すごく、新鮮だった。こうやって飲みに来て色々話を聞いても、全然飽きない。もっと知りたいと思った」
高倉主任は真摯なまなざしを、改めてわたしに向ける。
あ、この目。
今日、わたしに「ジャンケンしよっか」って言ってきた時と同じ目だ。
子供っぽくすら感じた、挑むような目。本気の目。
「あ、あのですね、主任? ええっと……それで、その、……なんでいきなりジャンケンだったんですか? それに、負けたらって……。主任、ジャンケン強いのに」
「うん」
高倉主任は小さく笑った。
「だから、木崎さんが何をだすのか分からないのが前提だった。分からないことを確認したかったっていうところかな」
「わっ、わけわかりませんっ」
「そう、分からない。木崎さんも、俺のことよく見てるのに、まだ“分からない”だろ? それも、そういうことだから」
「そういうこと……って!」
「だから、そういうことだよね?」
「……っ」
わたしはを声を詰まらせた。
生憎と、……「そういうこと」が「どういうこと」なのかが分からないほど、わたしは鈍感じゃなかった。――してやられた、と思うほどには、頭はまだ働いていた。
あの時、高倉主任は晴れ晴れと笑って、言った。
「やっぱり負けちゃったか」
三度の「あいこ」が続いた後、勝負はついた。
わたしはグーで、主任はチョキ。
あの時、わたしは不可思議な気分に小首を傾げた。
勝ったのに、負けちゃったような。
それになんだか、……罠にはまったような。
「ビール」
空になったジョッキに手をかけ、ぼそっとこぼした。
「おかわり頼んでいいですか、主任?」
「……いいけど」
高倉主任は余裕たっぷりに笑っている。
「今日は酔いが早いね、木崎さん」
「誰のせいだと思ってるんですか」
酒豪と言われるほどじゃないけど、酔っ払って正体なくした経験は、今まで一度もない。けど、今日は酔ってしまいたい気分だ。
高倉主任はにこにこ顔を崩さない。ちょっと黒っぽい笑顔に見えるのは、気のせい?
「今夜は泥酔すると、木崎さん的にはピンチだと思うけど?」
「は?」
「俺としては構わないけど。狼なりに、責任はとるし」
「……のわっ、な、何その危険発言っ?!」
だ、だれ、この人っ? 今わたしの目の前にいる高倉主任の顔をした男は、いったい何者!?
恐慌状態のわたしを、主任は可笑しそうに笑って見つめている。しかも、何か企みを含んだ目をして。
「で? どうする? ビールのおかわり頼む?」
「…………ウーロン茶で」
「了解」
笑って、主任は店員呼び出しブザーを押した。
わたしはふくれっ面を主任に向ける。どういう顔を返していいのか分からず、自然、不機嫌顔になってしまっている不器用さだ。
なんだかいろいろ口惜しい。
わたしなんかまだ状況を把握しきれていないのに、主任ばっかり余裕で。
動悸はちっとも治まらないし、顔は熱いし! なんだか泣きそうだ。
「……木崎さん」
主任は何か思いついたらしく、やにわに腰を浮かせた。
そして手を差し出し、人差し指をくいくいっと曲げ、「ちょっと」とわたしを促した。
「なんですか?」
わたしは身を乗り出す。我ながら浅はかだ。と、気づいたのは、一瞬の後。
「――ッ!?」
軽く、唇の先が触れた。主任の唇がっ! わたしの唇にっ!?
「ちょっわわっっ」
高倉主任は何事もなかったかのような顔をして、座りなおしている。
わたしの胸の内の葛藤とか逡巡とか困惑とか、あと、出かかった涙も、吹っ飛んだ、今の一撃でっ!
「ちょっ、しゅっ、主任、こんなところで何をいきなりっ!」
「怒った?」
高倉主任は頬杖をついて嬉しそうに笑っている。
「いやそのっ、ちょっ、だってっ、こんなとこでっ!」
「怒ってはいないんだ?」
「いや、だからですねっ」
「よかった」
「よくないですってば!」
「嫌だった?」
「嫌じゃ……って、あぅ」
いとも簡単に誘導された。
高倉主任のかけた罠に、こうも易々はまるとはっ。
情けないやら、恥ずかしいやら……。
「もっ、もういい大人なんですからっ、その、少しは人目を気にした方がいいと思いますけどっ」
照れ隠しなんて今さら遅いけど、素直になれなくて、つい、そう返してた。
大人な高倉主任は、まったく動じない。
「うん。そうだね。いい大人なんだし……」
それどころか、高倉主任は破顔一笑、こう言った。
「オトナのお付き合いをしようか。今夜から」
爽やかな顔して、何か今、えらいこと言いませんでしたか、この人ーっ!?
けど、もはやわたしにつっこむ気力はなく、主導権はばっちり高倉主任に握られてしまっていた。
そしてわたしはハタと気づく。
できないと宣言したばかりの状況に追い込まれてしまったことに。
「……嘘でしょう……」
がっくり肩を落とし、うなだれた。
* 終 *