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モーニングコーヒー

 何故だか気になる人がいる。どうしてか気になって、つい目でその姿を追って、見えなくなると探してしまう。何を考えているのか今一つ掴めない人だから、やたらと気になってしまうのかもしれない。
 ――もっと知りたいと、求めてしまう。

* * *


 所用があり、いつもより四十分ほど早く出社した朝のこと。
 仕事場にいるだろうと思っていた人の姿が見えず、首を傾げた。
 ――高倉主任、どこにいるんだろう?
 もう出社しているはずなのに。デスク回りを見ても使用された形跡がない。不用心にも鞄は置いてあったから、どこかにいることは間違いない。
 わたし以外の派遣社員はまだ出社していなくて、部屋は妙に静かで寒々しい。
 寒いといってももう春の最中。窓の外を見ると、ビルの隙間から優しい色合いのピンク色の桜が見えた。近くの公園の桜の木だ。もうそろそろ……週末には満開になるんじゃないかな。
 用は済ませたことだし、思い立って廊下へ出た。
 就業開始時間まではまだ猶予はある。とはいえそろそろ出勤ラッシュの時間だ。まだビル内は若干の静けさが保たれていたけれど、複数の足音が階下で聞こえ、時折は「おはようございます」の挨拶も聞こえてくる。それでもわたしのいる階にはまだ誰かが上がってくる気配はない。エレベーターも通過していく。
 誰ともすれ違わない廊下を歩き、ふと見ると、会議室のドアがほんの少しだけ開いているのに気がついた。普段は立ち入らない小会議室だ。
 この小会議室は短時間のミーティング等に使われる。白い長テーブルと折りたたみの椅子が置かれ、ホワイトボードがかかっているだけの簡素な会議室。ビル内の部屋のほとんどは禁煙となっていて、各階に喫煙ブースは設けられている。けれどこの会議室は完全禁煙室ではなく、多少の喫煙は許可されていて、そのため小型の煙草専用の空気清浄機が用意されていた。
 その空気洗浄機目的で、この会議室でひっそり書類仕事をする社員さんもけっこういたりする。煙草を吸いながら仕事をしたい一部の人達だ。基本的はあまりよろしくないことなので、あくまでひっそりと使用している。
 まさかね、と思いながら、わたしは会議室を覗き込んで見た。
 高倉主任はもう随分前に禁煙して、今もまったく吸ってないと言っていたから、ここにいるはずないのだけど。
「……あ」
 ところが、高倉主任はいた。煙草は吸ってなかったけど、ノートパソコンを開いて、何やら難しい顔をしてキィを叩いている。
 ドアを開ける音に気付いて、高倉主任は顔をあげた。
 会議室のほぼ真ん中、長テーブルを独り占めしている高倉主任は、気まずそうな顔もせず、ただ少しだけ驚いたように眉をあげた。
「おはようございます」
 わたしが先に声をかけると、「おはよう、木崎さん」と笑みを返してくれた。
 高倉主任はちらりと腕時計に目をやり、「もうこんな時間か」と小さくため息をついた。それから顎をあげ、コキコキッと首を鳴らした。
「今日はずいぶん早いね、木崎さん」
「ええ、まぁ」
 一応仕事があっての早出だったわけだけど、曖昧に応えた。高倉主任もいちいち詳しい説明を求めたりはしない。
「それで今、何か、僕に用だった?」
「いえ、そういうわけでは。ドアがちょっと開いてたから、誰かいるのかなぁと思って」
「ああ、そっか」
 高倉主任は額にかかった前髪をぐいっと後頭部に押し上げた。物憂げな仕草と細められた双眸ら、……なんというのか、その……とてもドキリとさせられた。
 高倉主任はジャケットを椅子の背もたれにかけ、白いワイシャツの襟元を寛げ、紺地の格子柄ネクタイを緩めている。顎から喉仏のラインに目がいってしまう。いつもと何かが違うわけじゃないのに、……――どうしてだろう。ひどく色めいて眩しく感じるのは。
 わたしは周りに人がいないかを改めて確認した。廊下には誰もいない。
 ホッと胸を撫でおろした。
「木崎さん、ちょっと」
 不意に、高倉主任がわたしの名を呼ばわった。何か思いついたような顔をしていて、そんな時の高倉主任はいつになく子供っぽい表情をする。普段あまり見せない顔だ。
 高倉主任が片手をあげ、こっちこっちと手招きをした。
「はい?」
「ちょっと、こっち来て」
「…………」
 ちょっと戸惑ったけれど、言われるまま会議室に足を踏み入れ、高倉主任の傍へと近づいた。するといきなり、高倉主任はあげていた片手を軽く振って、「はい、ジャンケン」と促してきた。
「えっ」
 と、驚き戸惑いつつも、「ジャンケン、ホイッ」という声につられて、わたしも手を伸ばしていた。
 そして、わたしが出したのはパーで高倉主任がチョキ。
 あっという間に勝負はついた。
「僕の勝ち。木崎さん、コーヒー奢ってくれる?」
「ええっ? そういうことはじゃんけんの前に言ってくださいよ、もうっ」
 そう文句はつけたものの、結局奢ってあげることにした。
 いつも居酒屋やバーなんかで、おおめに料金を払ってくれているから、そのお礼代わり。あまりにささやか過ぎるお礼だけど。

 この数ヶ月の間に、高倉主任と二人で飲みに行ったのは、何回だったろうか?
 初めの頃は派遣の先輩の浅田さんもいた。けれどある時、浅田さんのドタキャンがあって、それ以来なぜなのか高倉主任と二人で飲みに行くようになった。昔は浅田さんと二人でよく飲みに行ってたようだから、もしかしたらわたしはピンチヒッター的な立場なのかもしれない。それでも、高倉主任は無理をしてわたしを誘ってくれている風ではなかったし、わたしも断る理由のない時は、気軽に応じてた。
「そういえば、浅田さんがまたいつか飲みに行こうって言ってましたよ」
 自販機で買ってきたコーヒーを手渡し、当たり障りのない会話の糸口をも提示した。
 高倉主任はまだ椅子に座ったままでいる。片手はノーパソのキーボードに軽く添えられ、時々指が静かに動いた。コーヒーを飲みながらパソコンの画面に目を落としたり、つと視線をあげてこちらに顔を向けてきたりする。
「そういう浅田さんが一番都合つかなくなってるね。旦那さんの出勤のシフトが変わったからって」
「みたいですね。午後は出られても夜は出かけられないって言ってましたから」
「一年以上経ってるとはいえ、一応は新婚さんだしね。本人の申告だけど」
 高倉主任がくすっと笑って、わたしもつられて口元を緩ませた。
「そうですね」と応えたわたしに、高倉主任はさらりとさり気ない口調で聞いてきた。
「そういう木崎さんの都合はどう? 金曜や土曜の夜に出かけて、不都合なことはない?」
「え? ええ、まぁ……だいたいは空いてますから」
 我ながら、なんとも寂しい答えだと思う。いつも暇してますと宣言してるようなものだ。
 習い事もしていないし、アウトドア的な趣味に一日を費やすということもない。土日のどちらかに友人と会うことはあるけれど、毎週というわけでもなくて、週末は一人で過ごすことが多い。それを高倉主任は知っているはずだ。誘われれば大抵OKしていたから。
 誘いをかけてくれる高倉主任は多忙そうなのに。
 ――どうして、浅田さん抜きでもわたしを誘ってくれるんですか?
 それを聞きたかった。けれど、聞くのが恥ずかしくて怖い気もしてた。……その理由はよく分からない。高倉主任の考えが掴みきれないのと同じくらいに。
 ふと、高倉主任の目元が和らいだ。少し細めて視線を持っている紙コップに落とし、そしてそれを口に近付けた。軽く息をついて、きっともう冷めかけているだろうコーヒーを音もなく啜った。
 コーヒーの香りがこちらにまで漂ってくる。
「…………」
 なんだろう……?
 胸がどきどきする。
 ひどく落ち着かない。
 高倉主任から目が離せず、けれど見つめているのが苦しかった。
 なんだろう、この相反した気分は。どうしてこんなに高倉主任の一挙一動が気にかかるんだろう。
 ここ最近ずっとこんな調子だ。
 高倉主任の姿を目で追って、目が合えば逸らしてしまう。逸らしても、目の端でずっと追っている。
「あ、あのっ」
 僅かの間の沈黙に耐えかねて、わたしは別の話を切り出した。
「高倉主任ってほんとにジャンケン強いですよね。連勝記録伸ばして、負け知らずじゃないですか」
 しみじみとわたしが言うと、高倉主任は苦笑で応えた。
「そうでもないよ。ここではたまたま勝ちが続いてるだけで、他では負けることもあるし」
「そうなんですか? でも、ここだけっていっても勝ち続けっていうのはすごいですよ。さっきのジャンケンだって、勝てると思って挑んできたんでしょう?」
「まさか」
 高倉主任はため息まじりに否定した。
「勝つかどうかなんて分からないよ。まぁたしかに、勝てそうかなと分かる相手はいないでもないけど、それは木崎さんじゃないし。……もしかして、奢らされたって怒ってる?」
「こんなことくらいで怒ったりはしません。ただ、高倉主任って計算高そうだなぁと思って」
「慎重といって欲しいな」
「慎重だとは思いますけど、なんかちょっと違います。負けない勝負は最初からしないというか」
「それは買い被りだ」
「でもギャンブルって基本しないって言ってましたよね? しても、大損するようなことはないって」
「それは、まぁね。怖がりだから」
「怖がり?」
 意外な言葉が高倉主任の口から出、思わず首を傾げた。
 高倉主任は真面目で慎重な性格だと思うけど、怖がりとか臆病とかってイメージはない。
 これも勝手な想像で、本当の高倉主任がどんな人なのかは、わたしにはまだ分からない。
 わたしの怪訝そうな顔を見やり、高倉主任は別の言葉に置き換えた。
「じゃぁ、運がいいってことで」
「えー……なんかそれも違うというか釈然としいないというか」
 高倉主任はちょっと困ったように眉を下げ、微苦笑を浮かべた。
 ちょうどその時、会議室の外からガヤガヤと賑やかな女の子達の声が聞こえてきた。時計を見ると、いつもの出勤時間だ。高倉主任もそれに気づいてノーパソを閉じた。
「もう時間ですね。わたしもそろそろ向こうに戻ります」
「うん。コーヒー、ごちそうさま、木崎さん。おいしかった」
「どういたしまして」
 そうお決まりの文句で返したけれど、高倉主任の晴れやかな、それでいてどこか秘密めいた笑顔に、少々戸惑いを覚えた。それに、自販機のコーヒーがそんなに美味しかったのかと不思議で、それに奇妙にくすぐったい気持になった。
「じゃ、また」
 わたしは踵を返し、後ろ髪を引かれつつも歩き出した。
 背中に、高倉主任の視線を感じた気がして、ふと、ドアに手をかけたところで足を止めて振り返った。
「高倉主任、今度はきっとわたしが勝ちますから、その時は奢ってくださいね」
 それはほんの他愛ない軽口。深い意味のないちょっとした冗談だった。高倉主任に勝てる気なんて全然しなかったから。
 緩めていたネクタイを直していた高倉主任は、ほんの一瞬虚を衝かれたような顔をし、それからすぐ目を細めて穏やかな微笑を湛えた。
 同時に、高倉主任の唇が小さく動き、何か呟いたらしいのが見て取れた。けれどその声はわたしの耳には届かなかった。
 だから、高倉主任にも聞こえなかったはずだ。笑顔を向けられて高鳴りだした、わたしの心音は。


 一人になってからもずっと、ブラックコーヒーの香気が離れなかった。
 いつまでも消えない高倉主任の姿貌と重なって、少し苦く、とても甘やかに、わたしの心に残り香をくゆらせていた。

* 終 *

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