手の動きが、止まった。
それと同時に、低いささやき声が背後でこぼされた。
「拒んでもいいんだよ」
と、気遣わしげに。
驚いて、振り返った。肩越しに振り返ったそこに、維月さんはいる。わたしの濡れた髪をタオルとドライヤーで乾かしてくれている。一旦スイッチを切られたドライヤーは床に置かれ、維月さんの手の動きも止まっていた。
「え、あの……?」
首をかしげ、聞き返してみた。
維月さんはわさわさとわたしの髪を撫でている。濃いめに淹れたコーヒーのような双眸は、少しだけわたしから逸らされてた。
維月さんは甘さと苦さを含んだ微笑を浮かべている。わたしの声が聞こえなかったみたいに、曖昧に。
維月さんの部屋は居心地がいい。程よく整理整頓がなされていて、こざっぱりとしている。それでいて開きっぱなしの雑誌が放置されていたり、飲みかけのブランデーの瓶がピーナッツの小袋と並んでいたり、脱ぎ捨てた上着が無造作にソファーの背もたれにかけられていたりして、維月さんらしい生活空間がちゃんと横たわっている。維月さんの気配に満ちているこの部屋は、まったりと寛げる温かな空間だ。
維月さんの後にお風呂を借りて、秋風に冷やされた身体を十分に温めたわたしは、パジャマ姿でゆったりとソファーに腰かけている。そして維月さんに髪の毛を乾かしてもらっているという贅沢さだ。
「髪、乾かしてあげる」と言って横に座った維月さんは、わたしがお風呂にはいっている間にブランデーをロックで二杯、空けていた。現在三杯目のグラスを傾けている維月さんだけど、顔を見る限りでは酔っているようには見えない。
だけど、なんとなく辛苦を堪えたような表情をしていた。切なげ……というのかもしれない。
「あの、維月さん」
わたしより先にシャワーを浴び終えていた維月さんの髪は、とうに乾いている。なのに、湿り気のある雰囲気が維月さんの身体に滲み出ていて、なんというのか、ひじょうに艶っぽい。
盗み見るようにして維月さんの顔を、改めて見やった。上目遣いになってしまうのはわざとじゃないんだけど、自然、そうなってしまう。だから、そう……困ったような顔をしないでほしいんですけどっ。
「拒んでもいいって、それは……」
「言葉どおりの意味だよ。ただし、俺自身を本気で拒まれたらさすがに凹むけどね」
「はぁ……」
ますます意味が分からない。首を捻ると、維月さんはくすっと小さく笑った。再びドライヤーのスイッチが入り、しばし言葉が途切れた。
オーディオから流れている音楽は、男性ボーカルの軽快な洋楽。七十年代後半のクラシカルなハードロックで、わたしの知らない歌だ。でも不思議なもので、懐かしく感じる。曲調や音そのものが最近のものとは違うから、なんだろうか。けど、ちっとも古臭さくない。
洋楽ということもあって、流れている歌は耳に留まらず、聴くとはなしに聴いている。軽快なリズムはまどろみを誘わない。
お風呂上りで身体は温まっているけれど、まだ眠くはならなかった。
「こ、拒むって、何を、なんですかっ」
ドライヤーの風音に負けないよう、ちょっと声量をあげて、もう一度訊いてみた。
だって、「拒んでいい」なんて、気になる!
「俺を、だよ」
「え?」
「だから、俺を」
「えぇ?」
今度は思いきって体ごと振り返った。ドライヤーの熱風が額に当たって、ちょっと目を瞑ってしまった。
維月さんは慌てることなくドライヤーのスイッチを切り、ため息をついて両手を下ろした。
「美鈴は俺のすることを、めったに……というかほとんど拒まないよね。口ではイヤって言いつつ」
「え、それは……」
「うん、まぁ、大抵俺が強引にしてるから、拒みきれないんだろうけど」
「や、ちょっ、待ってください!」
「ん?」
この時になってようやく維月さんはわたしの目を見てくれた。ちょっとだけ決まりの悪そうな表情をしていた。……珍しい表情ではあるけれど、見惚れている場合ではない。
「それじゃぁまるでわたしが維月さんのこと嫌がってるみたいじゃないですか。わたし別に嫌がってなんか……や、そりゃまぁ、困ってることもありますけど」
たとえば、こちらが思いっきり恥ずかしくなるようなこと言ったり、いきなり抱きすくめたり、……明かりをつけたまま……したり、とか。困りはするけれど、「拒め」と言われると、それはちょっと違うというか。
「拒んでいいなんて言われても、わたし、どうしたらいいか分かりません。……あ、それとも」
もしかして、維月さんが、なの? 暗に、わたしのことを拒みたいって言ってるの?
こんな風に甘え、頼りきってるわたしが……やっぱり負担になってきてるんじゃないかな。だとしたらわたし……ど、どうしよう……。
全身から力が抜け、肩を落として、うな垂れた。
だって、ありえるもの。今だってこうして、維月さんが優しいからって安心しきって、甘えてる。依存してるといってもいいくらいに。
もう成人式も三年前(正しくは二年とちょっと前、かな?)に済ませた「いい大人」であるはずなのに、わたしの維月さんに対する子供っぽさって、我ながら情けないと思う。
「美鈴、違うから」
維月さんの温かな手が頬に触れた。けど、顔はあげられない。だって泣きそうになって、鼻の頭が痛い。
「…………」
こんなところが甘えきってて子供だっていうんだ……。
「何を考えたかだいたい分かるけど、そうじゃなくてね、美鈴」
維月さんは両手でわたしの頬を挟んで、顔をあげさせた。そしていきなり、ごつんとおでことおでこをぶつけてきた。軽くだったけど驚いて、目を丸くし、すぐ近くにある維月さんの瞳を直視してしまった。
ドッと心臓が鳴った。
「俺はね、けっこう必死になって美鈴のこと繋ぎとめようとしてるから、それが重いと感じたら、拒んでもいいよってこと」
「え……?」
「言ってくれれば、自信はないけど、少しは自重するから」
「…………」
「美鈴は、俺以外のことなら、そう……仕事のこととかは、嫌なことは嫌だとわりあいはっきり断わるよね? 流されやすいのかなと思ってたけど、存外そうじゃなくて」
「…………」
わたしは無言のままでいる。だって維月さんの顔が近すぎる。おでことおでこは、ひっついたままだ。
「けど、俺のことはあまり拒まないから、もしかして我慢してるのかなと思って。美鈴は辛抱強いからね」
「わ、わた、し、辛抱なんて……」
心臓がやかましいくらいに鳴ってる。動悸がちっとも治まらなくて、苦しい。目を伏せて維月さんのまなざしから逃れても、手から頬に伝わる熱が全身を痺れさせて、維月さんが「いいよ」といってくれたようには、「拒め」ない。
「もちろん本音を言えば拒んでほしくないけど、美鈴に辛い思いをさせたくないのも、本心だから」
「…………っ」
ほらまた……! そんな風に、維月さんは優しいことばかりを言って、わたしを困らせる。拒むなんてできない。拒む理由なんて、何一つ見つからない。
拒んでほしくないって思ってるのは、必死になって繋ぎとめてるのは、わたしの方こそだ。
「維月さん、そんなこと考えてたんですか?」
視線を上げず、聞き返してみた。維月さんは「うん」と短く応えた。声が、少しかすれてた。
その声があまりにも切なげで、胸が詰まった。
「維月さん」
泣きそうになってるのをごまかすために、わたしは維月さんに抱きついた。胴に両腕を回し、胸に顔をうずめた。維月さんはさりげなく抱き返してくれた。
「あまり優しいこと言わないでください。……って、これも“拒んでいい”のうちに入りますか?」
「う〜ん……どうかな」
維月さんの声は微笑を含んでいるようだった。ブランデーの仄かな香りが、わたしをふわりと包む。
「ああ、だけど、この後の展開については、できれば拒んでほしくないな」
「……う、それは……」
この状況では……拒めません。
だって、なんだかわたしから誘っちゃったみたいな状況だしっ! や、もう全然そんなこと考えてなかった……はずなんだけど。
「拒み、ません」
ぽつりと、小さく応えるのが精一杯。
「よかった」
維月さんの呟きが耳朶に触れる。
抱きついたものの、そのままの姿勢で硬直してるわたしの身体を、維月さんは髪を撫ぜながら、ゆるゆると解していく。
優しく手馴れた、指先で。
深閑とした秋の夜空から、いさよう月が照らしてる。
解きほぐされてゆくわたしと、いましめをはずした維月さんとを。
* 終 *