我ながら思いきったなと、思う。
コンクリートに白のペンキで書かれた『6』という字を見ながら、嘆息まじりの笑いをこぼした。
そして携帯電話を取り出して、メールを送信する。
送信先は、「高倉維月」さん。会社の上司である高倉主任ではなくて。
ごくごく個人的な内容の、メール文。それなのに、仕事の報告でもするみたいなメール文になっていた。
『アパート近くの月極駐車場に、駐車スペースを契約、確保しました。今夜から、6番に停めてください。木崎美鈴』
* * *
週の真ん中の、水曜日。夜の八時に、高倉主任、もとい、……維月さんはやって来た。
今日うちに来る約束なんてしてなかったのに、と、とまどい顔で迎えると、スーツ姿の維月さんはにこりと笑って応えた。
「今夜って、メールにあったからね」
「あ、う……それは……っ」
「来てほしいって意味にとったんだけど、違った?」
「ううっ、それは、その……」
返答に詰まり、視線を泳がせた。維月さんは静かに、翳を潜ませた笑顔でわたしを見つめている。
そういえば、『今夜から』って、文字打ってた。
無意識だよ、そんなの。とくに何も考えてなかった……と、思う。『今夜うちに来てください』なんていう意味をこめたりは……しなかった。……たぶん、だけど。
「すみません、誤解させるようなこと書いちゃって、あの……」
「誤解?」
維月さんの甘やかな色を持つ瞳が、ふと沈んだ。
「そう、か。俺の早とちりだったわけだ。迷惑なら、このまま帰るよ?」
ふっとため息をつき、維月さんは玄関のドアノブに添えていた手を離しかけた。
「まっ、待って! 維月さん、待って! 驚いただけで、迷惑なんてこと、全然ないですからっ!」
冷や汗をかきつつ、わたしは慌てて維月さんを引き止めた。
「そう? なら、よかった。けど、行くっていう連絡くらいすればよかったな。ごめん」
「……う。や、もう、いいです」
玄関先での攻防戦、わたしはたやすく白旗をあげて、降伏した。だいたい、維月さんの不意打ちや切なげなため息に抗おうなんて、無駄な抵抗以外のなにものでもない。敵いっこないって、顔を見た瞬間に、分かってた。
結局、維月さんを追い返すなんてことはせず(できるわけもなく)、部屋にあがってもらった。
維月さんはネクタイを緩め、勝者然と微笑っている。
引っ越してから、ひと月半。ようやく住み慣れ、自分の居所だという実感を持てるようになったアパートだけど、一人きりでいる時間が長くなったせいか、時々、虚無感に襲われることがある。初めての一人暮らしは、気楽だけど、心細い。
そんな心細さを、維月さんはさらりと流し、払ってしまう。強引な維月さんの言動にたじろいでしまうことのほうが多いのだけど、その強引さは蜂蜜みたいにまろやかで、甘い。維月さんはその強引な甘さでわたしを包み、熱し、蕩かしてくれる。
僅かの間に、維月さんの存在はどんどん膨れ上がっていって、なくてはならないものになってしまっていた。
維月さんの存在に、いったいわたしは、どれほど救われているだろう。
それを考えると、怖くなる。不安になる。いなくなってしまったら、どうなるんだろうって。
だから必死になって繋ぎとめている。維月さんをひきとめ、とどめようと、小ざかしい手を使う。
甘えきった欲求を、維月さんは受け入れてくれるだろうか。
薄曇りの今夜は、少し汗ばむほど蒸し暑い。それが、維月の出現のせいで、さらに体感温度が上がった気がする。半そでTシャツに短パンという、ゆるみきった格好が恥ずかしいせいもある。
それに、やっぱり妙に照れくさかった。
だって、維月さんは嬉しげに笑って、『6』番に車を停めてきたよ、と言うんだもの。照れくさくてしょうがない。
そ、そりゃぁ、維月さんのために用意した駐車スペースなんだけども!
ともあれ、維月さんに寛いでもらおうと、座布団敷いたり、冷蔵庫から麦茶をだしてきたりと、わたしはせかせかと動き回った。
「ところで、美鈴」
「はい?」
維月さんは依然立ったまま、わたしの腕を掴んで足を止めさせた。じわりと、わたしと維月さんの距離が縮まる。
「美鈴は、車を持ってないどころか、免許も持ってないだろう?」
「ええ、まぁ」
「駐車場の料金は、俺が払うよ。美鈴が使うわけじゃないんだから」
当たり前のことだと言わんばかりに、維月さんは言った。だけどわたしは首を横に振って、維月さんの申し出を断わった。
維月さんは、絶対に割り勘をしない人、というわけではない。食事でも何でも、奢ってくれる率は確かに高いけど、割り勘を拒むようなことはないし、時には奢らせてくれる。いつも、わたしが負担を感じないよう、気遣ってくれている。
だけど、ううん、だからこそ、たまには負担させてください、と、頼んだ。
「わたしが勝手に契約したんですから、わたしに払わせてください」
「だけど、美鈴」
「いいんです」
わたしは頑として言った。
「わたしが払います。これくらいは払わせてください」
「…………」
維月さんは困ったような顔をし、暫時黙り込んでしまった。
ど、どうしよう……。もしかして、怒っちゃったのかな。不愉快な気分にさせちゃったのかな。
維月さんはわたしの腕を掴んだまま、離そうとしない。
「だって、ですね! 路駐はやっぱりよくないと思うんです」
わたしはちょっと腰を引きつつ、いい訳じみたことを口にした。
「路上駐車は違反で、迷惑なことなんだし。それに、駐禁カード貼られて罰金なんてことになったらいやじゃないですか。かといって毎回駅前の有料駐車場じゃ、勿体無いし。あそこの料金、けっこう高いですよね? 駅前だからしょうがないとは思うけど、週末の夜は割り増し料金になるし。だから、月極の駐車場借りたほうが、安くつくんじゃないかって思ったんです」
「たしかに、ね」
くすっと、維月さんは口角をちょっとあげて笑った。
だけどやっぱりまだ納得のいかなそうな顔をしている……気がする。そんな、微妙な笑みだった。
「あと、それに、維月さんだけじゃなくて、友達にも車持ってる子いるし、だから、その、維月さんのためだけってわけでは、……な、くて。えぇっと、つまり、維月さんがお金を払うことなんか、なくて」
しどろもどろの言い訳は、嘘に変わっていった。
言うに事欠いて、何言っちゃったんだろ、わたし!
維月さんのためじゃないなんて。違う。だってそれじゃぁ維月さんを拒んでるみたいに聞こえちゃう。
そんなの本心じゃない。
「わかった」
「え……」
「せっかくの美鈴の好意なんだし、ありがたく受け取るよ」
「そ、そうしてくれると、助かります」
維月さんはクッと喉の奥で笑った。
「美鈴は真面目だね。少し頑固なくらいに」
にこやかに言って、維月さんはわたしの頭をぽんっと軽く叩いて、それからくしゃくしゃと髪を撫でつけた。
維月さんの愁眉はいつの間にかひらいていて、瞳の色は優しくなってた。
「あと、可愛すぎだから」
「…………は?」
わたしは目を瞬かせ、ぽかんとした。
「まいったな。無自覚に、いろんな手管使ってくれるね、美鈴は」
維月さんは嬉しげに、というより愉しげに笑っている。
「てっ、手管って、なんのことですかっ?」
「甘えてきたかと思えば、つれない態度とって、そのくせ顔を赤くして」
言い終えないうちに、維月さんはわたしの体を抱きしめてきた。維月さんのため息が耳にかかって、くすぐったい。
「まったく、堪らないな。どこまで俺を落とせば気が済む?」
「え、え……っ、あの、すみ、ません」
わけも分からず、けれど何か責められている気がして、とりあえず謝ってみた。
肩をすくめて、おそるおそる顔をあげた。そこには艶然とした微笑を湛えている顔があって、色っぽいとしかいいようのない目が、わたしを見つめている。
心臓が、ぎゅぅっと、絞られた。痛いほどに鳴っている。脈拍も速まって、頭に血が上る。
「あのっ、ほんとすみませんっ」
すみません、ほんともう、助けて。
わたしはもうにっちもさっちもいかなくなってた。
維月さんの両腕から逃れようにも、うまく力が入らない。そのうえ脳内がパニック・ルーム化していて、正常に機能してくれない。思考が麻痺しかけてる。
「謝るようなこと、美鈴はしてないだろ?」
「で、でも、維月さん、怒って……」
「怒ってなんかないよ。そうだな、ちょっと呆れてはいるかな」
「え……」
「さっきも言った。素直になってくれれば、もっと可愛いと思うけどね」
「や、あの……っ」
なっ、なんですか、この人!? ホストばりの気障な台詞を、なんでこうあっさり口にできるの? や、ホストなんて会ったことないから、実際はどんなのか分からないんだけども。
だけど! わたしこそ言いたいよ。
維月さんは、いったい何度わたしを降伏させれば気が済むの?
ずるいよ、わたしばっかり負けて。泣きたくなるほど、恋させて。
「――……っ」
もう、こうなったら……っ!
わたしは維月さんの背に腕をまわし、ぎゅぅぅっと、抱きつき返した。顔は、胸にうずめ、隠した。そして、羞恥心を投げ捨てた。
「嘘です。ほんとは維月さんのためです。維月さんに会いに来てほしくて、駐車場、契約したんです。だから、無駄にならないように、駐車場、ちゃんと使ってください。もっと、わたしに会いにきてください。こうやって、抱きしめてください」
寂しさを忘れさせてください。不安なんて感じさせないでください。傍にいてください。いさせてください。
縋りついて、まくしたてた。
抑えがきかなくなって、涙まで出てきた。みっともなくて、恥ずかしい。顔があげられない。維月さんを正視できないよ。
わたしの気持ちを察してくれたのかもしれない。
維月さんは覆いかぶさるようにして、わたしを抱きしめた。体が折れそうなくらいに、強く。
維月さんの表情は見えない。だけど、高まる鼓動と熱だけは、素肌を通して痛いくらいに伝わってくる。
「維月さん」
ほっとしたのか、心配になったのか。その両方の思いが、か細い声になって、こぼれ出た。
「うん」
そして維月さんは、わたしの耳朶にそっと口づけた。
その後、維月さんはため息まじりに呟いた。
「まいるね、美鈴には」と、甘さたっぷりの、切なげな声で。
* 終 *