彼女――木崎美鈴は、何かにつけて理由をつけたがる。
たとえば、「ただ、会いたい」という理由では、俺に会いに来ない。「ただなんとなく声を聞きたかったから」と言って、電話をしてくることは、稀にある。だが、「会いたい」とは言わない。言えないでいるのだろう。
大抵、会う約束を取り付けるのは、俺からだ。俺から会いにいき、あるいは招く。
少しばかり、もどかしくも感じる。
だが、彼女の不器用な生真面目さは無防備さに繋がり、もどかしささえ、恋慕を募らせる一端になる。
それを、彼女は知らない。
彼女は自分自身に関し、無知すぎるきらいがある。自分自身を軽視しているといっていい。
彼女は自分自身を知らなさ過ぎる。
その無知さは、つけいる隙でもあると同時に、彼女の最大の武器でもある。つけいった瞬間に振り落とされる彼女の無自覚な「武器」の威力は、絶大だ。
そんな彼女が、俺を誘った。やはり彼女らしく、理由を付けて。
「スペアリブのトマト煮込みを作ったんです。食べに来ませんか?」
という、そっけないとも言えるメール文を、作った料理の写真を添付して送信してきたのは、金曜の夜。
先に退社する美鈴からのメールの件名はいつも、「お疲れさま」だ。帰宅途中ではなく、アパートに到着してから、送信してくる。「ただいま」を言うように、メールは届く。
今日のメール、件名はいつもどおり「お疲れさま」だが、写メを送ってくるのは珍しい。食事の「お誘い」も。
「維月さんにはいつも奢ってもらってばかりだから」
そのお礼だと美鈴は言う。だが、お礼だけが理由ではないだろう。
手料理は、いい口実になる。美鈴にも、俺にも。
断わるはずもなく、俺は仕事先から美鈴のアパートへ直行した。
「最近、料理をするのがけっこう楽しくて。今、レパートリー絶賛増やし中なんです」
失敗も多いんですけど、と、美鈴は照れくさそうに笑う。
テーブルに並べられた料理は、実に色とりどりだ。スペアリブのトマト煮込み、胡麻味噌ドレッシングのかかった糸こんにゃくとキュウリとじゃこのサラダ、ツナとキャベツともやしの入った春巻き。酒の肴にと、なすびと湯葉の白和え、エビのアボガドソース和えも用意された。
どれも簡単に作れるものだと美鈴は言うが、時間はかかっただろう。デザートには紅茶のプリンまで出るというのだから、豪華絢爛だ。
美味いと褒めれば、美鈴は心底嬉しそうな顔をし、「よかった」と胸を撫で下ろす。
失敗することも多いと言う美鈴だが、今のところ失敗した料理を出されたことはない。そういった料理は、おそらく美鈴の胃に隠されてしまうのだろう。
そんな美鈴だが、時には意地悪をして、ピーマンのどっさり入った野菜炒めを出してくる。
「あ〜、維月さん、またピーマン除けて! 好き嫌いはよくないですよ?」
そう言って、美鈴は俺を窘める。ちょっとからかうような顔をして。結局除けられたピーマンの山は、美鈴が食べてくれるのだが。
「もう、しょうがないなぁ」
と、なにやら満足そうな顔をして。
今日の料理には、ピーマンは使用されてない。同じように苦手なパプリカも。
おかげで、美鈴の手料理を十分に堪能できた。
出された料理を平らげた後、洗い物に立った美鈴に、「手伝おうか」と声をかけたが、いつものごとく、断わられた。美鈴は、ブランデーの瓶と氷とグラスを、酒の肴の和え物と一緒にお盆に乗せ、テーブルに置く。こういう時の美鈴は、実に手際がいい。
美鈴は、さり気ない。
俺が車で来ていることを知っていて、酒を出してくる。そうして帰れなくなる理由を用意してくれるのだ。
キッチンに立つ美鈴は、いつになくご機嫌な様子だ。料理が上手くできたことも、笑顔の要因のひとつだろう。
美鈴は、胸元に小さなロゴの入った白いTシャツと黒のカプリパンツ、その上からモスグリーンとベージュのストライプのエプロンを着用している。飾り気のない、シンプルなスタイルを好む彼女らしい格好だ。肩につくかつかないかの髪は、首の付け根辺りで無造作にまとめている。
美鈴のすらりと伸びた二の腕や、形よく並んでいる程よい大きさの胸、そしてきゅっと締まった細い足首は、じっくりと観賞するに価するものだ。
テレビの、さして面白くもないバラエティー番組を見ているより、ずっと目の保養になる。が、あまり見つめすぎると、美鈴は苦情を申し立ててくる。
「あまりそう、じっと……見ないで、維月さんっ! ものすごく居たたまれないんですけどっ!」
美鈴は、人に見られている、ということに酷く敏感だ。たとえ好意的な感情からくる目線であっても、彼女自身はそれを感じない。ただ「見られている」ということだけに反応し、萎縮してしまう。
じっくり眺めていたいのはやまやまだったが、美鈴を困らせないため、視線をはずした。じっくり観賞するのは、後の楽しみにとっておこう。
視線をはずしたものの、テレビを見る気にはなれず、何とはなしに目に入った女性向けのファッション雑誌を手にとった。
どうやら定期購読している雑誌のようだ。藤製のラックには、先月と先々月分が立てかけられていた。
女性向けの雑誌には、存外下世話な内容の記事もある。むろん、ゴシップ系の週刊雑誌に比べれば、一読の価値はある内容で、それなりに、役に立つ。
そして役立つ情報として受け止めるか否かは、読者側の裁量になるのだろう。
得た情報を利用するか否か、それもまた自由であるように。
手に取った雑誌のメイン記事は流行のファッションについてだ。着こなしや、メイクアップ術などがページの大半を占めている。その他、人気モデルやタレントのインタビューやエッセイ、占いのページ、簡単料理のレシピなど、実にバラエティーに富んでいる。
月替わりの特集記事は、女性雑誌ならではの記事といえる。呆れるほど率直な内容だ。
今月の特集記事はなかなか興味深い。記事に関連したアンケート結果やコメントが、イラスト付きで載っている。
……これを、美鈴も読んだのだろうか?
「維月さん、さっきから何を真剣に読んでるんですか?」
洗い物を終え、キッチンから戻った美鈴が腰をかがめ、俺の顔を覗き込んできた。
「ん、これをね」
口の片端が、つい上がる。
目を細めて、美鈴に笑いかけた。
「ここの記事。なるほどねと思って」
「…………?」
美鈴は小首を傾げて、俺が指差した記事を見、瞬間、
「うっ!?」
と、声を詰まらせた。そして大慌てで、俺の手から雑誌を奪おうとする。むろん、そう容易くは奪わせない。
俺の横にぺたんと腰をおろし、……というより、腰が抜けた、と言った方がいいかもしれない美鈴は、「わぁわぁ」奇声をあげながら、雑誌を引っぱり取ろうとしている。
記事の内容は、実に下世話なものだ。下世話だが、真面目な記事でもある。
『彼との気持ちいいセックス・ライフ』
このタイトルだけでも、どんな内容なのか詳しく読まずとも分かるというものだ。
「これ、参考になるね?」
「なっ、何言って……っ」
「特に、ここ。『好きな体位はなんですか?』のアンケート。男女両方の集計があるのがいいね。う〜ん、存外重なってるな」
「や、もう、維月さん、そういうことはっ」
美鈴の慌てぶりときたら、ほくそ笑んでしまうくらいに、おかしくて、かわいい。
「そうだな、俺は…………『座位』、かな」
「だっ、わぁぁぁっ! って、そんなこと聞いてないし!!」
美鈴はようやく俺の手から雑誌を奪うことに成功した。
「美鈴は?」
「そっ、そんなこと真顔で聞かないでほしいんですけどっ!!」
美鈴は両手で雑誌を床にぎゅうぎゅうを押しつける。その仕草、姿勢がひどく「そそる」ものだとは、美鈴自身はまったく考えてもいないだろう。俺の目線がどこにいっているのか、それにも気づかない。
俺は苦笑しつつ、目線を僅かにあげ、美鈴のちょっと潤んでいる瞳を見つめた。
「本気で知りたいんだけど。美鈴が好きな……」
「って、もわぁぁぁっ!!」
「何もそんなに照れなくても」
「照れとかそういうことじゃなくて!!」
「照れじゃなくて? じゃぁ、どういうこと?」
「し、知りませんっ!」
美鈴はぷいっとそっぽを向く。頬と耳が、さっき食べたスペアリブのトマト煮のように美味しそうに赤く色づいている。
「それなら実験して、自分で調べるしかないかな。あれこれと試して……」
「ちょっ、維月さん……っ」
俺の邪な手が伸びるのと同時に、美鈴は身体をのけぞらせた。
美鈴のガードは固いようで、脆い。その脆さに臆し、つい手を引いてしまう。
ひるんだ俺をどうとらえたものか、美鈴は困ったような顔をし、泳いでいた視線を恐る恐る俺に向けた。
「あの、……あのですね、維月さん」
「うん?」
俺はソファーに背を預け、ため息をついた。顔だけは美鈴に向けたままで。
「う〜……、あ、の、わたしはですね」
「うん?」
先を急かさず、美鈴の言葉を待った。
「えぇっと……」
俺は急く気持ちを抑え、美鈴の唇を見つめた。
どんな言葉が美鈴の舌を動かし、出てくるのだろう。
美鈴がためらいがちに言葉を紡いだ。小さな声で、たどたどしく。
「その……わたしは、……維月さんと……す………………のが、好き、というか、……だから、その」
か細い声は聞き取りにくい。俺は床に放られていたリモコンを引き寄せ、テレビを消した。
美鈴は俯いている。
「なに? 聞こえなかった」
美鈴は唾をこくんと飲んだ。その音も、今は聞こえる。
「もう一度言って、美鈴?」
紅潮している美鈴の顔を覗き込んで、「もう一度」と、ささやいた。
「や、だから、その……い、つきさんと、……す、るのが、いいから、体位とかそんなのは、…………」
美鈴は固まっている。先を続けられず、ただ、「うぅ……〜」と、低く唸っている。
ほんの一瞬の沈黙だったが、それすら美鈴は耐えきれなかったようだ。
赤い顔をさらに赤くし、身を捩じらせて、前言を撤回した。
「って、やっぱり今の、却下! 却下で! 聞き流してくださいっ!」
「それこそ、却下。聞き流せない」
この時俺の、頭を、心を、体を迸った激情は、とても言葉では言い表せない。行動に表したほうが早い。
美鈴の耳は、熱い。指先でつまんでやると、眉をしかめ、困惑しきった目で俺を見つめ返してきた。
「美鈴は、……上手だね」
「は……?」
俺に圧し掛かられ、窮屈そうにしている美鈴は、目を丸くした。
「俺を誘うのが」
にっこり笑ってそう言うと、美鈴はさらに顔を赤くして、文句をつけてきた。
「な、なん、もぉぉっ! 聞こえませんっ! 聞こえませんから、何言ってるのか分かりませんっ!!」
「うん、いいよ、それで」
「は?」
「……うん、そのままで」
「え、えぇ? 意味がわかりま……って、んぅぅっ」
唇を重ね、呼吸の合間に、熱情を注ぎ込む。
待ちかねた行為だ。躊躇はしない。待ちかねていたせいで、少しばかり乱暴になってしまうが。
とりあえず、「好き」だという言質もとったことだし。今この行為にいたる「理由」としては、十分すぎるほどだろう。
――分からないなら分からないままでも、いい。
ありのままの、飾らない美鈴をじっくりと見続けていたいから。
* 終 *