――わたしだけに。わたしだけを。
子供っぽい独占欲だと分かっていても、止められない。苦しくなるほどに。
辛うじて抑えこんでいる感情だから、我慢しきれなくなることが、怖い。歯止めがきかなくなりそうで……。情けなくて、恥ずかしい。
わがままを言って、泣き、縋る。そうやって彼を困らせてしまうことが辛くて、嫌で。……それなのに、甘えきってしまう。
わたしを抱きしめてくれる彼の腕が離れてしまわないことを、願いながら。
* * *
終業時間は十八時。時間内に仕事を終えられることがほとんどだけど、たまに残業を依頼されることがある。
わたし達派遣社員の場合、残業は強制ではないから、断ることもできる。
用事があろうがなかろうがきっぱり断る子達もいるし、特別な用事がない限り諾々と引き受ける子達もいて、わたしはどちらかといえば、後者。そう度々あることではないから、おおよそは承諾し、二時間前後、残業していく。
今日も、そう。
久しぶりに残業を依頼され、ちょっとだけ「どうしようか」と考えたけど、結局、承諾した。
高倉主任から個人的に頼まれた、なんてことは決してなく! あくまで、上司の依頼を気軽に受けただけのこと。
特定の人に対する個人的な感情は、会社にいる時はなるべく出さないよう、心がけてる。思いを顔に出さないよう、気を引き締めてる。高倉主任のこと目で追わないよう、見つめないよう、必死で堪えてる。
上手く出来ているかどうかは、我ながら微妙だけど。
今日の残業に残った派遣社員はけっこう多くて、先輩の浅田さんもむろんいる。珍しい顔ぶれもあって、わたしと同期で同年の桃井さんも、残ってた。
「桃井さんが残業なんて珍しいこともあるもんだね」
浅田さんがちょっぴり皮肉を込めて言うと、桃井さんは、
「最近ちょっとヒマなんでぇ」
と、鼻にかかった甘ったるい声で応えた。浅田さんと桃井さんは、どうにもウマが合わないらしく、敬遠こそしてないけど、二人がお喋りに興じることはめったにない。
一方で、わたしと桃井さんは、ほぼ同時期に入社したということもあってそれなりに親しくつきあっているけど、仲が良いというほどの間柄じゃない。他愛ないお喋りの相手にはなるけど、その程度。
今日の桃井さんはいつも以上に饒舌だ。聞くところによると、近頃彼氏と別れたらしく、「寂しいんだよねー」という心境でいるらしい。そういうわりに、ケロリと笑っている。無理して明るく振舞っているのかもしれないけれど…………わたしの目が伏し穴なのか、そういう風には見えない。
そんな、失恋して傷心を抱えている(らしい)桃井さんが、終業間際、唐突に訊いてきた。
「ね、木崎さん、今週の土曜、空いてない?」
桃井さんはバレッタでひとつに束ねていたライトブラウンの髪を解きつつ、わたしの顔を窺ってきた。
桃井さんは人をじっと見つめる癖がある。アイメイクが濃いせいか、目の力にたじろいでしまって、話しかけられても、いつも返答が遅れてしまう。
「ね、土曜なんだけど?」
「土曜って、あさっての?」
「そうそう。あさってさぁ、コンパがあるんだけど女子があと一人、二人、足りないんだよね〜。で、木崎さん、予定ないんなら、来ない?」
「…………」
考えるふりをして、わたしは室内を見回し、高倉主任の姿を探した。
さっき事務長と出て行ったっきりで、戻ってきてないようだ。
ちょっとほっとして、桃井さんに応えた。
「ごめん、土曜日は予定入ってるから」
「そうなのぉ? 夜まで?」
わたしは頷いた。桃井さんはむぅっと口を尖らせつつも、言葉を継いだ。
「あー、もしかして彼氏とデート、とか?」
明らかに、わたしが「そんなんじゃない」と答えることを予想しての、桃井さんの物言いだった。
桃井さんに対抗意識を持ってるわけじゃない(と、思う)けど、少しばかり驚かせてやりたいって衝動に駆られた。
だから、――
「うん、実は……そう」
と、気恥ずかしさを抑えて、答えた。
桃井さんは思っていた通りの反応をしめしてくれた。
「えぇぇっ、うっそ、マジッ?!」
大袈裟な驚きっぷりを見せてくれる桃井さんに、わたしは苦笑を返していた。
そこまで驚かなくても……と思う一方で、やっぱり驚くだろうし、もしかしてショックだったかな、とも、思った。
「けどさ、木崎さん、ちょっと前まで彼氏なんていないとか言ってなかった?」
「うん、……ちょっと前までは、いなかった」
「うーわぁ、そうなんだぁ……そうかぁ……」
桃井さんは眉間に皺を寄せたり、口を尖らせたり、どうやら心中穏やかではないようだ。
相手はどんな人なのかとか、どこでどう知り合って付き合いだしたのかとか、桃井さんは、こと恋愛話に関しては根掘り葉掘り訊きたがる性質なんだけど、今はその余裕もないみたい。
桃井さんは以前、
「木崎さんって、高倉主任に気があるの?」
と、面白半分、興味半分といった具合に、訊いてきたことがある。
桃井さんは、女特有の鋭い勘を持ってる人だから、あれこれ訊かれたら、わたしと高倉主任のこと、感づかれてしまいかねない。
高倉主任に、唐突に、出し抜けに、けれどどこか心の奥で期待していたのかもしれない告白をされて、もう三ヶ月が経つ。
今、わたしと高倉主任は、ただの「上司と部下」という関係ではなくなってる。
よく一緒に飲みに行ってた浅田さんにも、わたし達のことはまだ話していない。浅田さんにだけは、いずれ折を見て話すつもりでいる。
だけど、できれば桃井さんには知られたくなかった。
桃井さんは、悪気はないんだって分かってるけど、口の軽いところがある。「誰にも言わないで」と頼めば頼むほど、秘密を漏らしてしまいそうで、正直信用できない。
別に「不倫」ってわけじゃないんだから誰に知られたって不都合なことはないんだけど、やっぱり、困る。高倉主任に迷惑をかけてしまうのは、嫌だから。
だから、桃井さんに「彼氏」のことを追及されなくて、ほっとした。ごまかしきれない自分を知ってるくせ、つい「彼氏ができた」なんて言ってしまって、内心焦ってた。
安堵のため息をつき、胸を撫で下ろしていた…………っていうのに!
「あ、高倉主に〜ん!」
どうしてタイミングを見計らったように現れるんですか、高倉主任!?
それに、どうして桃井さんも手招きして、高倉主任をこちらへ来させるの?
空調のきいた涼しい部屋だというのに、全身が焦げつくように熱くなり、こめかみにじっとりと汗が滲んだ。
「何、桃井さん?」
人当たりのいい気さくな高倉主任は、訝しげな顔もせず、歩み寄ってきた。
白い長袖のワイシャツとぴしっと糊のきいたスラックス姿の高倉主任は、片手でサックスブルーのネクタイを緩めて軽く息をつき、穏やかな微笑を浮かべた。
もう片方の手にはホットコーヒーの入った紙コップがあって、そこから苦いような甘いような香りが立ち上っている。
「いいところに、高倉主任!」
桃井さんは睫をパチパチと上下させ、にっこりと笑った。
爪楊枝が二、三本乗りそうなくらい、たっぷり黒々と施されたマスカラの下の瞳が、勝負を挑むように光っている。媚びているように見えるのは、きっとわたしの偏見だ。
……今わたし、きっと
それを少しでも隠そうと、切りすぎた前髪を指先でつまんで、引っ張った。その指の隙間から、ちらりと桃井さんと高倉主任の顔を窺った。
「いいところって?」
「高倉主任、今あたし、彼氏絶賛募集中なんですよぉ。なぁんでっ! コンパしましょうよ、コンパ!」
「コンパ?」
高倉主任は、少し困った顔をして訊き返した。
「そーですよ、コンパコンパ! 人集めてセッティングしてくださいよぉ! もうこの際社内のヤツラでもいいから、人数集まりませんか?」
「う〜ん、そうだなぁ……」
高倉主任は可とも不可ともつかない曖昧な笑顔で言葉を濁している。
あえて、だと思うけれど、わたしの方に視線を流さずにいる。
「高倉主任もチャンスだと思って、気合い入れてくださいよ! あたしもできるだけ女の子集めますから、パーッとやりましょうよ、パーッと! 新たな出会いを求めてっ!」
「あ、あの、わたしっ!」
耐えきれず、わたしは椅子を倒さんほどの勢いで立ち上がった。
椅子の足が床をこする不快な音が、わたしの上擦った声に重なった。
「ごめん、桃井さん」
「…………」
盛り上がっているところにいきなり水を差されたのが癪に障ったのか、桃井さんはムッと眉をしかめてわたしを睨みつけた。
けれど、桃井さんの不機嫌顔をことさらに無視して、わたしはさっさとデスク周りを片付けた。
「もう終業時間だし、わたし、帰るね。それじゃ、高倉主任、桃井さん、お先に失礼しますっ」
向けられた視線を断ち切るようにして、わたしは二人の側から逃げ出した。
場の空気を白けさせたわたしの態度は、桃井さんを不愉快に、そして不可解な気分にさせただろう。
それに、高倉主任まで嫌な気分にさせちゃったかと思うと、気分はさらに沈下し、自分の不甲斐なさが腹立たしくすらあった。
あんな態度とっちゃうなんて、サイアクだ、わたし……。
凹み、うな垂れて、のっそりとロッカールームから出、ため息をついた、その時だった。
「木崎さん」
と、背後から呼び止められ、飛び上がるほどに驚いた。
低いけれど、柔らかな声音。振り返ると、そこには両腕を組んでる高倉主任がいた。
「木崎さん、ちょっと頼み事があるんだけど」
「あの……頼み事、ですか?」
「そう」
淡々とした短い言葉の中に、怒気が含まれている様子はない。だけど、強い吸引力を持つ瞳がわたしをとらえて、視線を逸らすことすら、赦してくれない。
「こっち。ついてきて、木崎さん」
「あ、あの、わたし……」
「こっち」
高倉主任は顎をしゃくってわたしを促し、踵を返して歩き出した。
高倉主任はわたしの手を掴むでもなく、先に立って、すたすたと廊下を歩いてゆく。
わたしがついてこないなんて、まったく考えてないようだった。実際わたしは見えない紐で牽引されてるかのように、小走りになって、高倉主任の後を追いかけている。
上の階と下の階からはやや活気の衰えたざわめきが聞こえてくる。けれど、今わたしと高倉主任がいる階に人気はなく、二人分の足音だけが空気を揺らし、夜の静けさを際立たせていた。
高倉主任は一言も発しない。黙ったまま、わたしの方に振り返りもしない。「高倉主任」と、恐る恐る声をかけても、応えてくれなかった。
どうしよう……。きっと、怒ってるんだ、さっきのこと。
気まずい雰囲気を作ったまま逃げ出したんだもの、呆れられても、怒られても、当然だ。
でも、――でも……!
「…………」
ふと、窓ガラスに映った自分の顔が目に入り、足を止めた。
夜闇とネオンとを背面にした窓ガラスに、わたしが映ってる。光がチラチラ揺れているようにわたしの目も不安に揺れ、その黒目に自分を映した。
中途半端に伸びた癖のある髪は、あちらこちらで毛先が跳ねてる。眉間に不自然な力みがあって、泣き出す寸前といった顔をしてる。正視に堪えないほど酷い
「木崎さん」
名を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
けれど、その時にはわたしの前に高倉主任の姿はなく、ただ声だけが、曲がり角の向こうから聞こえてきた。「木崎さん、こっち」、と。
わたしは声のするほうへ駆け、角を曲がった。
曲がりしなに、いきなり、だった。
「捕まえた」
腕をつかまれ、腰を引き寄せられ、逃げる間もなく、高倉主任に抱きしめられてしまった。
「えっ、や……っ」
「逃げられないよ、美鈴。観念して」
悪戯っぽく言って、高倉主任はわたしの体を拘束した。
「や……っ、ちょっ、しゅ……にっ」
もがいても、高倉主任は腕を放してくれない。
驚きと焦りで、全身が熱くなる。心臓が破れそうなくらいに胸が鳴りだして、息が、……苦しい!
「や、だ……っ、だめです、しゅに……っ、こ、こんなとこでっ」
こんなところを誰から見られたら、という不安ももちろん頭を掠めたけど、今はそれよりも、高倉主任の激しい抱擁に溺れていきそうなのが、怖かった。震える程に怖くて、わたしの口から出るのは、拒絶の言葉ばかりだ。
「や……っ、お願いっ、お願いです、放してください! 放してっ」
わたしの懇願を、高倉主任は聞き入れてくれない。わたしの背に回した両腕の力を緩めてくれない。
「美鈴」と、耳元でささやいて、さらにわたしの身体を
苦しいよ、高倉主任……っ!
高倉主任の腕の中で、溺れて、死にそう……!
「だめだよ、美鈴」
ふいに、高倉主任の腕が少しだけ緩んだ。
「そんな顔をさせたまま、帰せない」
高倉主任は射し込むようにわたしを見つめる。
その眼力は香りの強いリキュール入りのコーヒーみたいに、わたしの目を覚まし、かつ、酔わせる。
「…………」
唇を噛んで、俯いた。
やっぱり、怒らせちゃったのかも。
フォローのしようのない、感じの悪い態度をとっちゃったんだから、怒って、あたりまえだ。
でも……でも、聞きたくなかった。あの場に居たくなかった。
子供っぽい我侭だって分かってるけど、でも……――
「桃井さんに、コンパのことは別のヤツに話を持ってくよう、言っておいた」
「――え?」
「俺は、参加する必要もないしね」
顔を上げるとそこには、『高倉主任』ではなく、『維月さん』の顔があった。
「他もまぁ、適当にごまかしておいたから。……桃井さんのことは、気にしなくていいよ」
「……っ」
や、やだっ、泣きそう……っ!
ただでさえ酷い顔してるのに、この上泣き顔まで見られたくない。
それなのに高倉主任はわたしの頬に片手を添え、俯かせてもくれない。
「や……っ、顔、見ないで」
喉と鼻の奥が痛くて、涙が眦に滲んだ。
「今すごく、嫌な……変な顔してるからっ」
「変な?」
高倉主任は小さく笑った。
「底意地の悪い、嫌な顔してるって、自分でも分かってるんです。だって、わたし……――」
声が詰まって、言葉を継いでいけない。
「わ、たし……」
さっきまで、やきもち焼いて、苛々して、情けなくなって落ち込んでたのに、高倉主任の言葉を聞いて泣きそうになるほど嬉しいなんて、ゲンキンすぎる。
高倉主任は微笑したまま、わたしを深く見つめてる。そうして、わたしの心を引き出し、受け止めてくれる。
高倉主任……ううん、維月さんだ。わたしの想いを包み込むようにして抱きしめ、支えてくれてるのは。
「だから、その……、維月さん、……ごめんなさい」
わたしは維月さんの洞察力に甘えてばかりだ。
「ほんとにごめんなさい」
繰り返して言うと、維月さんは目を細めて、口元をほころばせた。
「美鈴、それは俺の台詞だ」
「え?」
維月さんはわたしの顎を指先に乗せ、何気ない口調で、言った。
「妬いてる美鈴の顔を見れて嬉しいなんて言ったら、怒る?」
凝り固まってたわたしの心を解きほぐすよう、甘やかに笑って。
想いが、堰を切って溢れ出す。流され、溺れ、
維月さんは、不安にたゆたうわたしに手を差し伸べてくれる。
そうして、したり顔で言うのだ。
「人工呼吸なら、いくらでも」
わたしを溺れさせておいて、抜け目なく。
* 終 *