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Hush-Hush 2

 もしかしなくても、「田辺っち」っていうのは、営業二課の田辺さんのこと……よね?
「田辺っち」なんて軽く呼ばわるあたり、けっこう親しいんだろうなと推察できる。
 桃井さんも交友関係の広い人だから、田辺さんと親しくても不思議はないし意外でもないのだけど、やっぱり少し、驚いた。
 他の課の、それも特に男性社員達と、積極的に関わろうなんて思いもしないわたしと違って、桃井さんは物怖じせず、気軽に交友関係を拡げてる。基本的には同世代で、男女問わず。だけど桃井さんは、男の人の方が話しやすいって言ってたっけ。
 社内の噂話……メインは色恋沙汰だけど、人事に関する事から各課の業務内容の変更増減に関するその他諸々、自分に関わってこない事まで知りたがり、首を突っ込みたがる桃井さんは、「話を広めるのは女の方が早いけど、情報を拾うのは男からの方が確かなのよね」と言ってたことがあった。それで必然的に、男性社員との繋がりが多くなるらしい。
 そこまでして社内の人間関係に詳しくなろうって考えがわたしにはさっぱり分からない。それをちらっとこぼしたことがあったのだけど、桃井さんは、
「だって面白いじゃない?」
 そう答えて、けろりと笑ったものだ。
 これ以上ないってくらい、正直な答えだ。桃井さんはそういうカラッとした明るさがある。
 だからかな、桃井さんの噂話好きには少々困ったりもするんだけど、心底辟易するってことはない。大抵話半分に聞き流して、適当に相槌を打っている。先輩の浅田さんにしても、「困ったもんだ」と苦笑するだけで、桃井さんの行状をいちいち咎めたりしない。
 お喋り好きな桃井さんの話は益体も無いものがほとんどだから、右の耳から左の耳へ抜けさせてしまっても大して支障はない。
 とはいえ、やはり聞き流せない場合もある。たとえば「高倉主任」のことが、そう。
 表面上は興味なさげな顔をして、焦りなんて見せないようにしてる……つもり……なんだけど、内心では桃井さんの口から「高倉主任」の名前が出るだけでひやひやしてる。平静を装うのも一苦労で、うまくいってる自信がない。
 桃井さんはというと、焦りを必死に隠すわたしなど気にも留めず……というか、気付いてもいないようだ。高倉主任に詰め寄り、その顔色を窺うことに余念がない。
 わたしは心中穏やかではいられず、けれどそれを表面に出すまいと、口の端をきつくしめている。我ながらなんて不器用なんだと思うのは、こんな時だ。
「田辺っちは確かな情報って言ってたけど、ホントのところ、どうなんです、高倉主任?」
 プライベートな話題をふられても、高倉主任は不快な顔をしない。ちょっとだけ困ったような顔はするけれど、
「それを知ってどうする。君には関係ないだろう」
 なんて冷たくはねつけたりはしない。
 高倉主任は、煩わしげでも楽しげでもない、曖昧な微笑を面貌に貼りつかせ、いささかも動ずることなく、さらりと答えた。
「いるよ、彼女」

 答えてからも、高倉主任はわたしの方をちらりとも見ない。見ないようにしてくれてるのだと思う。
 わたしはといえば、高倉主任の一言に胸を高鳴らせ、とっさに視線を逸らしてしまった。――頬が、熱い。
「そっかぁ!」
 桃井さんは満足げな声をあげた。
「へぇ、そっかそっか、いるんだ、彼女ぉ。へぇぇっ」
 桃井さんはなぜかやたらにはしゃいでいる。新情報がデマじゃないと分かったのが嬉しいのか、それとも同僚達に話すネタができたことを喜んでるのか、たぶん両方だとその思うけれど、ともあれ、「色恋」の話題は桃井さんを生き生きとさせる。
 さあ、ここからが桃井さんの本領発揮。もっと詳しく追及すべく、桃井さんは押し迫るように身を乗り出した。ところが、高倉主任はかわし上手だ。
 桃井さんが問いを重ねてくる前に、にこりと笑んで、制した。
「そうそう、桃井さん。田辺といえば」
 高倉主任の話の逸らせ方は強引だ。けど話の腰を無理に折ってしまうような強引さではない。
「僕も聞いたよ、田辺から。桃井さん、彼氏できたって?」
「へっ?」
 同じ問いを返されて、桃井さんは目をぱちくりとさせ、それから憤然と声をあげた。といっても本気で怒ってるって顔はしてなくて、口元は笑いを隠せないといったように、緩んでる。
「んもぉぉっ、田辺っちめぇっ! なにポロッと喋っちゃってるかなぁっ?! って、そりゃまぁ別に口止めはしてなかったけどさぁ! 話すの、早すぎ!」
「そういえば口止めはされなかったなぁ」
 高倉主任は目を細め、愉快げな笑い声をたてた。
 ここでもう、会話の主導権は高倉主任の手に渡ったといっていい。
 高倉主任は普段、他人のプライベートに関してあれこれと詮索する人ではないけれど、相手に合わせた会話もできる人だ。相手のペースにうっかり乗せられるということも少ない。それに、たとえどんな話であれ、下世話になりすぎない加減も心得ている。女性社員の多いこの現場にいるお陰で、色々と慣らされたのだと、以前高倉主任は苦笑まじりに語ったことがあった。
 高倉主任の、心意を悟らせない表情の曖昧さは、経験の積み重ねの結果なのだろう。
 プライベートでの高倉主任にも、その名残はある。だけど、やっぱり会社での顔は作ったものなんだなと、改めて気がついた。
 高倉主任は掴みどころのない微笑を崩さず、言葉を継いだ。
「田辺はさすが桃井さんだって感心してたし、あと、羨ましがってた。コンパで知り合ったって?」
「そうなんだ、桃井さん?」
 さっきまで、我ながら不自然だと思う程にだんまりを決め込んでいたわたしは、すかさず高倉主任の話に便乗し、会話に加わった。
 ずっと黙ったまま、神経を張っていたからさすがに気詰まりだった。話の流れが変わって、やっと息がつけた。
「全然知らなかった。いつの間に?」
「うん、できちゃいましたよ、めっちゃ最近なんだけど」
 高倉主任に話を逸らされたことにムッとするどころか、すっかり上機嫌になって、相好を崩しまくってる。
 わたしはつい忍び笑ってしまった。そんなわたしに、高倉主任は悪戯っぽい笑みを見せ、軽く小首を傾げた。「大丈夫、安心して」と、目で合図をしてきた。わたしは内心ひやりとしつつも、ほっと小さく、嘆息した。
 こういう時、高倉主任には敵わないってしみじみと思う。
 桃井さんだけじゃなく、わたしも、高倉主任の掌の上で転がされちゃってる。それがあまりにさり気ないから、かえっていい気分になっちゃったりするんだ。
 高倉主任って……ほんと、曲者だ。
 桃井さんは、高倉主任の「彼女話」なんて忘れ去ってしまったがごとく、自己語りに浸り始めた。
「ほらぁ、もうクリスマスシーズンでしょ? さすがに独りは切ないなぁって思っててコンパ行きまくってた結果、いい感じに出会えまして」
 半年経つか経たないかくらい前に、彼氏と別れてフリーなのだと言っていた桃井さんは、今までもそうだったようだけど、「フリー」でいる期間が短い。それでも今回は長かった方じゃないかな。
「しかも、なんと初の年下!」
 と、桃井さんは自慢げだ。「彼、幾つなの?」とわたしが訊くと、桃井さんは鼻高々に二十歳の大学生だと答えた。
 それから、その彼氏とのコンパでの出会いから現在に至るまでの経緯へと話が膨らむところだったのだけど、昼休憩がそろそろ終わりに近いことに気づいて、わたしは遠慮がちに水を差した。
「ね、桃井さん、もう昼終わるけど、タバコ、行ってこなくていいの?」
「うっわ、もうこんな時間っ?! ちょっ、喫煙場行って来る!」
 愛煙家の桃井さんはタバコの入ったポーチを掴んで立ちあがり、時間を確認しつつ、場を離れた。
 桃井さんは結局、高倉主任の「彼女話」の詳細を聞き出せずに終わった。一服してる時に、それに気付かなければいいけれど。
 わたしはちらりと、高倉主任を見やった。
 維月さんは「やれやれ、相変わらず慌ただしいな」とでも言いたげな顔をして、桃井さんの去って行った方に目をやっていた。田辺さんに、できたての彼氏話を口止めしなかったように、桃井さんは高倉主任にも口外を禁じなかった。口止めの必要がないからってこともあるだろう。
 高倉主任もまた、桃井さんに口止めしなかった。その暇もなかったといえばそれまでなのだけど、口止めしようとする気配もなかった。田辺さんにも、きっと口止めしてないんだろう。
 彼女がいる。そのこと自体は隠すようなことじゃないもの、当然だ。
 だけど。……――わたしには?
 ふと、小さな悪戯心が湧きあがってきた。少しだけ、心に余裕が生まれたのかもしれない。それはきっと、高倉主任の……ううん、「維月さん」のおかげだ。
「あの、わたしも」
 桃井さんが去ってすぐ、わたしも「今のうちに、わたしもお手洗いに」と立ち上がった。一応高倉主任に声をかけて、席を離れた。
 高倉主任は「うん」と応えただけで、わたしを引き止めたりはしない。ただ少しだけ、何か言いたそうに口元が動いたように見えた。
 わたしが振り返ってみた時、高倉主任はもう自分のデスクに向かってるところだった。首を伸ばして嘆息し、それから胸のポケットにしまっていた携帯電話を取り出した。電話をかける様子はなく、メールチェックをしているようだ。
 わたしは小走りになって廊下に出、携帯電話を片手に持ち、開いた。ちょっと考えてから、指を動かし始める。
 メールの送信先は、高倉主任。
『高倉主任へ』と、件名にいれた。そして、お願いしますと、文をつづった。

『わたしにだけこっそり教えてもらえませんか? 彼女の名前を知りたいです』
 すぐに返信が届いた。わたしの意図を察してくれた高倉主任……維月さんからの返信文は、短い。
『どうしても?』
『どうしても知りたいです』
『そんなに知りたい?』
『知りたいです』
 子供っぽい押し問答に、わたしは小さく笑った。
 そんな他愛無い維月さんの焦らしに、くすぐったい心持になり、自然と口元がゆるんでしまう。
 このまま焦らし合いを続けるのも楽しいだろうけど、もうタイムリミットが迫ってる。
 あと二、三分で昼休憩は終わる。それを維月さんも分かっていて、今度はひどく直球な一文を返してきた。
『木崎美鈴、という。とても可愛い、大切な彼女だ』

「…………」
 維月さんの声が耳元で聞こえてきそうな、そんな一文。
 頬が火照りだしてきて、眩暈がした。すぐに返信しようと思ったのに、指が止まってしまった。
 ほんとうに、維月さんはずるい。敵わない。
 気の利いた台詞一つ思い浮かばない。けれど、わたしは再び指を動かし、維月さんに返信した。
『口止めしなくていいんですか? もしかしたら口が滑っちゃうかもしれません。そしたら、逃げちゃうかもしれませんよ?』
 まるで、下手な脅し文句みたい。
 自分で自分がおかしかった。口が滑るなんてこと、たぶん……ないし、逃げちゃうなんてことは、ありえない。
 滑っても逃げても、困るのはわたしだけだろうに。
 だけど。……――本当のところ、維月さんはどうなんだろうって思った。思ったから、ちょっと脅してみたくなったんだ。
 わたしが逃げたら維月さんはどうするのだろう。逃げたらどうしようって、少しは……焦ってくれるんだろうか。
 あの日の、あの夜の維月さんの激しい抱擁を思いだしていた。維月さんの表情を曇らせたあの焦心を、もう一度見たいと……知りたいと、期待してしまった。
 悪戯なんて可愛いものじゃない。余裕だって、やっぱりちょっとしか持てない。
 これは独占欲だ。あの夜と同じ、浅ましい本音。
 維月さんは、そんなわたしの気持ちをきっと察してくれたのだろう。勘のいい、聡く優しい人だから。維月さんはいつだってわたしの我儘を叶えてくれるし、期待以上のことをしてくれる。
 維月さんからの返信文は短かった。挑んでくるような、それでいて包容力のある、維月さんらしい一文だった。
『逃げられては困るから、今夜、口止めしに行くよ』

* * *

 その夜、維月さんを訪ねてくれた。いつもよりは早めに上がれたとはいえ、やはり残業はあって、維月さんがわたしのアパートに着いたのは、すっかり夜も更けた頃になってからだった。
 結果的に維月さんを呼びつけるような真似をしてしまったことを悔いて、わたしは身を縮こまらせて謝った。そんなわたしの心を軽くしようと気遣って、維月さんは、
「よかった、逃げられてなくて」
 冗談めかして、そう言った。
 おどけたような口調だったけれど、維月さんは本気で安堵してるようだった。わたしを抱きしめる腕の力も、それを語ってた。
「逃げられたら口止めしようにもできないし、焦ったよ。間に合って良かった」
「……わたしこそ、待ってて良かったです。それにもう、…………」
 わたしも強く抱き返して、「逃げられそうもありません」と言って顔を上げ、笑った。「離さないでいてください」、それを言外に語った。維月さんは、分かってくれたと思う。
 そして維月さんは宣言通りに、わたしの口を塞ぐ。巧みに舌を使い、ひどく艶めかしく、甘やかに。
「美鈴」
 と、“高倉主任”がこっそりと教えてくれた“彼女”の名を繰り返し囁きながら。

* 終 *

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