いつもよりちょっと早目にバスタイムを切りあげ、髪をおおよそ乾かした状態でバスルームから出ると、わたしが出てくるのを待っていた維月さんが、にこりと笑って訊いてきた。
「美鈴、今日は何の日か知ってる?」
……何か、とても意味深で、悪戯っぽい笑みに見えるのは、気のせいですか、維月さん?
エアコンはドライ(除湿)モードになっていて、室内は程良く涼しいはずなのに、頬は上気し、動悸までし始めて、体が熱い。
不意打ちに、維月さんの艶おびた瞳とぶつかると、いつもそうだ。
「今日、ですか……?」
「うん、そう」
維月さんは少し小首を傾げ、突っ立っているわたしをじっと見つめてくる。答えを急かすようではなく、考え込むわたしの様子を見るのを楽しんでいるような目をしてる。
維月さんの隣に座ろうかなって思っていたのに、突然の質問に戸惑って足をとめてしまったわたしはそこから動かず佇んで、考えを巡らせた。
維月さんは艶笑を湛え、わたしを見つめている。
空の青さと雲の白さが眩しかった、今日。気温も三十度を優に超え、熱中症にお気を付け下さいとニュースや天気予報で繰り返されたほどの夏日だった。夕立もあって、そのせいなのか湿度も高く、夜の十時になってもまだ蒸し暑かった。
そんな蒸し暑い夜、維月さんは突然わたしのアパートにやってきた。もちろん電話連絡をくれた後。手土産にわらび餅を持ってきて、お風呂前に、二人で一緒に食べた。
今夜の維月さんはアルコール摂取量が少ない。度数も低い缶チューハイを一本空けただけだった。明日も仕事だからという理由もあったろうけど、普段ならもっと度数の高いものを飲むのに。
「そういう日もあるよ」
と言って、維月さんは苦笑した。気を悪くしたようではなかったけれど、維月さんは少し情けなさそうな表情をして、ため息をついた。
維月さんはさっきまでつけていたテレビを消し、代わりにCDプレーヤーのスイッチを入れ、ピアノ演奏のジャズを流していた。一昨日買ってきたCDで、けっこう気に入ってるアルバムだ。
耳に優しいムーディーなジャズは、熱気に当てられ、疲れきった夜にはちょうどいい。
「美鈴に合うね」
と、維月さんが感慨深げに言った。わりあいメジャーな曲ばかり入っていて、CDのパッケージにはジャズ初心者向けと書いてあった。そういう無難さが、なんとなく「わたしらしい」って気がした。維月さんは「そうじゃないよ」と笑った。
「無難といえば確かに無難だけど、それだけじゃない。個性的すぎず、それでいてちゃんと存在感があって、安心できる音だ」
そういうところが美鈴に似ていて、合っている。そう言ってくれた維月さんこそ、「安心させて」くれる人だ。いつもそうして、わたしの心を安らげてくれる。
――安らげてくれるのだけど、同時に、落ち着かなくもさせる人なのだ。
そんな維月さんが訊いてきた質問、「今日は何の日か」って……。
わたしは首を捻る。
「今日は、八月の……九日ですよね? えぇ…っと、終戦記念日は十五日だから……平和記念日でしたっけ、九日」
「平和記念日は六日」
「あ、そっか、そうでしたね。そういえばニュースで見たし……。それじゃぁ九日って、なんだろ……。八月って祭日もないし。あ! 八月の八で、なんか語呂合わせ的に、歯の日とか!」
「惜しい。語呂合わせ的なのはたしかにそうだけど、歯の日は十一月八日だったと思う」
十一で(いい)、八で(は)で、いい歯の日ってことか。なるほどと頷き、同時にそんなこと、維月さん、よく知ってるなぁと感心したし、ちょっとだけ呆れたりもした。
それにしても、思いつかない。八月九日。
……はちがつ……ここのか……はち、と、きゅう。
眉をしかめて「う〜ん」と呻るわたしを、維月さんは嬉しげに微笑んで熟視している。
維月さんはわたしの口から正しい解答が出てくるのを期待してはいないみたいだった。というより、わたしが正解を持っていないことを前提で訊いてきたような、そんな気がする。
維月さんはソファーベッドに座ったまま立ち上がらず、上半身を傾けてテーブルの上からグラスを手に取った。中身はミネラルウォーター。氷がカラリと涼やかな音をたてた。
先に風呂を済ませていた維月さんは、わたしがお風呂に入っている間に、テーブルに並んでいた缶チューハイの空き缶やつまみの乗った小皿なんかを全て片付けてくれていた。そのうえ、気の利く維月さんは、お風呂上がりでのぼせてるわたしのために、冷たい水を用意してくれていたのだから、本当にもう、至れり尽くせりだ。
維月さんのこういったさり気ない気の回し方には心底感心してしまう。
でも、せっかくうちに来てくれたのに、維月さんに気を遣わせてしまうなんて……。
寛いでほしいのに、わたしばかりが維月さんに甘えきって、なんだか申し訳ない気分にもなってしまう。
身を屈め、水滴で濡れているグラスを手に取った。滴がテーブルの上に、ぽたりと落ちた。膝をつき、そのまま腰をおろして、グラスを満たしていた水を半分ほど、一息に飲んだ。おかげで喉も潤い、茹だっていた体も少し熱が治まった。
コースターの上にグラスを戻してから、再び維月さんの方に顔を向けた。
「そ、それで、えっと……、今日は何の日なんですか?」
右斜め上に、維月さんの顔が見える。手を伸ばせば足に触れられる程には近いけど、微妙な距離だ。……隣に座りたかったのに、機を逃してしまった。
維月さんもグラスを置く。
そして上体を起こし直し、額にかかった前髪を押しつけるようにしてかきあげた。その仕草は気だるそうで、だけどひどく艶めかしい。
「今日は、……――」
維月さんは髪をかきあげた左手を、わたしに差し出した。その手を「取って」と、維月さんの瞳が語っている。
わたしは維月さんの手を取り、腰を浮かせた。それから維月さんに促されるまま、維月さんの左隣に座った。わたしの目は維月さんの目に固定されている。吸引力の強い瞳に。
手は、緩く繋いだままだ。維月さんの手は少し汗ばんでいて、冷たかった。
「今日は、ハグの日なんだって」
「はぐ?」
わたしが首を傾げると、維月さんはさらに目を優しく細めて笑った。
「うん、そう。ハグ。八と九で、ハグだからだって」
「はぐ……?」
語呂の説明をされてもピンとこず、目を瞬かせた。意味に気がついたのは、維月さんが「して、いい?」と訊いてきてからだ。
「…………」
わたしは「うん」と頷く代わりに、素早く維月さんに身を寄せ、ぎゅっと抱きついた。
「……美鈴」
その後すぐに、維月さんもわたしの腰に腕を回してきた。機先を制されてさすがに驚いたみたいだった。わたしの髪に頬を寄せ、維月さんは小さなため息をこぼした。
「維月さん」
「うん?」
「大丈夫ですか?」
「…………」
維月さんはわたしの肩口に額を乗せ、嘆息した。
流れていた音楽が止まり、維月さんのひそやかな息遣いが聞こえる。
――心配だった。
だって維月さん、少し具合が悪そうだった。たぶん暑気あたりだと思うけど、顔色もあまり良くなくて、疲れているように見えた。うちに来た時からそれは見て取れたから、心配だった。
今夜はわりあい早く仕事を切り上げられたようだけど、ここ数日残業が続いて、さらにこの連日の暑さ。さすがに体力も落ちて、夏バテしてしまったのかも。それに、気疲れだって溜まっていたに違いない。もしかしたら、体力的なことよりも精神的な疲れの方が大きいのかもしれない。
維月さんは仕事上の愚痴をあまり漏らさない。まったく言わないわけじゃないけど、控えているみたいだった。プライベートに関することでも、そう。いろいろと話してはくれるけど、弱音なんてめったに吐かない。
だから……本音を言ってしまうと、とても嬉しかった。
わざわざわたしに会いに来てくれたのは、少しでも溜まってた疲れをとるためなのかなって思ったから。「ハグの日」にかこつけて、甘えたくなったのかな……って。
「美鈴、……いい匂い」
「……っ」
ベッドが軋んだ。
維月さんの腕に力が入ったと思った瞬間、わたしはいともあっさり押し倒されていた。維月さんがわたしの上に覆いかぶさり、耳元で囁いた。
「重い?」
「…………」
重くないといえば嘘になるけど、嫌じゃない。だから、維月さんの背をきゅっと掴んで、応えた。
維月さんは今、どんな顔をしてるんだろう……?
肩口に顔をうずめて、顔を上げてくれない。
維月さんの鼓動が伝わってくる。熱っぽい吐息が耳朶にかかって、思わず肌が粟立った。
顔も見せてくれない。何も言ってくれない。
だけど、それでいいって思った。……こうして寄りかかってくれるだけで、十分。
ほんのちょっとだけ、こうしてるだけでちゃんと疲れがとれるのかな、心が癒されるのかなって心配だったけれど……。
「美鈴」
「はい」
「今夜、ずっとこうしてていい?」
維月さんは片方の肘を立てて少しだけ上半身を持ち上げ、やっと顔を見せてくれた。わたしを覗き込んでくる維月さんの目は、不安げな子供のようだった。それでいて、官能的な男性の色も含まれている。狂おしいほどにわたしを求めてくれている。あまりにも直截的なまなざしだった。
「……」
声に出さず、うんと頷いたわたしの眉間に、維月さんは優しいキスを落とした。
「今日、……来て、よかった」
胸がいっぱいになり、感極まって泣き出しそうになった。
維月さんのそのたった一言が、本当に……本当に嬉しかった。
「……維月、さん……」
いきなり泣き出して維月さんを困らせたくなかったから(維月さんはきっと困らないだろうけど)、少しおどけた口調をつくって、笑みを返した。
「今夜はずっと、こうして維月さんの抱き枕になってます。なんといっても、ハグの日なんですもんね!」
そうして、維月さんはわたしを抱き、心地よい睡眠を得たようだった。
眠りに就く前、わたし達は何度もキスをし、互いの抱擁を求め合った。そのおかげで少々睡眠不足になってしまったのは、予想の範疇。
* 終 *