ふわふわ、地に足が着かない。
それは気恥ずかしくなるほどの、幸福感。
そわそわ、常に気が落ち着かない。
それは自己嫌悪とも言える、不安感。
千々に乱れる感情は、日毎に強くなっていく気がした。
逃げ出してしまいたい衝動に駆られ、思い詰めてしまうことがある。
――いっそ、会社を辞めてしまおうか。
派遣社員という立場だから、それほどしがらみはない。他にも大勢派遣社員はいて、わたし一人が辞めたところで、会社的には何の支障もない。
だけど――……。
上司と部下という関係を切ってしまったら、高倉主任とわたしの「関係」はどうなるんだろう。
付き合い始めて間もない、わたしと高倉主任。
恋人同士という関係は、まだどこかぎこちない気がする。
ため息をついて、わたし自身を見つめた。
鏡に映るわたしはいつもどこか「揺れ」ている。
ゆらゆらと、甘い想いと苦い理性に、翻弄されている。
* * *
就業し、帰宅の途につくべく着替えを済ませ、会社を出る。
今日は珍しく残業をしたおかげで、ちょっと、疲れた。
現在、八時十分。三十分の電車に間に合うかな。
足早に、会社から離れる。一度肩越しに振り返ったのは、まだ会社に高倉主任が残ってるからだ。
「お先に失礼します」と軽く頭を下げ、目も合わせなかった。
高倉主任は他の社員さん達と同じように「お疲れ様」とだけ返し、わたしを引き止めたりはしなかった。
――何を期待したんだろう、わたし。
会社内では今までどおり、ただの上司と部下という関係を保とうと決めたのに。人の口に上らない振る舞いをしようって心がけてるのに。
いい大人なんだもの。公私混同なんてしちゃだめだって、……わかってるはずなのに。
夜空を仰いだ。
薄雲がかかって、霞んでる。
春の夜空はおぼろげだ。星の瞬きも薄くて弱い。
ため息は夜風に流され、消えた。
訳もなく……ううん、訳はあるのだけど、無性に寂しくなって、泣きたくなる。
――春って、厄介だ。
金曜日だからなのか、すれ違う人達の声は弾んだものが多い。
サラリーマン達、学生達、それから何の職種に就いているのか見た目では判断できない人達、その他様々な人達が駅の改札口を出、あるいは入ってゆく。
わたしの足取りは、気持ちと比例して、ひどく重い。
改札口まで、あと数歩。わたしは足を止め、時刻表を眺めやった。
最近ようやく独り暮らしを始めたわたしは、いつもここで間違える。
「あ、そうだ、違った」
八時三十分の電車じゃなく、三十八分だ、わたしが乗るのは。
つい、今まで乗っていた電車の発車時刻を見てしまう。
はぁ、と、ため息が知らずこぼれる。しみついた習慣って、なかなかとれないな。といったって、まだたったの二年だけど。
――そう、だ。
高倉主任と出会って、まだ二年。親しくなってからは、一年と半……くらいかな?
時間なんて関係ないって、高倉主任なら言うかもしれない。
わたしだってそう思いは、するけれど。
慣れないのは、時間のせいもあるのかなって思ってしまう。
「…………」
時間を再確認し、改札を通ろうとしたその時だった。
肩を掴まれ、止められた。
振り返るとそこに厳しい顔つきの高倉主任がいて、わたしは心底驚き、硬直した。
半ば強引に、高倉主任はわたしの手を掴んで歩き出した。
「あ、あのっ、高倉主任っ?!」
「送ってく」
「えぇっ?」
わたしは慌てた。
会社の人に目撃されたらどうしよう。背中に冷たい汗をかきつつ、辺りを見回した。
高倉主任は手を放してくれない。
「いいです、そんなっ。帰れます! まだそんな遅い時間じゃないし!」
「アパートまで送る」
「しゅっ、に」
高倉主任は無言のまま、駅のロータリーに停めていた車の助手席にわたしを押し込んだ。それから素早く運転席に乗り込み、エンジンを始動させる。
「あ、あの」
とまどいがちに、声をかけた。
高倉主任はこちらに顔を向けてくれない。視線も向けてくれない。心なしか怒ってるみたいな、硬い顔をしている。
沈黙が破れない。
わたしは縮こまり、俯いて唇を噛み締めた。膝の上で組まれた手が小刻みに震える。抑えようとすれば、するほどに。
どうしよう。
どうしたんだろう。
わたし、何かしたんだろうか?
思考がぐるぐる回って、不安が身体を拘束する。
重い沈黙の向こうにいる高倉主任を見つめるしかできなかった。
どれほど時が経ったのか。気づくと、車はアパートのすぐ近くまで来ていた。
高倉主任は路肩に車を寄せ、停車させた。ハザードがカチカチと鳴っている。
「美鈴」
高倉主任が、振り向いた。わたしの名を、刺すように呼んで。
「……っ」
わたしは視線を逸らした。
どうしよう。どうしたらいいの? 何を言えばいい?
胸が痛い。喉も鼻も痛くて、堪えきれない。
「美鈴、今日一日、ずっとそんなだったね?」
「…………」
「ずっと上の空で、辛そうにして」
「…………」
まるでひび割れたガラスに触れるような慎重さで、高倉主任はわたしの頬に触れた。
「何か、あった? ……それとも俺が、美鈴を泣かせるようなこと、何か、した?」
「……ち、がっ」
泣いてなんていません。
とは、言えなかった。――だって、泣いていた。涙が、わたしの意思を無視して、勝手に零れてた。
ぽたぽたと、それは膝の上に落ちて、ジーンズを濡らしてゆく。ぎゅっと瞼を閉じても、止まらない。
「――……ッ」
きりきり喉が痛んで、声は出ない。否定しようにもできなくて、もどかしさにさらに涙が溢れてくる。
「……美鈴」
カチリという金属音が、続けて二度聞こえた。それはシートベルトをはずす音。高倉主任とわたしの安全を縛っていたものが、はずれた。
高倉主任はわたしの肩を掴んで引き寄せ、抱きしめた。
うなじに当たる高倉主任の手は少しだけ汗ばんでいた。
「言いたくないなら言わなくていい」
その代わりに、とでも言わんばかりに、高倉主任はわたしを抱きしめる腕に力を込める。
「けど、もう嫌なら、今すぐに俺を拒んで」
「…………」
言ってることが矛盾してるよ、高倉主任。こんなにきつく抱きしめられて、どうやって拒めるの?
……ううん。
高倉主任は気づいてる。だからそんなことを言うんだ。
拒むつもりなんか無い。
だって原因は、わたし自身にあるんだから。
「…………ひ、どいです、…………維、月さん」
「うん」
「拒……ませ、ないで、くださ……っ」
「うん」
「傍に……居たいのに……」
「うん、わかってる」
「……っ」
暫時、高倉主任の胸に縋って、わたしは泣き続けた。
――会社を辞めてしまえば、維月さんと離れてしまえば、この気持ちは落ち着くの? 不安はなくなるの?
――この不安を消すことが、わたしのほんとの望みなの?
何分そうしてしたのだろう。
「すみ、ません」
ようやく涙は止まってくれた。だけど維月さんはわたしを抱きしめたままでいる。少しだけ、腕の力を緩めてくれた。
「すみません、急に」
わたしは身体を竦めた。肩を丸めて、維月さんの腕の中に、もっと、と、納まる。
温かいどころじゃなく、汗ばむほどに身体は熱い。だけど離れたくなかった。
泣き顔を、維月さんの胸に埋める。
「あの……、……維月さんのせいじゃ、ありませんから」
くぐもった声は、はたして維月さんに届いたろうか?
心配になって、繰り返そうとした。
「…………で、くれ」
だけど維月さんのかすれた声が聞こえ、わたしは戸惑いがちに顔を上げた。
間近に見つけた維月さんの顔は、微笑を湛えていた。優しく、苦しげな微笑だった。
維月さんは軽く瞼を閉じ、ため息とともに緩く目を開いた。
「俺も、原因の一つだよね?」
「え、あ……」
「美鈴の気持ちはわかってるつもりだから」
「…………」
維月さんはまたため息をつく。けれど微笑は崩さない。わたしを気遣って、言葉を選んでくれている。
「だけど、ごめん」
「え?」
「我侭言うけど、辞めないで欲しい」
「…………維、月さ……」
視界が滲んで、維月さんの顔がよく見えない。
「あくまで俺の我侭だから無理強いはできないけど、今のまま、辞めないでいて欲しい」
「維月さん」
頬を伝うものも拭わず、わたしは言った。
きっぱりと、言い切った。
「辞めません、わたし」
――だって、わかったから。
たとえ会社を辞めたところで、不安になるのは同じだ。
維月さんのことを好きだから、好きな想いと同じくらいに、不安になる。
それは認めなくちゃいけない。認めた上で、折り合いをつけてつきあっていけばいい。
不安を消す、そのことばかりに気を取られていては、もっと大切なものを失ってしまうかもしれない。
たとえばそれは、維月さんへの想い。そして、維月さんからの想い。
「辞めるなんて、……言いません」
「…………」
「わたし、頑張りますから。だから、見捨てないでいてくれると、嬉しい、です」
「ん、わかった」
維月さんはわたしの髪を撫ぜる。もう片方の手は腰を掴んでいて、また僅かに力がこもる。
「ごめんなさい、わたし、我侭ばかりで」
「こういうのは我侭って言わないよ、美鈴」
「え、そ、そうですか?」
にこりと、維月さんは笑った。今度は穏やかに、甘く。
「というか、美鈴の我侭ならぜひ聞きたいし。……ね?」
維月さんの、わたしを包んでくれる腕は、強くて熱い。
不安はいつしか薄らいでいた。
「あ、の、それじゃぁ維月さん」
我侭を言っても、きっと受け止めてくれる。そんな安心感が、維月さんにはある。
「我侭、聞いてくれますか?」
今夜はもう不安な気持ちになりたくない。
――だから。
思いきり、甘えてみることにする。
「維月さん、今夜はずっと傍に居てください」
そして、抱きしめていてください。
耳朶に口づけてから、囁く。
「喜んで」
維月さんは、悪戯っぽく艶めいた微笑を浮かべてる。
目を閉じてしまったから、わたしにその顔は見えないけれど。
* 終 *