高倉維月さんは、甘えさせ上手だ。
無意味に甘やかすのではなく、心の縛りを解きほぐすよう、緩ませすぎないよう程良い加減で、わたしを甘えさせてくれる。
とても心地よく甘えさせてくれて和やかな心持ちになるのだけど、その一方で、心も体も維月さんでいっぱいいっぱいになって、ほんのちょっぴり(かなり、かも)苦しくなってしまったりする。
維月さんが与えてくれる甘い刺激は中毒性が高すぎて、欲する気持ちが抑えられなくなってしまうくらい。それが怖くて臆してしまうことも往々にしてあるけれど、それでもやっぱり維月さんの優しくて激しい抱擁を求めずにはいられなくなる。
とくに、人恋しくなるこんな宵には……――
* * *
ヒガンバナの朱色が褪せ、キンモクセイの甘い香りも徐々に薄れて、風も冷たくなり始めたのを肌に感じるように、一人寝の寂しさをふと思ってしまう、秋澄む頃。
そんな秋の夜は、甘やかな誰かに傍にいてほしい。――その誰が高倉維月さんなのは言わずもがなだけれど。
維月さんは、わたしの心中を見透かしてか、それともわたしと同じ思いでいてくれたのか、終業後、夜更けてからアパートへやってきて、ゆったりと寛いでいる。すでにシャワーも浴び終え、パジャマ姿。
維月さんが着てるパジャマは先日わたしが贈ったもの。オーガニックコットンのニット素材、地色はアイボリーの格子柄。シンプルで無難なデザインだから、ちゃんと似合ってホッとした。肌触りの良さを維月さんも喜んでくれて、それも嬉しかった。
ちなみにわたしはガーゼ素材で色はブラウンの柄なしパジャマ。元から持ってたパジャマで、維月さんのを買った時に一緒に買い求めたものではない。買っておけばよかったかなと、ちょっとだけ後悔してたけど、その心中を維月さんはあっさり見透かして、「お揃いじゃないんだ」とからかうように笑った。ペアのパジャマなんて、いくらなんでも恥ずかしいですから!
お揃いのパジャマもあったし、買っておけばよかったななんて本心は、口が裂けても言えない。……それも見透かされてると思うけど。
お揃いはさておき、わたしと維月さんはぴったりとくっついて座っている。そして維月さんはわたしの濡れた髪を乾かしてくれている、という体勢だ。この体勢も恥ずかしいといえば、ちょっと恥ずかしいかもしれない。
維月さんは膝をたてて座り、両足でわたしを挟みこむようにして座っている。
維月さんは、まるでわたし専用の座椅子だ。――専用なんて言うのはおこがましいけれど。
マッサージチェアなんかよりもずっとずぅぅっとリラックス効果が高い。ただし、不埒な手や唇が度々悪戯を仕掛けてくるから油断はならない。といっても、それも承知の上でいるのだから、わたしの方こそが不埒なのかもしれない。
わたしの背後は、維月さんに対してはまったく無防備だ。
ドライヤーを当てられ髪を撫でられているうちに、体中がぬくぬくと温まって、気持ちも緩んでくる。
ドライヤーのスイッチを切ってから、維月さんは続けてブラッシングまでしてくれた。慣れた手つきで丁寧に髪を梳いてくれる。気持ち良くて、いつまでも梳いてて欲しいと思ってしまうくらい。
もしもわたしが猫だったら、思いっきり喉をごろごろ鳴らして、すっごく気持ちいいんだってことを維月さんに教えてあげられるのに。
「維月さんは、本当に甘えさせ上手ですよね」
「え?」
肩越しに振り返った途端、維月さんの優しい瞳とぶつかった。維月さんは少し首を傾げてわたしを見つめる。ブランデーの注がれたコーヒーのような艶色帯びた甘いまなざしを向けられ、心臓が高鳴りだし、眠気も飛んだ。
振り向いたままの姿勢では体も辛かったし、前に向き直った。維月さんの顔をまともに見てられなかったのもあるけれど。
「維月さんは、その、甘えさせてくれるのがすごく上手だなぁって。なんだかこう……自然に、気づくと甘えちゃってるような状況になっているというか」
そういえば維月さんはマッサージも上手だ。力加減も、強すぎず弱すぎずちょうど良くて、体のコリをまるで蕩けさせるみたいにほぐしてくれる、まさしく“神の
「上手かどうかは自分では分からないけど、美鈴を思いきり甘やかしたい気持ちは確かにあるよ。美鈴が俺に甘えてくれるのは嬉しいしね。ただ、……そうだな、そうすることで俺の方が美鈴に甘えきってるような、そんな気分になることもあるよ」
維月さんはふと笑みの混じったようなため息をつき、それからわたしの腰に両腕を回して、さらに体を寄せてきた。
確かにこの状況……というか姿勢って、甘えられているような気がしないでもない。甘えられているというか、ねだられているような……。ドキドキするし、ソワソワしてしまう。
「美鈴の方こそ甘えさせ上手だと思うよ。それに甘え方も上手だ。いや、上手というより、可愛い」
「……っ」
また維月さんは、臆面もなくそういうことをさらりと!
背中向けてて良かった! 瞬間沸騰して、今、顔、真っ赤だもの!
維月さんの、低すぎず高すぎもしない良く通る優しい声音も、器用で如才なく動く大きくと温かな手も、思いがけず逞しい広い胸も、わたしに安堵感を与えてくれ、甘え心も満たしてくれる。だけどその一方で、息苦しくなるほどのときめきが襲いかかってきて、胸が甘く疼いて痛くなる。
「わっ、わたしが甘え上手っていうならそれは全部維月さんのおかげで! 維月さんがそうさせてくれるからうまく甘えられるんです。それにっ、こんな風に甘えたいって思うのも、甘えてほしいなって思うのも、維月さん限定ですからっ!」
「……うん。それでいい」
維月さんの満足げな囁きが耳朶にかかり、そこに火がついた。
さっきから上がりっぱなしの心拍数もさらにまた上がって、――この心音、きっと維月さんにも聴こえてる!
「美鈴」
「……っ」
リラックスモードのスイッチ・オフ。まったりどころじゃないモードに切り替わったスイッチ音を、維月さんの吐息に聞いた気がした。たぶん、空耳なんかじゃなく!
「あっ、あのっ!」
「美鈴……?」
「お茶! お茶飲みませんかっ? 今日、新しいお茶を買ってきたんです」
「…………」
「中国茶なんですけど、わたしの好きなので、今の季節にピッタリのお茶で!」
「……じゃぁ、もらおうか」
そう言ってから、維月さんはそっと腕を離してくれた。
慌ただしく立ち上がったものの、気を悪くしてしまったかなと今更ながらに焦って、維月さんを振り返り見た。とくに不機嫌そうではなくてホッとした。でも、名残惜しげに苦笑いを浮かべているその表情が、なんだかいじけ顔の少年みたいで、少しだけ可笑しかった。
中国茶といえば烏龍茶とかプーアル茶がポピュラーで、他はフレーバーティーに分類されるかもしれないジャスミン
ジャスミン茶は好きで、飲む機会も多い。でも今日買ってきたお茶――
ベースになってる茶葉は烏龍茶で、そこに金木犀の花をブレンドしたもの。
買ったお店のオリジナルブレンドティーらしく、金木犀っぽい香りのするお茶は他にあって、
黄金桂も気に入ったのだけど、より好みだったのは桂花烏龍茶だった。フレーバーティーが好きだから、自分に合ったのもしれない。
封を開けると、そこからふわっと甘くて華やいだ芳香が立ち上り、鼻腔をくすぐってくる。
袋の背面に書かれた淹れ方の説明文に従って、お茶を淹れる。中国茶用の茶器はなくて本格的な淹れ方は出来ないけれど、耐熱性のガラスポットで代用した。
お湯を注ぐと金木犀の甘い香りが湯気とともに立ち、それが室内にも拡がっていく。
「これは金木犀の花……?」
室内を満たす花の香に、維月さんは少し驚いたような顔をし、わたしから耐熱性ガラスのグラスを受け取った。黄金色の茶は、金木犀の花の色よりはもっと淡く、よく飲まれているだろう烏龍茶の黄色よりはもっと濃い色をしている。
「桂花烏龍茶っていって、ジャスミン茶の金木犀バージョンと思ってもらえば」
「……へえ」
ちょっと戸惑ったような顔をして桂花烏龍茶を口に含んだ維月さんは、直後、わずかに眉をしかめ、「芳香剤を入れたようなお茶だな」と苦笑した。その反応に、わたしは焦ってしまった。
「もしかして、そういうお茶、だめでした?」
「……いや、だめという程でもないけど、……まぁ、どちらかと言えば苦手かも……」
「そう、でしたか……」
残念……。
しゅんと顔を俯かせ、それからわたしもグラスを手に取り、桂花烏龍茶を口に含んだ。
お店の人ほどうまくは淹れられないけど、けっこう美味しく淹れられたと思う。甘い金木犀の香りが口内にひろがる。
維月さんにも美味しいって思ってもらえたら嬉しかったけど、苦手なものはどうしたってあるし、こればかりは仕方ない。
「美鈴はそういう甘い系の香りが好きだね。シャンプーもさっぱりした甘い香りで……バラではなさそうだけど?」
「今使ってるのはヴァーベナっていうハーブのシャンプーで、香りの元は花じゃなくて葉っぱなんですよ。この香りもすごく好きで、ハンドクリームも同じメーカーの同じシリーズのもの使ってるんです。そのうちソープとかローションとかも買っちゃいそうなくらい。……維月さん、あの……こういう香りは平気ですか?」
「うん」
「……好きだと、いいんですけど……」
「もしかして、好きだと言わせたい?」
「…………」
ううっ、お見通しですね。――恥ずかしくて居たたまれないっ。
いざ口にしてみるとこんな恥ずかしい台詞だったなんて!
身を縮こまらせて、程良い感じに冷めて飲みやすくなった桂花烏龍茶を飲んでグラスを空けた。
ちらりと横目で維月さんを見やると、金木犀の芳香が漂ってきそうな甘くて艶めかしい微笑があって、わたしを見据えていた。
「お茶の方の香りも、この状態でならいくらでも飲める」
「え?」
そう言ってから、維月さんはやにわにわたしを抱き寄せ、深く口づけた。
「……っ」
「甘くて、美味い」
「……いっ、つ……んん……っ」
舌を吸われて、唾液も舐められ、息まで呑まれて頭の芯がクラクラとしてくる。
息が苦しくなり、維月さんの背を叩いて抗議すると、やっと唇を解放してくれた。だけど維月さんの腕はさらに力強くなって、気づけばソファーベッドの上に押し倒され、組み敷かれていた。
維月さんの甘やかで悪戯っぽい微笑が、吐息がかかるほど近くにある。維月さんは鼻先をくっつけて、わたしを見つめる。その熱いまなざしがわたしを捕らえて離さない。
「本当に参るな。美鈴の甘え方には。――にくらしくなるね」
それは、維月さんの方こそですからっ!
桂花烏龍茶は維月さんの口に合わなくて残念だったけど、わたしの密かな思惑は叶えられた――と、思う。
金木犀の花言葉の通りに、とびきり甘く、“あなたの気を引きたい”夜だったから。
* 終 *